2017年5月7日日曜日

阿呆鳥

ラカン派は、なんでもかんでも対象aだ、と言ってくる人がいるが、これは言い古されたクリシェにすぎない。対象aと呼ぼうが何と呼ぼうがかまわない。そもそも言語記号(シニフィアン)を使用する人間は常に残余に遭遇する。この残余を、ラカン派では「a」と呼ぶだけである。

たとえば〈私〉と発話する。一人称単数代名詞の〈私〉である。この表象行為は、私自身と一致しない。もちろん〈私〉というシニフィアンだけではない。

すべてのシニフィアンの性質はそれ自身をシニフィアン(徴示)することができないことである il est de la nature de tout et d'aucun signifiant de ne pouvoir en aucun cas se signifier lui-même.( ラカン、S14、16 Novembre 1966)

どのシニフィアンも同じである。これをバディウは、《l'Un n'est pas》と呼んだ。《「一」は(そうでは)ない》とは、どのシニフィアンもそれ自身ではない、ということである。

この《l'Un n'est pas》とは、バディウが《ラカンの後、どんな哲学もない、もしラカンの「反哲学」の試練を経ないなら》と言い放った理由の核心表現の一つである。

ラカンはこれを、« Un +(a) »と記した。あるいは、

常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a)  (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

すなわち、シニフィアン l'« Un » には、常に残余としての (a) がある。

ーー数学以外に「一」l'Un はない、《Il n'y a pas d'autre existence de l'Un que l'existence mathématique 》(S.19)


次の二文も同じことを言おうとしている。

言語とはもともと言語についての言語である。すなわち、言語は、たんなる差異体系(形式 体系・関係体系)なのではなく、自己言及的・自己関係的な、つまりそれ自身に対して差異 的であるところの、差異体系なのだ。自己言及的(セルフリファレンシャル)な形式体系ある いは自己差異的(セルフディファレンシャル)な差異体系には、根拠がなく、中心がない。( 柄谷行人「言語・数・ 貨幣」『内省と遡行』所収、1985 年)
表象は、「過剰なものへの無限の滞留 infinite tarrying with the excess」である。それは、表象された対象、あるいは表象されない対象から単純に湧きだす過剰ではない。そうではなく、この表象行為自体から生み出される過剰、あるいはそれ自身に内在的な「裂け目」、非一貫性(非全体pas-tout)から生み出される過剰である。現実界は、表象の外部の何か、表象を超えた何かではない。そうではなく、表象のまさに裂け目である。 (アレンカ・ジュパンチッチ2004 “Alenka Zupancic、The Fifth Condition”)

ラカン派では、表象行為自体から生れる過剰あるいは残余を、対象aと呼んでいるだけである。

もし上の文が分かりにくいようであれば、高橋悠治が日常的言葉遣いでほとんど同じことを語っている文から始めればよろしい。

よく定義されたことばをつかって書くことは およそ論議のなされるための原則と言えるだろう このこと自体がすでに 語り尽くすことができないものを わかったように語るという罠にかかっている ひとつのことばが厳密に定義できるなら それは意味するものとしての記号にすぎないだろう 世界のかわりにそれをあらわす記号を操作しても 無限を有限で置きかえるこの操作からのアプローチは 逆に無限回の操作を要求することになる 推論はかならず反論をよび 論理の経済どころか ことばは無限に増殖する (現代から伝統へ  高橋悠治

この認識がない種族を阿呆と呼ぶ。