2017年5月8日月曜日

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!

《アリアドネよ、私はお前を愛する。 ディオニュソスより》(コジマ・ワーグナー宛、1889年1月3日)

わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』)

まさかこう並べただけで、アリアドネがコジマ・ワーグナーだと誤解するキャベツ頭はいないだろうが、念のため、まさか!! とくり返しておく。

ところでアリアドネとはニーチェ自身の身体であろうか? 

これがここでの問いである。

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)
《私の愛するもの、愛さないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌い des goûts et des dégoûts を集めたこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象である。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、自由主義的に寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

とはいえ、まさかアリアドネがニーチェの身体自体ではあるまい。

とすればなんだろうか?

《身体は穴である corps……C'est un trou》(ラカン、1974)。

アリアドネは穴である。とすれば誰がニーチェの身体に穴を開けたのか問わねばならない。穴とはもちろん穴ウマのことである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )


さてはたして誰だろうか?もはやあまりにも当たり前のことなので、書き記すのはやめておくべきか。だがなぜこんなことがいまだおわかりになっていないのだろうか、ケンキューシャ諸君は? ニーチェの問いかけから一世紀半近くたとうとしているのに。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻」)
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番)

最も静かな時刻に 、《私の内部の夜の身体を拡張 dilater le corps de ma nuit interne》(アルトー)すれば、穴があらわれその深淵から女主人の声が聞えてくるに決まっているのである。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。(『善悪の彼岸』146節

その声とはララングとしてのリトルネロ(永遠回帰)である。

・le labyrinthe désigne l'éternel retour (Deleuze, Nietzsche et la philosophie,1962)
・ritournelle est éternel retour(Deleuze, ,1968)
・lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974))


追記)二番目の引用は不正確である。次の二つの文をミックスしたわたくしの記憶違いであった。

・La rengaine, c'est l'éternel retour comme cycle ou circulation, (Différence et répétition、1968)

・Rappelons-nous l'idée de Nietzsche : l'éternel retour comme petite rengaine, comme ritournelle, mais qui capture les forces muettes et impensables du Cosmos.(MILLE PLATEAUX, 1980)




賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』)

…………

身体とララングとの最初期の衝撃。これが、法なき現実界、論理規則なき現実界を構成する。choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique (ミレール2012, Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER)
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )

ララング lalangue、すなわち、《母の言葉(母の舌語 la langue dite maternelle)》(S20)である。


〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

もっとも学者のお方々がなかなか気づかないのはやむえないことである。彼らは「最も静かな時刻」を知らないのだろうから。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

変態作家クロソウスキーははやくから分かっていた、《コジマの徴のなかの〈母〉を征服するニーチェの意図 le propos de conquérir la Mère sous les traits de Cosima》(『ニーチェと悪循環』1969)

ここで最も注意しなければいけないのは、小文字の母ではなく大文字の母 la Mère だということである。

デッサンまで描いている。

(クロソフスキー《ディアーナとアクタイオーンII》1957 )