2017年5月9日火曜日

朝の歌

◆シューマン「朝の歌」op133 第四曲、Caspar Frantz



いやあ実にいい音だ、1913年 Ibach concert grand piano(ドイツ手作りピアノ)だそうだが、このまだ若い Caspar Frantz というピアニストも上手いのかもしれない。バッハ弾きのようだが。

この朝の歌は、Piotr Anderszewskyで聴くことがほとんどだが、彼の第四曲は、わたくしには騒がしすぎる(ロラン・バルトが愛した第一曲は、今のところ特権的にAnderszewsky の演奏を好む)。





この朝の歌は、内田もポリーニも、シフもわたくしにはダメで、Edith Picht-Axenfeld はかなりのお気に入り。彼女はもともとチェンバロ奏者で、バッハ弾き。

ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)