2017年5月9日火曜日

「鳩の足」と「鳩歩む」

ニーチェの「鳩の足 Taubenfüssen」とヴァレリーの「鳩歩む marchent des colombes」をめぐって。

ーー独語 Taube は聾者、仏語 colombe は柱の意味もある。

どちらもとても美しい表現である。あまり多くの詩を読んできたわけではないわたくしだが、この詩句は少年時代にめぐりあって、いまでも何かのおりに想い起す数少ない貴重なものである。なにかの折とは、おおむね「最も静かな時刻」に遭遇したとき、と言ってもよい。

嵐をもたらすものは、もっとも静寂なことばだ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだ。

Die stillsten Worte sind es, welche den Sturm bringen. Gedanken, die mit Taubenfüssen kommen, lenken die Welt.(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」 手塚富雄訳)
鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間(ま)に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め

Ce toit tranquille, où marchent des colombes,
Entre les pins palpite, entre les tombes;
Midi le juste y compose de feux
La mer, la mer, toujours recommencée
O récompense après une pensée
Qu'un long regard sur le calme des dieux!

ーーヴァレリー「海辺の墓地 Le cimetière marin」冒頭、中井久夫訳

ヴァレリーの「真昼 Midi」に反応しよう。

ニーチェ「正午 mittags」(手塚富雄訳)より

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。――

Das Wenigste gerade, das Leiseste, Leichteste, einer Eidechse Rascheln, ein Hauch, ein Husch, ein Augen-Blidk - Wenig macht die Art des besten Glücks. Still!

わたしに何事が起こったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。

Was geschah mir: Horch! Flog die Zeit wohl davon? Falle ich nicht? Fiel ich nicht - horch! in den Brunnen der Ewigkeit? 

あるいは、

真昼(正午)。最も影の短い刻限 Mittag; Augenblick des kürzesten Schattens(ニーチェ『偶像の黄昏』)

アレンカ・ジュパンチッチは、そのニーチェ論で、この「最も影の短い刻限」のことを、「時のなかの穴 hole in time」、「永遠の井戸 well of eternity」と表現している。

中井久夫にも「時間の井戸」という表現がある。

トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)

ところで、「永遠の泉 Brunnen der Ewigkeit」 とトラウマ的でありうる「時のなかの穴 hole in time」・「永遠の井戸 well of eternity」とどう異なるのだろう(ラカンはトラウマのことを「穴ウマ troumatisme 」(S21、19 Février 1974)と言っている)。

わたくしは次のような感覚に襲われることがしばしばある。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

短い間であればある種の「幸福感」をもつ。だが続けざまにそうなると、穴の底に吸い込まれていく感覚をもつ。それは次の三者が言っている通り。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
無意志的記憶 la mémoire involontaire の啓示は異常なほど短く、それが長引けば我々に害をもたらさざるをえない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
現在の瞬間であると同時に遠く過ぎさった瞬間 le moment actuel et dans un moment éloigné でもある場、過去を現在に食いこませその両者のどちらに自分がいるのかを知ることに私をためらわせるほどの場(……)。もし現時の場所 le lieu actuel が、ただちに勝を占めなかったとしたら、私のほうが意識を失ってしまっただろう、と私は思う、なぜなら、そうした過去の復活 résurrections du passé は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気 l'air de lieux pourtant si lointains を吸うことを余儀なくされ、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所 les lieux présents とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられるからである。(プルースト「見出された時」)

だからレミニサンスというのは、場合によっては、あまりいいもんじゃない。意識を失うところまではもちろんいかないが、精神の均衡がかなり崩れる。具体的にどういう風になるのかは、人には言いたくない。

私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…これは触知可能である…人がレミニサンスréminiscenceと呼ぶものに思いを馳せることによって。…レミニサンス réminiscence は想起 remémoration とは異なる。

…私は、現実界は法のないsans loiものに違いないと信じている je crois que le Réel est, il faut bien le dire, 。…真の現実界は法の不在を意味する Le vrai Réel implique l'absence de loi。現実界は秩序を持たない Le Réel n'a pas d'ordre。(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)
「私なら失われた時など求めはしない。そういうものはむしろ退けるくらいだ」とプルースト追悼の際にポール・ヴァレリーは書いた。彼が「知性の巨人」で済まされなくなった今、彼はむしろ過剰な記憶に苛まれた人hypermnesiqueではなかったかと思われる。「初めから失われていた恋人」ともいうべき二十八歳年長のロヴィラ夫人への生涯の執着はほとんど時間が停まっているかのようである。サマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」といって九十歳になんなんとして自殺した。忘却を人は恐れるが忘却できないことはいっそう苛酷である。プルーストも、母の死後の時間は停止していたに近い。最後はカフェ・オ・レによって辛うじて生存し、もっぱら月光のもとでのみ外出し、ひたすら執筆に没入した。記述を読むと鬼気がせまってくる。

私には、『失われた時を求めて』の話者の記憶は、抑圧を解除されたフロイト的記憶よりも外傷的なジャネの記憶の色を帯びているように思える。プルーストの心の傷の中には、母親に暴言を吐き、ひょっとすると暴力を振るってしまったことによる傷があっても不思議ではないと私は思う(『ジャン・サントゥイユ』あるいはペインターの『プルースト伝』参照。私は初めて『失われた時を求めて』を読んだ時、作家は家庭内暴力を経ている人ではないかと思った)。もっとも、『失われた時を求めて』は贖罪の書では決してない。むしろ、世界を論理的に言葉で解析しつくそうとするドノヴァンとマッキンタイアのいう子どもの努力のほうに近いだろう。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」『日時計の影』所収)

…………

わたくしは高所恐怖症という症状があるが、自分ではたいしてひどいものではないと思っている。実際、マンションの6階に10年ほど住んだが、なにも恐怖感はなかった。

ここでフロイトのおそらく唯一の「高所恐怖症」の記述を想い出しておくことにする。

……外部(現実)の危険は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

この文に註がついている。

※註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実の不安に幾分か欲動の不安がさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動の要求は、自分自身にむけられた破壊欲動であるマゾヒスム的欲動であるかもしれない。おそらくこの添加物によって、不安反応が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺し、脱落する場合が説明されるだろう。高所恐怖症(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近いものである。(同『制止、症状、不安』)

なぜこの文を想い起したのか、というのもあまり記したくない。

感覚が尖ってしまったときは、ある種の音楽を敬遠するようになる。そういうときは、たとえばヴェーベルンなどは絶対聴いてはならない。

……遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(ミシェル・シュネデール「グールド、ピアノソロ』)