私、アントナン・アルトー、一八九六年九月四日、マルセイユ、植物園通り四番地にどうしようもない、またどうしようもなかった子宮から生まれ出たのです。なぜなら、九カ月の間粘膜で、ウパニシャードがいっているように歯もないのに貪り食う、輝く粘膜で交接され、マスターベーションされるなどというのは、生まれたなどといえるものではありません。だが私は私自身の力で生まれたのであり、母親から生まれたのではありません。だが母は私を捉えようと望んでいたのです。(『タマユラマ』)
ひろげた二つの腿の中央に腹部が楔のように入り込む時、腿の形づくる逆三角形は、不吉な空間にエレボスのうすぐらい円錐体を再現する。そして月の月経をむさぼる者に手を借す太陽的陽物像の崇拝者はその不吉な空間に己が興奮をそそぎこむ。(『ヘリオガバルス または戴冠せるアナーキスト』)
そして興奮の絶頂、狂乱の最中、声がしわがれ、女性的な生殖のアルトに変わる時、きまってヘリオガバルスが現われる。太陽の宝冠を戴き、火のように燦く無数の宝玉をちりばめたマントを身にまとい、金に浸して金泥に覆われた、不動の、硬直した、無用にして無害な男根を露にし、恥骨の上には一種の鉄の蜘蛛をつけているが、サフラン色の粉を塗った臀を過度に動かすたびに蜘蛛の足は彼の皮膚を擦りむいて血を流させるのだ。(同上)
ヘリオガバルスの残酷さの中に奇妙なリズムが入りこんでいる。秘伝を授けられたこの人物は、すべての行為を巧みに、そして二重に、だぶらせてしまう。つまりすべてが二重の平面上に成り立っている。彼のしぐさ一つ一つが両刃の剣なのである。
秩序-無秩序
統一-アナーキー
詩-不協和
リズム-不調和
偉大-幼児性
寛大-残酷
(同上)
女性が改悪した自然の力が女性に反対して、女性によって解放されるであろう。この力とは死の力である。
Une force naturelle que la femme avait altérée va se libérer contre la femme et par la femme. Cette force est une force de mort.
それは性の暗い貪欲さを持っている。それが呼び覚まされるのは女性によってであるが、統率されるのは男性によってである。男性から切除された女性なるもの、かつて女性が踏みにじった男性たちの鎖に繋がれた優しさがあの日一人の処女を復活させたのだ。しかしそれは身体もなく、性もない処女であって、ただ精神のみが彼女を利用できるのである。
ELLE A LA RAPACITÉ TÉNÉBREUSE DU SEXE. C’EST PAR LA FEMME QU’ELLE EST PROVOQUÉE MAIS C’EST PAR L’HOMME QU’ELLE EST DIRIGÉE. LE FÉMININ MUTILÉ DE L’HOMME, LA TENDRESSE ENCHAÎNÉE DES HOMMES QUE LA FEMME AVAIT PIÉTINÉE ONT RESSUSCITÉ CE JOUR-LÀ UNE VIERGE. MAIS C’ÉTAIT UNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE, ET DONT L’ESPRIT SEUL PEUT PROFITER.(『存在の新たなる啓示』)
〈父〉は彼自身の身体の主人だったのではなく、身体の苦痛があらゆる〈父〉たちを作り出したのであり、永遠に自らの父、すなわち〈神〉を殺したのである。というのも、その苦痛は別の名を持っていたからであり、〈七つの苦痛の母マリア〉がそれに値したのである。すなわちそれは彼女の〈息子〉であり〈他者〉である。つまり決して〈神〉ではなく、その永遠の殺害者となるものだろう。際限のない〈悪魔〉と闘争する、不可視の内部を持つ十字架。(『OCXI』)
せめて人々が自分の虚無を味わうことだけでもできたら、自分の虚無のなかでよく憩うことができたなら、そしてその虚無がある種の存在ではなく、かといってまったくの死でもないとしたなら。
もう実在しないこと、何かのなかにもう存在しないことは非常に辛いことである。ほんとうの苦しみは、思考がこころのうちで移動するのを感じることである。けれども、ひとつの点のような不動の思考はたしかに苦しみではない。
ぼくはもはや生命に触れないそうした点にいるが、ぼくの裡には存在のあらゆる欲望と――執拗な瘙痒感がある。ぼくはもう、自分をつくりなおすという一つのことにしか専念しない。(『神経の秤』)
酸っぱい、わずらわしい、刃物と同じくらい強力なある苦悶というものがあって、その四裂きの刑には地球の重みがある。身動きできない虱や固い南京虫のように締めつけられ、圧迫された深渕の句切りのような稲妻のような苦悶、精神が首をくくって、自らを切断して――自殺する苦悶というものがある。苦悶は自分に所属するものは何も消耗させず、それ自らの窒息から生まれ出る。苦悶は骨髄の凝固、精神的な火の不在、生命の循環の欠如である。
けれども阿片による苦悶にはまた別の色彩があって、それにはあの形而上学的な傾向、アクセントのあるみごとな未完成がない。ぼくはこだまと洞穴と迷路と回路とで満たされた苦悶を想像する、よく喋る火の舌と動きまわる心の眼と理屈っぽくて暗い雷の音とで満たされた苦悶を想像する。
けれども、ぼくはそのとき、よく自己集中してはいても無限に分割可能な、ありのままの物のように持ちはこび可能な魂を想像する。闘うと同時に同意し、あらゆる意味でその舌(言語)を回転させ、その性を多様化し――そして自殺する魂を想像する。
糸をほぐされたほんとうの虚無、もはや器官を持たない虚無を知る必要がある。阿片の虚無は自らの裡に、暗い穴を位置づけた考える額の形のようなものを持っている。
ぼく自身は穴の不在について語る、形も感情もない冷やかな一種の苦しみについて語る、それは筆舌につくしえない流産の衝撃のようなものだ。(『冥府の臍』)
…………
いまあらためて読むと味わいぶかい。というのはこれらの文を六年ほどまえにメモしてから、わたくしはラカンをいくらか読むようになった(それまではセミネールⅠとジジェク解釈のみだった)。
《私の内部の夜の身体を拡張すること[dilater le corps de ma nuit interne](アルトー)。
ラカンによる身体の享楽 a jouissance du corps とは、女性の享楽 La jouissance féminine、他の享楽 l'autre jouissance とも言い換えられる。享楽する実体 substance jouissante、身体の実体 substance du corps、(a)-natomie 、(a)sexuéeという語彙群もそれにかかわる。
そしていまアルトーを読むと、ラカンの (a)-natomie 、(a)sexuée とは、アルトーのUNE VIERGE SANS CORPS, NI SEXE(身体もなく、性もない処女)のパクリではなかろうか、とふと思いを馳せるわけだ・・・
ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。
身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(対象a? の[解剖学的]構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的ー対象a性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDF)
アルトーには、satis-fous(マヌケ満足=満抜け)という表現があるが、ヴェルハーゲの注釈する a から a/− φ への移行により、女性の享楽がファルスの介入により変換されてしまったときのファルス享楽のことではないだろうか。それがアルトー曰くの maison de chair close (閉ざされた肉塊の家)ではなかろうか。
そしてファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、アルトーの心の娘 filles de cœur (来るべき娘 filles-à-venir 、来るべき身体 corps-à-venir)ではないだろうか。これがラカンの女性の享楽 La jouissance féminine(身体の享楽la jouissance du corps)であり、ここでもラカンはアルトーをパクったのではなかろうか・・・
ラカンは1938年に、パリ大学医学部のサンタンヌに収容されているアルトーを訪れ、「この男は決してふたたび書けないだろう」とかオッシャテいたらしい。後年、アルトーの方から、docteur Lについて、あのおっちゃんは érotomanie だよ、と「診断」されている。
ところで現在の主流ラカン派(とくにミレール派)は上に挙げた語彙群を、「話す身体 le corps parlant」という表現に収斂させて問うている。
すべてが見せかけではない。ひとつの現実界がある。社会的紐帯の現実界は、性関係の不在であり、無意識の現実界は話す身体である。tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. (ミレール『無意識と話す身体』2014、L'inconscient et le corps parlant par JACQUES-ALAIN MILLER)
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient » (S.20)と。
この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。
しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。(ヴェルハーゲ、2001、Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、PDFーー話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)
ーーもちろんここでも、アルトーの「舌語」と訳される「グロソラリ」を喚起するために敢えて、 la langue dite maternelleを「母の舌語」と訳した・・・
ge re ghi
regheghi
geghena
a reghena
a gegha
riri
話す身体 le corps parlant とは、自ら享楽する身体 un corps joui である。
女性性は、女にとって(も)異者である。したがって、彼女自身の身体という手段にて、女は「他の女」の神秘を敬う。「他の女」は、彼女が何なのかの秘密を保持している。すなわち、他の女を通して、リアルな他者を通して、彼女が何なのかを具現化しようと試みる。 ……
純化されたヒステリアの目的は、リアルな身体を作ることである。その身体のなかには、症状が住んでいる。症状の能動化の肉体的場。これがヒステリー的女の挑戦である。この身体、「症状の出来事」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。
言説に囚われた身体は、他者によって話される身体、享楽される身体である。反対に、話す身体le corps parlantとは、自ら享楽する身体un corps joui である。(The mystery of the speaking body,Florencia Farías, 2010、PDF)
とはいえ、これらは享楽欠如を享楽することである(という見解を、いまのところ、わたくしはとる)。たとえば、コレット・ソレールは後期ラカンを、存在欠如 manque à être から享楽欠如 manque à jouir への移行としている(参照)。あるいはロレンツォ・キエーザ(ジジェクの弟子筋)は次のように言う。
享楽は「苦痛のなかの快 pleasure in pain 」である。もっとはっきり言えば、享楽とは対象aの享楽と等しい。対象aは、象徴界に穴を引き裂く現実界の残留物である。大他者のなかのリアルな穴real hole としての対象aは、次の二つ、すなわち剰余-残余のリアルの現前としての穴、そして全体のリアルWhole Realの欠如ーー原初の現実界 primordial Real は、決して最初の場には存在しないーー、すなわち享楽不在としての穴である。
リアルreal な残余のこの現前は、実際のところ、何を構成しているのか? 最も純粋には、剰余享楽(部分欲動)としての「a」の享楽は、享楽欠如を享楽することのみを意味する。なぜなら、享楽するものは他になにもないのだから。(ロレンツォ・キエーザ「ラカンとアルトー」 、Lorenzo Chiesa、Lacan with Artaud: j'ouïs-sens, jouis-sans, jouis-sens、PDF)
…………
※付記
いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化といった流体的伝勤によって、一切のことを行なう。これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」)
器官なき身体は、根源的な無の証人でもなければ、失われた全体性の残骸でもない。とりわけそれはなにかの投影ではない。固有の身体そのものとは、身体のイメージとは無関係である。それはイメージのない身体なのである。それは非生産的なものでそれが生産されるまさにその場所に、二項的ー線型的系列の第三の契機において存在する。(中略)器官な充実身体は、反生産の領域に属している。しかし、生産を反生産に、また反生産の一要素に連結することは、やはり接続的総合のひとつの特性なのである。 (ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オディプス 』 )
「私はあやゆる流れるものを愛する。あの月経の流れさえも。受精しなかった卵を運ぶあの月経の流れさえも・・・・。」ミラーは彼の欲望の賛歌においてこう言っている。羊水の袋と腎臓の結石。毛髪の流れ、涎の流れ、精液。糞、尿の流れ。これらの流れはもろもろの部分対象によって生産され、またたえず他の部分対象によって切断され、これがまた他の流れを生産し、生産された流れはまた別の部分対象によって再び切断される。あらゆる「対象」は流れの連続を前提とし、あらゆる流れは対象の断片化を前提としている。おそらく、それぞれの 〈器官機械〉 は、自分の流れにしたがって、自分自身から流れ出すエネルギーにしたがって、世界全体を解釈する。眼はあらゆることを、語ることも、聞くことも、排便することも、性交することも、見るという言葉で解釈する。(同上)
われわれはしだいに、CsO(器官なき身体)は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。CsOは器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ。CsOは、器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない「真の器官」と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)