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2016年9月19日月曜日

確かめるべきは、むしろ目ではないのか?

125 “両手はあるか?”と盲人に聞かれ、両手が見えたから確信できるのか? なぜ、自分の目が確かだと信じうるのか。確かめるべきは、むしろ目ではないのか? 両手が見えているかどうか。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』――ゴダール『JLG/自画像』より→Godard JLG JLG II Wittgenstein leeres Blatt

…………







【ウサギとアヒル】




…… 人はこれをウサギの頭とも、アヒルの頭とも見ることができる。

すると私は、一つの相の「恒常的な見え」と、一つの相の「閃き(アウフロイヒテン)」とを区別しなければならない。

像はすでに私に示されていたが、私はそこにウサギ以外の何ものをも見てはいなかったということがありうるのだ。  (ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)


【ネッカー・キューブ】―――”Optical Illusion Images

キューブはいくつあるだろうか。6個か10個か?







【マネとティツィアーノ】





なぜマネの《オランピア》はスキャンダラスな作品となったのか。当時のブルジョワたちが抵抗なく受け入れていたティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》のほうが艶かしく卑猥ではないのか。





オランピア=娼婦という画題、あるいは犬が猫(女性器の隠語)に置換されているせいだけなのか。黒人のメイドが〈あなた〉からの花束を渡そうとしているせいなのか?

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)




ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジュールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)


「内的な現実(réalité intérieure)」や「思考する形式(une forme qui pense)」とは何を意味するのか。映画とはイマージュではなかったのか。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)





【ボロメオ結び】





(想像界 I =イマージュ、現実界 R =無、象徴界 S =フォルム)




イマージュの環は無の環を蔽っている(イマージュは無を支配しようとする)。フォルムの環はイマージュの環を蔽っている(イマージュはフォルムに従属する)。だがフォルム自体は無に(一部)被われている(フォルムは無との関係において欠如がある)。したがって、フォルムに従属したイマージュは無の支えが必要である。





【ベラスケスとバルテュス】

なぜラカンはフーコーの名高いベラスケス解釈をめぐって、フーコーとひと悶着おこしたのか(フーコーはラカンのセミネールに「穏やかな殴り込み」をしている)。


(Las Meninas,Diego Velázquez)

それはおそらく、この絵のなかでも、この絵がいわば本質をあきらかにしているあらゆる表象関係におけると同様、見えているものの底知れぬ不可視性がーー鏡や反映や模倣や肖像にもかかわらずーー見る人の不可視性と固く結びあっているということであろう。(ミシェル・フーコー『言葉と物』)

1,Thomas Brockelman、Lacan flips Foucault over Velázquez、
2,Lacan,L’objet de la psychanalyse S XIII, 1965-1966.PDF






なぜラカンは、バルテュスの「街路」にはベラスケスの「侍女たち」があると言ったのか。

« Voilà Les Ménines. »



(Dans la rue de Balthus)


…………

※付記

以下の訳文は regard に相当する言葉が「視線」と訳されているが、現在ではおおむね「眼差し」と訳される、「目と眼差し L’œil et le regard」という形で(だが敢えて変更はしない)。

現代思想に精通している読者は、おそらく「視線」や「声」を、デリダ的な脱構築作業の第一の標的とみなす傾向があるに違いない。視線とは、「物自体」をその形式の厳然の中で、あるいはその現前の形式の中で捉えるテオリアでなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前を可能にする純粋な「自己作用」の媒体でなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前presence- to-itselfを可能にする純粋な「自己作用auto-affection」の媒体でなくして何であろう。「脱構築」の目的は、ほかでもない、視線がつねに・すでに「下部構造の」ネットワークによって決定されていることを暴露して見せることである。何が見え、何が見えないか、その境界を設定するのはそのネットワークである。見えないということはつまり、視線――「自己反省的」再専有によっては説明できない縁〔マージン〕あるいは枠――による捕獲から必然的に逃れるもののことである。それと同様に、脱構築は、声の自己現前がつねに・すでに書記writingの痕跡によって引き裂かれ/引き延ばされていることを暴露する。

しかしここで、われわれが注目しなければならないのは、ポスト構造主義的脱構築とラカンの間には何の共通点もないことである。ラカンは視線と声の機能を脱構築とはほとんど正反対の方法で説明する。ラカンにとって、これらの対象は主体の側ではなく対象の側にある。視線は、対象の中の(絵の中の)ある一点に刻印を押す。対象を見つめている主体は、すでにその点から見つめられている。つまり対象が私を見つめているのである。視線は、主体とその視野の自己現前を保証するどころか、絵の中の染み・汚点として機能する。その染みは明白な可視性を侵害し、私と絵との関係に、埋めることのできない亀裂を導入する。絵が私を見つめている点からは、私は絵を見ることができない。つまり、眼と視線とは本質的に非対称的なのである。対象としての視線は染みであり、その染みが、私が安全で「客観的な」距離から絵を見ることを阻止し、私はその絵を自分の視線しだいでどうにでもなるようなものとして枠取りすることを妨害する。視線とは、いわば、(私の視線の)枠がすでに絵の「内容」の中に書き込まれているような点である。そして、このことはもちろん、対象としての声についてもあてはまる。声はーーたとえば特定の発声者に付属せずに私に語りかけてくる超自我の声はーーやはり一つの染みとして機能し、その染みは目立たない形で現前することによって、異物strange body として介入し、私が自己同一性を確立するのを邪魔する。(ジジェク『斜めから見る』1991年原著出版、鈴木晶訳 PP.234-235)


《ほかでもないが、わたしがいま書いたことの中で、何か一つでも自分で信じることができたら、どんなにいいかしれない。諸君、誓っていうが、わたしはいま書き散らしたことを、ひと言も、それこそただのひと言も信じてはいないのだ! というより、信じているのかもしれないけれど、どういうわけか、自分ではずうずうしいほらを吹いているような感じがする、そんな気がしてしようがないのだ。》(ドストエフスキー『地下室の手記』米川正夫訳)