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2016年10月1日土曜日

要約というイデオロギー

【語りたいあなたたち】
「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(佐々木敦『ニッポンの思想』


【何かを理解したかのような気分】
何かを理解することと「何かを理解したかのような気分」になることとの間には、もとより、超えがたい距離が拡がっております。にもかかわらず、人びとは、 多くの場合、「何かを理解したかのような気分」になることが、何かを理解することのほとんど同義語であるかのように振舞いがちであります。たしかに、そう することで、ある種の安堵感が人びとのうちに広くゆきわたりはするでしょう。実際、同時代的な感性に多少とも恵まれていさえすれば、誰もが「何かを理解し たかのような気分」を共有することぐらいはできるのです。しかも、そのはば広い共有によって、わたくしたちは、ふと、社会が安定したかのような錯覚に陥り がちなのです。

だが、この安堵感の蔓延ぶりは、知性にとって由々しき事態たといわねばなりません。「何かを理解したかのような気分」にな るためには、対象を詳細に分析したり記述したりすることなど、いささかも必要とされてはいないからです。とりわけ、その対象がまとっているはずの歴史的な 意味を自分のものにしようとする意志を、その安堵感はあっさり遠ざけてしまいます。そのとき誰もが共有することになる「何も問題はない」という印象が、む なしい錯覚でしかないことはいうまでもありません。事実、葛藤が一時的に視界から一掃されたかにみえる時空など、社会にとってはいかにも不自然な虚構にす ぎないからです。しかも、その虚構の内部にあっては、「何も問題はない」という印象と「これはいかにも問題だ」という印象とが、同じひとつの「気分」のう ちにわかちがたく結びついてしまうのです。(蓮實重彦『齟齬の誘惑』)



【自分の立場を相対的に高めようとする凡庸な精神】
おそらくそこには、帝国の独裁者の振舞いをも嘲笑してみせることで、 自分の立場を相対的に高めようとする凡庸な精神が作用している。 それがそっくりわれわれの精神と共鳴しているかもしれぬその凡庸さが、改めて痛ましく思われる。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。……。(蓮實重彦


【きみたちにはこんな経験がないかね?】
「きみにはこんな経験がないかね? 何かを考えたり書こうとしたりするとすぐに、それについて最適な言葉を記した誰かの書物が頭に思い浮かぶのだ。しかしいかんせん、うろ覚えではっきりとは思い出せない。確認する必要が生じる──そう、本当に素晴らしい言葉なら、正確に引用しなければならないからな。そこで、その本を探して書棚を漁り、なければ図書館に足を運び、それでも駄目なら書店を梯子したりする。そうやって苦労して見つけた本を繙き、該当箇所を確認するだけのつもりが、読み始め、思わずのめりこんでゆく。そしてようやく読み終えた頃には既に、最初に考えていた、あるいは書きつけようとしていた何かのことなど、もはやどうでもよくなっているか、すっかり忘れてしまっているのだ。しかもその書物を読んだことによって、また別の気がかりが始まったことに気付く。だがそれも当然だろう、本を一冊読むためには、それなりの時間と思考を必要とするものなのだから。ある程度時間が経てば、興味の対象がどんどん変化し移り変わってもおかしくあるまい? だがね、そうやってわれわれは人生の時間を失ってしまうものなのだよ。移り気な思考は、結局、何も考えなかったことに等しいのだ」(ボルヘス 読書について──ある年老いた男の話)


【悪いもの】
悪いもの

“ドクサ”(“通念”)は、彼の言述のなかでさかんに言及されているが、まぎれもなく「《悪いもの》」である。それは内容の面からはどうにも定義することができず、ただ形式の面からしか定義されない。そして恐らく、その悪い形式とはすなわち反復のことなのだ。―――しかし反復されるものにも、ときには良いものがあるではないか。たとえば《テーマ》とは、批評にとっては良いものであって、しかもそれはたしかに、反復される何ものかではないか。―――良い反復とは、身体に由来する反復だ。“ドクサ”が悪いものであるという理由は、それが死んだ反復であること、誰の身体から発生するものでもないということ―――さもなければ、たぶん、まさに“死者たち”の身体から発生するものだ―――という点にある。(『彼自身によるロラン・バルト』) 


【要約というイデオロギー】
本質規定からいって、教師の言述は要約することができる(あるいは、できなければならない)という性格を帯びる(これは国会議員の演説と共通する特権である)。周知のように、わが国の学校では、テクストの要約と呼ばれる訓練が行わている。この呼び方が、まさに、要約のイデオロギーをいい当てている。すなわち、一方に、《思想》という、メッセージの対象であり、行動の要素、科学の要素である。他動的な、あるいは、批判的な力があり、もう一方に、《文体》という、贅沢、閑暇、したがって、無用なものに属する装飾がある。文体から思想を切り離すことは、いわば、言述から聖職的な衣をはぎ取ることであり、メッセージを世俗化することである(そこから、教師と代議士とのブルジョワ的結合が生ずる)。《形式》は圧縮し得るものであると考えられているのえあり、この圧縮は本質的に害を与えるものとは考えられていない。実際、遠い所、つまり、わが西欧の境界を越えた所では、生きているジヴァロの頭と縮小したジヴァロの頭との差異はそれほど重大だろうか。

訳者註)ジヴァロ:アマゾン河上流のインディアン。戦いの後、敵の首を切り、その皮をはぎ、食物の煎じ汁につけたり、熟した石で加工し、拳大の大きさに縮小するという。

教師にとって、自分の講義中、生徒の取る《ノート》を見るのはむずかしい。彼はほとんど見ようとしない。慎みからからか(なぜなら、この作業の儀礼的な性格にもかかわらず、《ノート》ほど個人的なものはないからである)、あるいは、こちらの方が当たっていそうだが、同族の者に加工されたジヴァロのように、死んで、物質的で、しかも縮小された状態にある自分を見るのが怖いからであろう。パロールの流れの中から取られた(差し引かれた)ものがどこにも当てはまる言表(公式、文)であるのか、推論の要点なのか、わかりはしない。どちらの場合にも、失われたものは付加物であるが、そこにこそ言語活動の賭け金が投ぜられているのである。要約はエクリチュールの拒否である。

逆の結論として、要約されることのできない(要約すると、ただちに、メッセージとしての自分の性格を破壊する)《メッセージ》の送り手は、皆、《作家》(この語は、つねに、社会的価値ではなく、実践を指す)と呼ぶことができる。《メッセージ》が要約できないというのが、作家が、狂人、饒舌家、数学者と共有する条件である。しかし、それは、まさに、エクリチュール(すなわち、ある種の能記[シニフィアン]の実践)が明確にしなければならない条件である。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」1971、沢崎浩平訳)


【無駄に近い列挙】
蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。これもありますよ、これもありますよ、というようなものでね。こっち見てごらんなさい。夏目漱石、こんなことを書いていますよ。またこっちではこんなことを書いていますよ、という愚鈍なまでの列挙なんです。その意味では批評というより事項が並んでいるだけなんです。ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。(……)

僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。たとえば、ジョン・フォードには太い大きな幹が出てくる。僕は、それを美しいと思う、というよりそのことに理由のない恐れをいだく。しかしそれには何の意味もない。ただ、太い樹木の幹が見えるというだけなんです。だから『静かなる男』にもあった、『タバコロード』にもあった、『我が谷は緑なりき』にもあったと際限なく羅列してゆくしかない。
……みんな、批評というものを解釈だと勘違いしてしまったんですよ。解釈といったって、形式を読むこともしなければ、ましてや魂の唯物論的な擁護などと思ってもみない。共同体が容認しうるイメージへと作品を翻訳することを意味の解釈だと思っちゃった。(……)

批評の第一の役割は、作品の意味が生成される可能性を思い切り拡げることであり、それを閉ざすことではない。ところが、みんな、無意識に意味生成の場を狭めればそれが主体的だと思ってるんです。僕はそれを可能な限り豊かなものにすることを一貫してやってきた。べつに、意味を無視したわけじゃあないんです。読むことって、無数の意味の闘いでしょ。表層というのは、その闘いの現場であるわけです。解釈が始まるのは、その闘いの現場を通過してからの話でなければいけない。
流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』


【あたりを埋めつくしている青春派】
どこかで小耳にはさんだことの退屈な反復にすぎない言葉をこともなげに口にしながら、 なおも自分を例外的な存在であるとひそかに信じ、 しかもそう信じることの典型的な例外性が、 複数の無名性を代弁しつつ、 自分の所属している集団にとって有効な予言たりうるはずだと思いこんでいる人たちがあたりを埋めつくしている。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)
……すでに書かれた言葉としてあるものにさらに言葉をまぶしかける軽業師ふうの身のこなしに魅せられてであろうか。さらには、いささか時流に逆らってみせるといった手あいのものが、流れの断絶には至らぬ程度の小波瀾を戯れに惹起し、波紋がおさまる以前にすでに時流と折合いをつけているといったときの精神のありようが、青春と呼ばれる猶予の一時期をどこまでも引き伸ばすかの錯覚を快く玩味させてくれるからであろうか。(蓮實重彦『表層批評宣言』)


【大人になっても子どものままでいる唯一の手段】
文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)


【教えたい教師たち】
パロールの側にいる教師に対して、エクリチュールの側にいる言語活動の操作者をすべて作家と呼ぶことにしよう。両者の間に知識人がいる。知識人とは、自分のパロールを活字にし、公表する者である。教師の言語活動と知識人の言語活動の間には、両立しがたい点はほとんどない(両者は、しばしば同一個人の中で共存している)。しかし、作家は孤立し、切り離されている、エクリチュールはパロールが不可能になる(この語は、子供についていうような意味に解してもいい〔つまり、手に負えなくなる〕)所から始まるのだ。(ロラン・バルト「作家、知識人、教師」1971『テクストの出口』所収)


【難聴者たち】
私はきのう書いたことをきょう読み直す、印象は悪い。それは持ちが悪い。腐りやすい食物のように、一日経つごとに、変質し、傷み、まずくなる。わざとらしい《誠実さ》、芸術的に凡庸な《率直さ》に気づき、意気阻喪する。さらに悪いことに、私は、自分では全然望んでいなかった《ポーズ》を認めて、嫌気がさし、いらいらする。(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収)
どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。

しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。

だからこそ、彼はエクリチュールに自分を託す。エクリチュールとは、《最終的な返答》をしてみせることをあきらめた言語活動のことではないか。そして、他人にあなたのことばを聴き取ってもらいたいという願いをこめて、自分を他人に任せることによって生き、息をする、そういう言語活動ではないか。(『彼自身によるロラン・バルト』)

…………

【閑話休題】
話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。(折口信夫「鏡花との一夕 」)


【凡庸な物書き】
凡庸な物書きは、あら削りで不正確な表現を正確な表現に、あまりにもすばやく置きかえてしまわないよう、用心すべきである。置きかえることによって、最初にひらめきが殺されてしまうからである。そのひらめきは、柄は小さくても、生きた草花ではあったのだ。ところが正確さを得ようとして、その草花は枯れてしまい、まったくなんの価値もなくなってしまう。いまやそれは肥だめのなかに投げ込まれかねないわけだ。草花のままであったなら、いくらかみすぼらしく小さなものであっても、なにかの役にはたっていたのに。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)


【足元の難問】
哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。

「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。

――だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人には、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。

それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。

同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。

一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。

――だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。

とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。(ヴィトゲンシュタイン「反哲学的断章」)





2016年9月19日月曜日

確かめるべきは、むしろ目ではないのか?

125 “両手はあるか?”と盲人に聞かれ、両手が見えたから確信できるのか? なぜ、自分の目が確かだと信じうるのか。確かめるべきは、むしろ目ではないのか? 両手が見えているかどうか。(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』――ゴダール『JLG/自画像』より→Godard JLG JLG II Wittgenstein leeres Blatt

…………







【ウサギとアヒル】




…… 人はこれをウサギの頭とも、アヒルの頭とも見ることができる。

すると私は、一つの相の「恒常的な見え」と、一つの相の「閃き(アウフロイヒテン)」とを区別しなければならない。

像はすでに私に示されていたが、私はそこにウサギ以外の何ものをも見てはいなかったということがありうるのだ。  (ウィトゲンシュタイン『哲学探究』)


【ネッカー・キューブ】―――”Optical Illusion Images

キューブはいくつあるだろうか。6個か10個か?







【マネとティツィアーノ】





なぜマネの《オランピア》はスキャンダラスな作品となったのか。当時のブルジョワたちが抵抗なく受け入れていたティツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》のほうが艶かしく卑猥ではないのか。





オランピア=娼婦という画題、あるいは犬が猫(女性器の隠語)に置換されているせいだけなのか。黒人のメイドが〈あなた〉からの花束を渡そうとしているせいなのか?

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)




ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジュールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)


「内的な現実(réalité intérieure)」や「思考する形式(une forme qui pense)」とは何を意味するのか。映画とはイマージュではなかったのか。

確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ、説明できない。(ゴダール『(複数の)映画史』「4B」)





【ボロメオ結び】





(想像界 I =イマージュ、現実界 R =無、象徴界 S =フォルム)




イマージュの環は無の環を蔽っている(イマージュは無を支配しようとする)。フォルムの環はイマージュの環を蔽っている(イマージュはフォルムに従属する)。だがフォルム自体は無に(一部)被われている(フォルムは無との関係において欠如がある)。したがって、フォルムに従属したイマージュは無の支えが必要である。





【ベラスケスとバルテュス】

なぜラカンはフーコーの名高いベラスケス解釈をめぐって、フーコーとひと悶着おこしたのか(フーコーはラカンのセミネールに「穏やかな殴り込み」をしている)。


(Las Meninas,Diego Velázquez)

それはおそらく、この絵のなかでも、この絵がいわば本質をあきらかにしているあらゆる表象関係におけると同様、見えているものの底知れぬ不可視性がーー鏡や反映や模倣や肖像にもかかわらずーー見る人の不可視性と固く結びあっているということであろう。(ミシェル・フーコー『言葉と物』)

1,Thomas Brockelman、Lacan flips Foucault over Velázquez、
2,Lacan,L’objet de la psychanalyse S XIII, 1965-1966.PDF






なぜラカンは、バルテュスの「街路」にはベラスケスの「侍女たち」があると言ったのか。

« Voilà Les Ménines. »



(Dans la rue de Balthus)


…………

※付記

以下の訳文は regard に相当する言葉が「視線」と訳されているが、現在ではおおむね「眼差し」と訳される、「目と眼差し L’œil et le regard」という形で(だが敢えて変更はしない)。

現代思想に精通している読者は、おそらく「視線」や「声」を、デリダ的な脱構築作業の第一の標的とみなす傾向があるに違いない。視線とは、「物自体」をその形式の厳然の中で、あるいはその現前の形式の中で捉えるテオリアでなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前を可能にする純粋な「自己作用」の媒体でなくして何であろう。声とは、話す主体の、それ自体-への-現前presence- to-itselfを可能にする純粋な「自己作用auto-affection」の媒体でなくして何であろう。「脱構築」の目的は、ほかでもない、視線がつねに・すでに「下部構造の」ネットワークによって決定されていることを暴露して見せることである。何が見え、何が見えないか、その境界を設定するのはそのネットワークである。見えないということはつまり、視線――「自己反省的」再専有によっては説明できない縁〔マージン〕あるいは枠――による捕獲から必然的に逃れるもののことである。それと同様に、脱構築は、声の自己現前がつねに・すでに書記writingの痕跡によって引き裂かれ/引き延ばされていることを暴露する。

しかしここで、われわれが注目しなければならないのは、ポスト構造主義的脱構築とラカンの間には何の共通点もないことである。ラカンは視線と声の機能を脱構築とはほとんど正反対の方法で説明する。ラカンにとって、これらの対象は主体の側ではなく対象の側にある。視線は、対象の中の(絵の中の)ある一点に刻印を押す。対象を見つめている主体は、すでにその点から見つめられている。つまり対象が私を見つめているのである。視線は、主体とその視野の自己現前を保証するどころか、絵の中の染み・汚点として機能する。その染みは明白な可視性を侵害し、私と絵との関係に、埋めることのできない亀裂を導入する。絵が私を見つめている点からは、私は絵を見ることができない。つまり、眼と視線とは本質的に非対称的なのである。対象としての視線は染みであり、その染みが、私が安全で「客観的な」距離から絵を見ることを阻止し、私はその絵を自分の視線しだいでどうにでもなるようなものとして枠取りすることを妨害する。視線とは、いわば、(私の視線の)枠がすでに絵の「内容」の中に書き込まれているような点である。そして、このことはもちろん、対象としての声についてもあてはまる。声はーーたとえば特定の発声者に付属せずに私に語りかけてくる超自我の声はーーやはり一つの染みとして機能し、その染みは目立たない形で現前することによって、異物strange body として介入し、私が自己同一性を確立するのを邪魔する。(ジジェク『斜めから見る』1991年原著出版、鈴木晶訳 PP.234-235)


《ほかでもないが、わたしがいま書いたことの中で、何か一つでも自分で信じることができたら、どんなにいいかしれない。諸君、誓っていうが、わたしはいま書き散らしたことを、ひと言も、それこそただのひと言も信じてはいないのだ! というより、信じているのかもしれないけれど、どういうわけか、自分ではずうずうしいほらを吹いているような感じがする、そんな気がしてしようがないのだ。》(ドストエフスキー『地下室の手記』米川正夫訳)



2016年7月4日月曜日

女はまだ浅くさえない(ニーチェ)

人は女を深いとみなしているーーなぜか? 女の場合にはけっして浅瀬に乗りあげることはないからである。女はまだ浅くさえないのである。(ニーチェ『偶像の黄昏』 「箴言と矢」27番)

さて、ニーチェは何を言っているのだろうか。

ひょっとして女はギリシャ人のようだと言っているなどということはないか。

・・・おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要だった。仮象を崇めること、ものの形や音調や言葉を、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった。深みからして! そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? ものの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。(ニーチェ KSA 3,S.352)

冒頭の文の《女はまだ浅くさえない》とは、女たちの、表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる性向・表面的な性向を言っているのではなかろうか。まさに仮象の達人としての女と!
いや、それは買いかぶりすぎであろうか。

だがーー。

《女は、見せかけに関して、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant !] 》(ラカン、セミネール18)

どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)

ーーもちろん解剖学的女性がすべて女だとは限らない。逆に、解剖学的男性のなかにも女はいることを断っておかなければならない。

ところで冒頭のニーチェの文には、ラカンだけでなく、後期ウィトゲンシュタインがいるのをお気づきであろうか?

ラカンは「性別化の定式」において、性差を構成する非一貫性を詳述化した。そこでは、男性側は普遍的機能とその構成的例外によって定義され、女性側は「非全体」 (pas‐tout) のパラドクスによって定義される(例外はない。そしてまさにその理由で、集合は非全体であり全体化されない)。

思い起こそう、ウィトゲンシュタインにおける「言葉で言い表せないもの」の変遷する地位を。前期から後期ウィトゲンシュタインへの移行は、全体(構成的例外を基盤とした普遍的「全て」の秩序)から、非全体(例外なしの秩序、そしてそれゆえに非普遍的・非全体的)への移行である。

すなわち、『論理哲学論考 Tractatus』の前期ウィトゲンシュタインにおいては、世界は、「諸事実」の自閉的 self‐enclosed、限界・境界づけられた「全体」として把握される。まさにそれ自体として「例外」を想定している。つまり、世界の限界として機能する神秘的な「語りえぬもの」としての「例外」の想定。

逆に、後期ウィトゲンシュタインにおいては、「語りえぬもの」の問題系は消滅する。しかしながら、まさにその理由で、世界はもはや言語の普遍的条件によって統整された「全体」として把握されない。残存しているものはことごとく、部分領域のあいだの水平的連携である。普遍的特徴の集合によって定義されたシステムとしての言語概念は、分散した実践の多様性としての言語概念に置き換えられる。つまり、「家族的類似性」によってゆるやかに相互につながった多様性としての言語概念に。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

例外の論理/非全体の論理とは、男性の論理/女性の論理のことである。《部分領域のあいだの水平的連携》、ネットワークあるいは差異の論理であるところの女性の論理(家族的類似性・非一貫性の論理)は、深さをしらない。もちろん浅瀬に乗りあげることはなく、浅くさえない・・・

だが、それならなぜ、我々は「女を深い」と考えるのだろう?

「見せかけ」の機能は《無を覆う》ことだとジャック=アラン・ミレールは言っている[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J.A. Miller, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)。

ここで言われている「見せかけsemblant」とは、ヴェールの機能である。さらに、このヴェールに注意を誘引する機能だ。ミレールは続けて言っている、《「見せかけ」のこの二重の側面のために、ヴェールはファルス化され、とくに身体がファルス化する》、と。

こうして無を覆うことにより、深さの錯覚が生まれうる。

仮面の下には何もなく、それをヴェールで覆うこと自体が、逆に深さや神秘の感覚を生む場合があるーー。

自分はこの時始めて女というものをまだ研究していない事に気がついた。嫂はどこからどう押しても押しようのない女であった。こっちが積極的に進むとまるで暖簾のように抵抗がなかった。仕方なしにこっちが引き込むと、突然変なところへ強い力を見せた。その力の中にはとても寄りつけそうにない恐ろしいものもあった。またはこれなら相手にできるから進もうかと思って、まだ進みかねている中に、ふっと消えてしまうのもあった。自分は彼女と話している間始終彼女から翻弄されつつあるような心持がした。不思議な事に、その翻弄される心持が、自分に取って不愉快であるべきはずだのに、かえって愉快でならなかった。(夏目漱石『行人』)

ところで、〈あなた〉は青大将に身体を絡まれたことがおありであろうか・・・

《自分の下には嫂が横になっていた。自分は暗い中を走る汽車の響のうちに自分の下にいる嫂をどうしても忘れる事ができなかった。彼女の事を考えると愉快であった。同時に不愉快であった。何だか柔かい青大将に身体を絡まれるような心持もした。》

感情に強調が置かれる女に対して、ロゴスを代表するのが男ではない。むしろ、男にとって、全ての現実の首尾一貫・統一した普遍的原則としてのロゴスは、ある神秘的な言葉で言い表されない X (「それについて語るべきでない何かがある」)の構成的例外に依拠している。他方、女の場合、どんな例外もない、「全てを語ることができる」。そしてまさにこの理由で、ロゴスの普遍性は、非一貫的・非統一的・分散的、すなわち「非全体 pas-tout」になる。

あるいは、象徴的な肩書きの想定にかんして、男は彼の肩書きと完全に同一化する傾向にある。それに全てを賭ける(彼の「大義 Cause」のために死ぬ)。しかしながら、彼はたんに肩書き、彼が纏う「社会的仮面」だけではないという神話に依拠している。仮面の下には何かがある、「本当の私」がある、という神話だ。逆に女の場合、どんな揺るぎない・無条件のコミットメントもない。全ては究極的に「仮面」だ。そしてまさにこの理由で、「仮面の下」には何もない。

あるいはさらに、愛にかんして言えば、恋する男は、全てを与える心づもりでいる。愛された人は、絶対的・無条件の「対象」に昇華される。しかし、まさにこの理由で、彼は「彼女」を犠牲にする、公的・職業的「大義」のために。他方、女は、どんな自制や保留もなしに、完全に愛に浸り切る。彼女の存在には、愛に浸透されないどんな局面もない。しかしまさにこの理由で、彼女にとって「愛は非全体」なのだ。それは永遠に、不気味かつ根源的な無関心につき纏われている。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳ーー男は私のなかになにを見ているのかしら?

例外の論理は、まさに例外があるために世界は安定化・退屈化する。だが非全体の論理は、《表面に、皺に、皮膚に踏みとどまる》ことゆえに、まさに不気味さや神秘、深淵の感覚をもたらすのではないか。

私は、「永遠の女性」の本質に通じた最初の心理学者なのかもしれない。女という女はわたしを愛するーーいまさらのことではない。もっとも、かたわになった女たち、子供を産む器官を失った例の「解放された女性群」は別だ。 ――幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。(ニーチェ『この人を見よ』)

ーーなぜかここでの文脈とはあまり関係がない、ニーチェのフモールあふれる文を挿入してしまったが、この文でなにが言いたいわけでもない。ただし、《女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである》くらいは注目しておいてもよい。

とすれば冒頭の『偶像の黄昏』27番の次にはこうあることのを自ずと思い起こすことになる、、《女が男の徳をもっているなら、逃げだすよい。また、男の徳をもっていないなら、女自身が逃げだす》(「箴言と矢」28番)。

ああ、なんという至高の心理学者!


さて、話をもとに戻せば、詩人や芸術家諸君も、深さを生み出すために、《思いきって表面に、皺に、皮膚に、踏みとどまることが必要》ではないだろうか?

(もっとも女は芸術家になる必要など毛頭ない。存在自体が芸術家なのだから。)

というわけでーーなにが「とういうわけ」かは知らぬがーー、芸術家志望の男性諸君!どうだろう、全き表面に生き、あとは、それを効果的に「揺らめかす」技法を身に着けることに専念したら?

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体 ce scintillement même qui séduit である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出 la mise en scène d'une apparition-disparition である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

ーー「ちらちら見えること」と訳されている scintillement も結局、バルトのマナ語の「揺らめかす」の変奏である(参照:揺らめかすvaciller というロラン・バルトの鍵言葉)。

「出現ー消滅の演出」とは、まさにミニスカ芸術家の演出方法でもあるだろう。




一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作…(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』ーーミニスカ症候群と集団ヒステリー)

蛇足ながら、ラカンは1950年代、人間の昇華形式の三様式として、芸術・宗教・科学(ヒステリー・強迫神経症・パラノイア)としている[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science(S.7)](後年、哲学もパラノイアの仲間入りをさせている)。

これが普遍的に正しいか否かは別にして、ミニスカ芸術家は、どうやらヒステリー的であるのは間違いなさそうである・・・

上の画像の芸術家は、わたくしの好みからすると、やや見えすぎるきらいがあり、わたくしを「油断」させることがいささか少ないのが玉に瑕である。

エリオットは、詩の意味とは、読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだとしている(参照:生垣の「結び目をほどく」詩人)。