と記したが訳語に文句をつけるつもりは毛頭ない。いま注目したいのは、《一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作》という表現である。
自慰は、空想をかきたてることと、その空想の絶頂において自己満足にいたるための活動的な営みとの「はんだづけ」によって構成されている。当初は自己愛的な身体的快感を目的としていた自慰は、やがて対象愛の領域に由来する欲望の表象を満足させることを目的とするようになる。そのような空想的満足が放棄されると自慰行為そのものは行われなくなるが、空想は意識的なものから無意識的なものに変わる。その後、性的欲求不満の状況において、この無意識的な空想が症状として「外化」する。ヒステリーの症状は、このような無意識的空想の上演である。倒錯者の空想やパラノイア患者の妄想は、ヒステリー者においては無意識的な空想が意識化されている状態である。ヒステリー患者も無意識空想を、症状として表現せずに、意識的に現実化し、殺人・暴力・性的陵辱などを「演出演技」することがある。
それゆえ精神分析は症状の背後にある空想を知ろうとするが、症状と空想の結びつきはきわめて複雑で錯綜している。重度の神経症においては一つの症状は複数の空想に対応している。それゆえ、一つの空想を意識化しても症状は消えない。
症状を解消させるには二つの空想の意識化が必要であるが、その一方は男性的、他方は女性的な性格をもつ(それゆえいずれかは同性愛的な欲求を表現している)。これはすべてのヒステリー者にみられる事実ではないが、人間の生得的な両性性が神経症者においては明瞭に認識されるという自説を支持するものだ。自慰にふける者は、空想のなかで男性にも女性にも感情移入する。一方の手で着物をまくり上げようとし、他方の手で着物を押さえようとするヒステリー患者の発作もこのことを示している(「矛盾する同時性」)。患者は分析中に一方の性的意味から逆の意味の領域へと「隣りの線路の上へそらせるように」たえずそらせようとする。(フロイト『ヒステリー性空想、ならびに両性性に対するその関係』)
なぜこんな文章を思い起したかといえば、「哲学者」森岡正博氏の「なぜ私はミニスカに欲情するのか」2000年ーーこの論は読んでいないーーの長い書評「ミニスカートの文化記号学」(沼崎一郎)に引用されている森岡氏の文を眺めたからだ。この評者の沼崎一郎氏は「文化人類学者」である。
さてその問題の森岡氏の文である。
見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。(森岡正博「なぜ私はミニスカに欲情するのか」)
(心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティの)落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。だから主体は自分の象徴的称号に疑問を抱く。これがヒステリーだ。「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」。あるいはシェイクスピアのジュリエットの言葉を借りれば、「どうして私はその名前なの?」
「ヒステリー」と「歴史ヒストリア」との間の類似性には真実が含まれている。主体の象徴的アイデンティティはつねに歴史的に決定され、ある特定なイデオロギー的内容に依存している。これこそが、ルイ・アルチュセールが「イデオロギー的問いかけ」と呼んだものである。
われわれに与えられた象徴的アイデンティティは、支配的なイデオロギーがわれわれにどのようにーーー市民として、民主主義者として、キリスト教徒としてーーー問いかけたかの結果である。ヒステリーは、主体が自分の象徴的アイデンティティに疑問を抱いたとき、あるいはそれに居心地の悪さを感じたときに起きる。「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」『リチャード二世』はヒステリーをめぐるシェイクスピアの至高の作品である(対照的に『ハムレット』は強迫神経症をめぐる至高の作品だ)。 (ジジェク『 (『ラカンはこう読め!』p.63)
もっとも(すくなくともかつては)一般的に、男性は強迫神経症、女性はヒステリー神経症と言われたわけで、このヒステリーはなにも女子高生に限ったことではない。
……例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。
しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)
といういささか専門的な文よりも、同じミレールの最近のエッセイから抜き出しておくほうがよいのかもしれない。
無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、神から授かった細部によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の追憶、あるいは兄弟や姉妹、あるいは誰かの幼児期の追憶もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。でも女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。関心と愛、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定する関心と愛ですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”、私訳)。
ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳 p230)
もう一度ジジェクの文に戻ろう、
(心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティの)落差がある以上、主体は自分の象徴的仮面あるいは称号とぴったり同一化することができない。だから主体は自分の象徴的称号に疑問を抱く。これがヒステリーだ。
女子高校生の象徴的アイデンティティとは、学校という大文字の他者の機関で勉学する存在だろうが、そのときの心理的アイデンティティとはなんだろう? ひとまずは少女から女へとかわっていく時期(これはすでに中学生の頃、あるいはその前からそうだろうが)であり、「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」がヒステリーの問いであるならば、「どうして私という少女は、あなたが言っているような女なのか」という問いを抱いている存在ではないか。
実際、中学生から高校生までにおけるミニスカ着用は男の視線を惹きつけるという機制とその利用とともに、少女時代の私への哀惜感によるものはないのだろうか。ミニスカ着用は、かつてわれわれ旧世代の時代における不良少女たちーースケバンに代表されるーーがロンスカを着用し大人びてみえたのとは逆に、子どもじみてみえないでもないのだ。
(犬山高校のあゆみ 女子制服のこと) |
これを眺めてもなんの色気も感じられないのは、わたくしが老いたせいだけだろうか。
素足 谷川俊太郎
赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ
「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」(シェイクスピア『リチャード二世』)
ーーあなたがたは私のことを女だとおっしゃる。私をそのようにした、私の中にあるものは何? 私の中の何が、あなたがたをして私をこんなふうに(女として)眼差すのでしょう ?
いやいやわたくしは女ではないので彼女たちの心理的アイデンティティはわからない……(マンガ文化の影響もあるのだろうが、このあたりはわたくしはまったく疎い)。
もうひとつ村瀬ひろみ氏による「「性的身体」の現象学 「ミニスカ」からみる消費社会のセクシュアリティ構造 」からぬき出してみよう。この小論も森岡正博の論にかかわる。その論は次ぎのような問いから始まっている。
ミニスカートをまとう存在としての「私」は、男を誘惑するだけの人形だろうか。
長いスカートの鬱屈した不自由さ、まとわりつく布の抑圧から逃れ、より行動的になるためのミニスカートだってあるはず。男がどう見ようと、動きやすい開放的なミニスカートが好きという女はいないだろうか。膝小僧が見えるよりはるかに短い丈のスカートこそ、足がキレイに見えると鏡の前でひそかにほほ笑むことはないだろうか。
そんなミニスカートに、一部の男性たちは欲情するという。そのこと自体は、率直な言説であって、フェミニズムが批判すべきことではないかもしれない。しかし、そこに「ミニスカートをまとう私」という主体の視点が欠落していると気づくとき、私は、新たな地点から「ミニスカート」にまつわる言説を検証していく必要性を感じるのである。
「ミニスカートをまとう私」という主体の視点とあるが、この小論にたいしたことが書かれているわけではない。女性側からみても難題なのだろう。
いや、彼女たちはひょっとしてひそかには気づいているのかもしれない、「仮装としての女性性」を。だがそれを表立って是認するということには抵抗があるに相違ない。
女性が自分を見せびらかし、自分を欲望の対象として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、《他者》の欲望のシニフィアンとして位置づけます。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[mascarade]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけますが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからです。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついています。(ラカン「セミネールⅤ」)
どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)
《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)--と引用すれば、いまどきアンチフェミニストのニーチェを、時代錯誤もはなはだしいといういう人がいるかもしれない、だが文句をいうのは「男と女をめぐって(ニーチェとラカン)」を読んでからにしてほしい。
男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、私訳)
なぜこうなのかは、ポール・ヴェルハーゲによる説明がある(「古い悪党フロイトの女性論」)。もちろんこれらも単なる仮定である。フロイトは、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるという意味合いのことをしばしば語っている。
村瀬ひろみ氏の論には森岡正博氏の論以外からもいくつかの引用があるが、ここでは次の二人の文を抜き出しておく。
性的な身体を女性は見られることによって獲得していきます。女性にとって自己身体意識、あるいは自己身体イメージの獲得は、思春期以降、男性からかくあるべき身体として自分に付与される視線によって、その視線を内面化することによって獲得されます。(上野千鶴子 『性愛論』1991)
おそらく、人間が自己の身体をエロティシズムの対象として他者の前に呈示しようとするならば もっとも基本的な戦術はおのれの性を誇示しつつ 同時に隠すということであろう (菅原和孝 『身体の人類学』1993)
この「誇示しつつ隠す」という戦術は、女がある場に登場し、そこによっこらしょと腰を下ろすさいにもっともあらわになる。彼女は股を大きく広げ、なおかつ片手で股のあいだにぐいとスカートをたくしこむのである。(同 菅原)
…………
※附記:『週刊プレイボーイ』の編集などの仕事をされていた赤羽建美氏の『「女の勘」はなぜ鋭いのか』におけるミニスカの記述を抜き出しておく。ニ、三違和のある箇所はあるが敢えてコメントするほどでもない、一般男性はおそらくかなりの割合の人がこのように感じているだろうし、その男性への問いに対しておおくの女性はこのように答えることだろうことを示したいだけだ。
ミニスカートをはいている女性に、
「それって、男の視線を意識してりんだよね」
と聞くと、決まって次ぎのような答えが返ってくる。
「そうじゃないわ。おしゃれだからはいているの」
ミニスカートでも、胸元を強調したキャミソール(女性用の下着でウエストまでのもの。スリップの短いやつと思えばいい。最近はそれを‘あえて見せる着方をする)でも、ヒップにぴったりのパンツでも、答えは同じである。「ファッションを楽しむために身につけているので男性を意識したものではない」と彼女たちは言う。果たしてそれが女性の本音だろうか。わたしはどうもそうは思えない。
わたしが大学生だったころ。学食で昼飯を食べていたら、隣りにいた同級生の男子学生がわたしにこう言った。
「あそこにいる女の子。かなり意識しているよな。あの食べ方を見ろよ。気取りやがって」
彼があごでしゃくって示した女子学生を見てみると、確かに彼女は思いっきり他人の目を気にしてカレーを食べているように見えた。スプーンにのせるカレーの量はほんのわずか。あんなに少しずつでは、食べた気がしないだろう。家では三倍くらいの量を一口で食べているのではないかと疑いたくなるくらい少量なのだ。それをゆっくりと口元にもっていく。口の中にカレーを入れるときも決して大きく口を開かない。そのうえ、髪が邪魔になっているわけでもないのに、ときどき髪をかきあげるような仕草をする。
こんな姿をみていると、いかに上品にあるいはきれいに見えるかを考えて、食べているとしか思えない。つまり、彼女は自分自身で自分を演出しているように見える。わたしはそれほどではなかったが、級友はなぜかその彼女のことが気になってしかたがなかったらしい。それは異性への関心の裏返しともいえるのかもしれない。
いずれにせよ、その女子学生は他人の目、もちろん、それは同性の目ではなく男子学生たちの目を意識してそうしていたのだろう。
同性の目といえば、こんなエピソードがある。
私立の女子校で教師をしていた友人によると、女子生徒たちは男の目があるのとないのとではガラッと態度が変わるという。彼が直接目撃したかどうかまでは知らないが、夏の暑い日の教室では、女子生徒が制服のスカートのすそをたくしあげてその中に教科書で風を送り込む、そんな姿がよく見られるというのだ。どうやら、女子校での教室では男の想像を絶する破廉恥な光景が展開されているらしい。
この二つの例からも、女性は異性の目がなければあれれもない姿をさらけだすことも平気なくせに、異性の目がある場では、大学の学食の女子学生のように女らしさを強調しているように思えてならない。
つまり、女性たちは本当のところを隠している。もっと言ってしまえば、「おしゃれだから」というのは一種のカモフラージュのため。そう解釈していいだろう。彼女たちは男を意識していることを隠そうとしている。
だいたい、ミニスカートをはいている女性に目がいくのは、女性よりも男のほうが圧倒的に多い。女性は友人がかわいいミニスカートをはいてきたのであれば、それなりに関心を示し、「かわいいね」くらいのほめ言葉を口にするかもしれない。しかし、見ず知らずの女性がどんなにかわいいミニスカート姿であってもまったく関心を示さない。男が男の下着姿を見てもなんとも感じないのと同じだ。ところが、男は見ず知らずの女性のミニスカート姿にあまねく関心を示す。このことから考えても、女性がミニスカートをはくのは異性の目を意識しているからだと思える。
しかし、女性は同性から「男に見られるのを計算してミニスカートをはいている」と思われるのが嫌なのだろう。本当はそうであっても他人からそれを指摘されると、女性はプライドを傷つけられた気がするのではないか。
男のわたしには、どうしてそんなことでプライドが傷つけられるのか理解できない。女性がセクシーさを武器にするのは悪いことではない。いや、そうして当然だと思う。
セクシーであることに関して、日本の女性たちの意識はかなり控えめで、欧米などの先進国の基準からすると大分遅れている。そこに問題がある。初体験の年齢が年々低くなっても、ミニスカートをはいた若い女性が街に増えつつあっても、女性たちの意識は未だに和服を着ていた時代とたいして変わっていないらしい。
ミニスカートの女性に険しい視線を送る年長の女性もいる。そうした社会だからこそ、「おしゃれではいているの」と言い訳しなければならないのかもしれない。
日本女性たちの性意識の歪みは、かなり根深いように思う。
それは、和服という伝統文化が象徴しているように、包み隠すことに対する美意識や倫理観が大きな理由となっているのではないだろうか。つまり、日本の文化は謙虚さや純潔さに代表される恥じらいの文化ともいえる。そういった意識は、日本人が長年培ってきたものだから、和服を着なくなっても簡単には変わるものではない。
恥じらいの文化は、肉体に対する考え方にも通じる。
長い間、日本女性は体を隠さなければいけないと教えられてきたために、自分の肉体を素直に受け入れられないという弊害が生れてしまった。その結果、女性たちの多くは、本音の部分では理想的なプロポーションを保ち多くの人に注目してもらいたいと思っているのに、その魅力的な肉体を素敵な洋服で飾り人目にさらすことに、心のどこかで罪悪感を感じてしまうのだろう。
だから、男の視線を充分に意識してミニスカートをはいていても、態度にはそれを出さないようにしてしまうのである。
また、女性が男のためにつくすのはおかしいというフェミニズムの思想から端を発し、女性は男のために何かしてはいけない、男たたいの視線を意識してセクシーさに磨きをかけるのは男に向けた女性の商品化だ、などという見当はずれの理屈を生んでしまった。
そんなふうに言われたら、ミニスカートを颯爽とはきこなしている女性たちの立場がない。
ここでは、女の敵は女、と言っておこう。
この文における《女性がセクシーさを武器にするのは悪いことではない》については、いまでは女子高生のなかにもはっきりと武器としてミニスカを着用している少女たちもいることだろう。
「女の敵は女」と出てきたところで、ふたたびソレルスの名著『女たち』から抜き出しておく。
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ! p254