このブログを検索

2015年8月22日土曜日

「むちむち」という駄洒落

(「無知な女子高生」を沖縄に連れ出し「愛のムチ」を打つNHK番組「むちむち!」に「女性蔑視」批判)

@nhk_Etele: 新番組「むちむち!」とは、街でスカウトしたちょっとムチな女子高校生に、番組ディレクターが愛のムチを打つ、全体的にムチッとした番組です。Eテレ20(木)19:25~。http://t.co/ht6lyPP5d1 #Eテレ

という番組の告知が「炎上」していたようだ。たとえば東京大学で教師をしておられるフェミニストの清水晶子さんは次ぎのようにお怒りになっている。

@akishmz: この番宣ツイート、どうなの。どうして常に「無知な女子高生に教えてあげる」なんだよ!セクシズムだろそれ!というレベルはもちろんあるけれど、そこに(名目上は無関係なはずの)エロス化が臆面もなく持ち込まれているのが、シンプルにキモい。
@akishmz: NHKとしてもEテレとしても「むちむち!」のタイトル/設定/番宣のセクシズム(1. 「女子高生」に「無知」を代表させ、2. 未成年女性を性的対象として表象する)が公共放送の教育番組として問題だという批判は黙殺なさるのですね。 https://t.co/OEUBFbBK5L

「性的対象として表象する」とあるように、女子高生が性的対象であることが問題ではなく、天下のNHKの教育番組が「むちむち!」というタイトル/設定/番宣をしてしまうのが問題だということだろう。

「むちむち」とは「もち肌」とか「むちむちした太腿」とかを想起させないわけではない、無知と鞭だけではないだろう。どんな風に使われるのか、と探ってみれば、次のような文章に行き当たった。

「そうだ。まず入れ入れが大事なんだ。儀式みたいなもんだ。  まずは入れ入れ。〜  おっぱいむちむち、肌はつるつる、腰はくねくね、  あそこはぐしょぐしょ、ばりんばりんのセックス・マシンだ。……」(村上春樹『海辺のカフカ』)


わたくしはーー時代錯誤的なのかもしれないがーー、なぜ「むちむち」程度のいわゆる駄洒落で人びとが騒ぎ立てるのか不思議でならなかった。いきすぎた「苦情の文化 CULTURE OF COMPLAINT」の顕れではないかとさえ感じたが、とはいえ「お怒り」になる方がいらっしゃるのはよくわかる。

というわけで--腫れ物にはできるだけ触らないようにしてーーここでは別の角度から記す。





実際のところ、16~18歳の少女たちが、多くの幅広い年齢層の男たちにとっての性的対象でないわけがない。それは同じ齢の少年たちが、多くの女性たちにとっては性的対象から外れるだろうこととは対照的だ(女性のことはよくわからないから、そうでないのかもしれないが)。

幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著
昭和二十年五月廿五日。 空晴れわたりて風爽かに、初て初夏五月になりし心地なり。室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに隣園の新綠染めしが如く、雀の子の巣立ちして囀る聲もおのづから嬉しげなり。この日予は宿泊人中の當番なれば午後止むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り手車に米、玉蜀黍二袋を積み載せ曳いてかへる。同宿人の中江戸川區平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋來りし可憐の一少女あり。年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し。予を扶けて共に車を曳く。路すがら中川邊火災當夜の事を語れり。是亦戰時の一話柄ならずや。(永井荷風 断腸亭日乗)


まさか女子高生たちを「性的対象」--異性としてのときめきの対象ーーにしてしまう男たちの心性までを非難するということではあるまい。実際、既に小学校の高学年頃から男女の成熟の度合いは際立って異なり、少年たちはそのことを痛感して育ってきているはずだ。あの頃の思いは容易に消えない。とくに利発で活発な少女に対してなら少年時代の男たちのだれもが、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)のようなものを覚えた少女たちが何人かいるに違いない。その「まぶしさ」に戸惑いあるいは反撥感を抱きつつ育ってゆく男たちもいるではあろうが。




母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)



《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(ヴェルハーゲ)--であるならば、少年時代に覚えた《隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》とは母への愛の(最初の)代替物とさえいえる場合がある筈だ。あるいは荷風のいうような《年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し》少女を男性軍の〈あなたたち〉は記憶のなかに一人も持っていないだろうか。

場合によっては四十男も五十男も少年時代の自らと同一化してあの時の少女への憧憬と同じ心持をもってこの今かたわらにいる少女を愛することさえあるはずだ。





とはいえわたくしはエリック・ロメールのようにハイ・ティーンの膝を愛するわけでもないし、むちむちを(たいして)愛するわけでもない。




ーー試合に負けちゃったけど、そんなにがっくりすることないわよ、ね、気を落さないで。

こういった光景を見て、あの頃の母の代替物のような少女の存在を愛するのだ。

……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」井上究一郎訳)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(同「逃げさる女」)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。