わたしは谷崎潤一郎が好きだが、永井荷風を愛してる。
わたくしはショパンが好きだが、シューマンを愛している。スワンはオデットを好きではなかったが、愛していた。
「ぼくの生涯の何年かをむだにしてしまったなんて、死にたいと思ったなんて、一番大きな恋をしてしまったなんて、ぼくをたのしませもしなければ、ぼくの趣味にもあわなかった女のために」(プルースト「スワンの恋」)
趣味があわなくても、人は愛するのである。他方、好きとは趣味が合うことである。
意味不明というなかれ。
ヴィトゲンシュタイン曰く「言語の意味はその用法である」。
ロラン・バルトの用法を使用したのである。
バルトは《礼儀正しい関心しか呼びおこさない》ものをストゥディウムと呼ぶ。
ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』ーー原文)
他方、《私を突き刺す》ものをプンクトゥムと呼び、こちらが愛するの次元である。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
…………
ところでプルーストにとって、
友情とはストゥディウム(好き)の次元にある。
恋愛とはプンクトゥム(愛する)の次元にある。
これはドゥルーズ=プルーストを読めば必然的にそうなる。
(プルースト自身の文は、「「思考のイマージュ」の遷移」を見よ)
哲学者には、《友人》が存在する。プルーストが、哲学にも友情にも、同じ批判をしているのは重要なことである。友人たちは、事物や語の意味作用について意見が一致する、積極的意志 esprits de bonne volonté のひとたちとして、互いに関係している。彼は、共通の積極的意志の影響下にたがいにコミュニケーションをする。哲学は、明白で、コミュニケーションが可能な意味作用を規定するため、それ自体と強調する、普遍的精神の実現のようなものである。
プルーストの批判は、本質的なものにかかわっている。つまり、真実は、思考の積極的意志 la bonne volonté de penser にもとづいている限り、恣意的で抽象的なままだというのである。慣習的なものだけが明白である。つまり、哲学は、友情と同じように、思考に働きかける、影響力のある力、われわれに無理やりに考えさせるもろもろの決定力が形成される、あいまいな地帯を無視している。
思考することを学ぶには、積極的意志や、作り上げられた方法では決して十分ではない。真実に接近するには、ひとりの友人では足りない。ひとびとは慣習的なものしか伝達しない。人間は、可能なものしか生み出さない。哲学の真実には、必然性と、必然性の爪が欠けている。実際、真実はおのれを示すのではなく、おのずから現れるのである。それはおのれを伝達せず、おのれを解釈する。真実は望まれたものではなく、無意志的 involontaire である。.
『見出された時』の大きなテーマは、真実の探求が、無意志的なもの involontaire に固有の冒険だということである。思考は、無理に思考させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる donne à penser》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である plus important que le philosophe, le poète。…『見出された時』にライトモチーフは、「強制する forcer」という言葉である。たとえば、我々に見ることを強制する印象とか、我々に解釈を強制する出会いとか、我々に思考を強制する表現、などである。
(……)われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりな友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。哲学は、そのすべての方法と積極的意志があっても、芸術作品の秘密な圧力の前では無意味である。思考する行為の発生としての創造は、常にシーニュから始まる。芸術作品は、シーニュを生ませるとともの、シーニュから生まれる。創造する者は、嫉妬する者のように、真実がおのずから現れるシーニュを監視する、神的な解釈者である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」の章)
ーーあえてくだくだしく説明する必要はないだろう。 明白である。
こうして、プルースト、ドゥルーズ、ロラン・バルトの三人の見解が一致した。
ここでラカンを呼び出すこともできるが、さてどうしようか。
たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。
Très souvent le punctum est un « détail », c’est-à-dire un objet partiel. Aussi, donner des exemples de punctum, c’est aussi, certaine façon, me livrer (ロラン・バルト『明るい部屋』既存訳からだが、 objet partiel の訳語を変えた)
見ての通り、プンクトゥムは部分対象である。対象aである。
私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.(ラカン、セミネール11)
対象aとは、「外密」である(外密とはフロイトの不気味なもののことである[参照])。
親密な外部、この外密が「物 das Ding」である。extériorité intime, cette extimité qui est la Chose (ラカン、S7)
対象a とは外密である。l'objet(a) est extime(ラカン、S16)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)
プルーストの次の文はーーわたくしの知る限り誰もが指摘していないがーー外密のことである。
……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト『ソドムとゴモラⅡ』「心情の間歇」)
大他者Aのなかにある小文字のaが外密である。
プルーストの小説とは、じつはほとんど常に外密のまわりをめぐっている。
バルベックの美は、一度その土地に行くともう私には見出されなかった、またそのバルベックが私に残した回想の美も、もはやそれは二度目の逗留で私が見出した美ではなかった、ということを。私はあまりにも多く経験したのだった、私自身の奥底にあるものに、現実のなかで到達するのが不可能なことを。また、失われた時を私が見出すであろうのは、バルベックへの二度の旅でもなければ、タンソンヴィルに帰ってジルベルトに会うことでもないのと同様に、もはやサン・マルコの広場の上ではないということを。また、それらの古い印象が、私自身のそとに、ある広場の一角に、存在している、という錯覚をもう一度私の起こさせるにすぎないような旅は、私が求めている方法ではありえない、ということを。
またしてもまんまとだまされたくはなかった、なぜなら、いまの私にとって重大な問題は、これまで土地や人間をまえにしてつねに失望してきたために(ただ一度、ヴァントゥイユの、演奏会用の作品は、それとは逆のことを私に告げたように思われたが)、とうてい現実化することが不可能だと思いこんでいたものにほんとうに自分は到達できるのかどうか、それをついに知ることであったからだ。(プルースト「見出された時」)
これは『失われた時を求めて』に繰り返し出現する主要テーマであり、 スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想等々、プルーストが繰り返し書いたのは、愛する理由は、愛の対象の中には決して存在しないことである。
それは、ロラン・バルトの《プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる》と同じことである。
同じく「またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ」において、ドゥルーズのプルースト論から「対象の鞘」/「我々自身の内部」の話を抜き出したが、これも同様である。
プルースト自身の文は次の通り。
それは、ロラン・バルトの《プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる》と同じことである。
同じく「またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ」において、ドゥルーズのプルースト論から「対象の鞘」/「我々自身の内部」の話を抜き出したが、これも同様である。
我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびており、後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだ A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître 》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。
我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
プルースト自身の文は次の通り。
人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。
それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。
それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)
こうしてプルースト、ラカン、ドゥルーズ、ロラン・バルトの四人がつながった。
しかしどうして世界中だれもが言っていないのだろう。あまりにも当然すぎるからか?
それともわたくしの徹底的な誤解だろうか。
もちろんわたくしはいま単純化しすぎているという点はあるだろう。それにしてもほんの掠る程度さえ誰も言っていないのはすこぶる奇妙である。
正否の判断は〈あなたがた〉にまかせる。
…………
実はこんなことを記すつもりはなかった。冒頭にショパンを好きだとしたが、ごく最近ショパンを愛するようになった。それを言おうとしたのだ。
ショパンを愛するようになったのは、マリラ・ジョナス Maryla Jonas のマズルカを聴いてからである。これはショパンを愛するというよりむしろ、マリラ・ジョナス=ショパン=マズルカを愛する、ということである。マズルカ以外は、ストゥディウムのままである。マズルカでもマリラ・ジョナス以外のマズルカは、ストゥディウムである。
彼女の演奏だけが、プンクトゥムである。そしてバルトのいうように、プンクトゥムは《細部》であり、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。そんなことはフィクションの形式をとらねば書けない。ロラン・バルトの言うように《人はつねに愛するものについて語りそこなう》のである。ようは「嘘によってしか愛するものを語ることはできない」のである。
◆続き→「プンクトゥム=テュケー」