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2017年4月24日月曜日

またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ

《またしてもまんまとだまされたくはなかった、 Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus》(「見出された時」)と、プルーストはいうが、人はときには騙される必要があるのではなかろうか。

◆Yuja Wang 2016 . Musician of year 2017 (Musical America awards).




ドゥルーズもプルーストを引用して、対象の鞘におさまっているものではなく、自分自身の内部にのびているものを深めねばならぬ、と言う。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびており、後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだ A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître 》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

だが真理の側面を犠牲にして、《ブラボー、ブラボー》と叫ぶのをしばらくお許しねがうことにする。

もっとも対象の鞘ではなく、蚊居肢散人自身の内部にのびているものは、果たして何なのだろうか、と問うことは何度もしてみた。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

つまり、たんに肢に惹かれているのではなかろうか、と疑い、裸肢なしの映像を眺めてみたが、いまだ魅惑と戦慄は消え去らない・・・

◆INCREDIBLE Yuja Wang!!!!



ひょっとして昔、対象の鞘におさまりそこねた女に似ているということはあるまいか。鉈を振るい損ねたあの少女に。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ここは本来は熟考のしどころである。プルーストも次のように言っているのだから。

娘たちや若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)

ああ、ユジャ・ワン (王羽佳)! 名前までとてつもなく美しい。あの少女はこんな高貴な名をもっていなかった。王が孵化すれば、女神となるにちがいない。

神は《わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)》(聖アウグスティヌス『告白』)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、セミネール23、 サントーム)

いまは素直に「ただあなたを見つめ Pur ti miro」ているだけしか手のうちようがない。

◆Pur ti miro (C. Monteverdi)