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2020年2月1日土曜日

あるときの、ある女の、ある表情


人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)






とってもいいな、この『マルグリット・ドートリッシュの肖像』(ベルナールト・ファン・オルレイ)の首から下をカットした画像。絵をみて久しぶりにからだが震えたよ。いままでこの絵をみたことがあったのかどうかでさえ判然としない絵画音痴の身なんだけど。

そう、「あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses」どころか、「私」とさえ言ってないようで。

わたしは手に、一冊の書物を持っていた。ジョルジュ・バタイユの『マネ』だ。

マネの描く女性はみな、あなたが何を考えているかわかってるわ Je sais à quoi tu penses、と言っているようだ。おそらくそれは、この画家に至るまでは、--このことを私はマルローから学んだのだがーー内的な現実(réalité intérieure)が宇宙[コスモス]よりもまだ捉え難かったからだ。

ダ・ヴィンチやフェルメールの有名な物憂い微笑みは、まず、私、と言う。私、それから、世界。ピンクのショールを纏ったコローの女性さえ、オランピアの考えることを考えていない。ベルト・モリゾの考えることも、フォリー・ベルジュールの女給の考えることも。なぜなら、ついに世界が、内的世界が、宇宙[コスモス]とともに、近代絵画が始まったからだ。つまり、シネマトグラフが。つまり、言葉へと通じてゆく形式が。より正確を期すれば、思考する形式(une forme qui pense)が。映画は最初は思考するために作られたということは、すぐさま忘れられるだろう。だがそれは別の話だ。炎はアウシュヴィッツで決定的に消えてしまうだろう。この考えには、いささかの価値がある。(ゴダール『(複数の)映画史』「3A」)


最近の女はゴダールのいうような女ばっかりだからな、
さらにいえば媚びが生きがいみたいな女たち。
だからよけいホロリとなるね、ドートリッシュのような表情されると。
みんなあの表情をまだどこかにもっているはずなんだけどな。

あたしはけっして媚びてなんかいませんだって?

ーー「自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚である」(ラ・ロシュフーコー)

ラ・ロシュフーコーだったらあのマルグリットのあの表情にさえ媚びをみただろうし、たしかにあの内に内にむかうまなざしにもたぶん何かへの媚びはあるのかも、ーーたとえば神の眼差し(ここでは彼女の歴史上の「事実」は無視させていただき「妄想」に徹することにする)。

あるいは倒錯女かも。

テクストの舞台には、客席との間の柵がない。テクストのうしろに、能動的な者(作者)もいない。テクストの前に、受動的な者(読者)もいない。主体も、対象もない。テクストは文法的な態度を失わせる。それは、ある驚くべき著述家(アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius)の語っている区別できない眼だ。《私が神を見ている眼は、神が私を見ている眼と同じである[L'œil par où je vois Dieu est le même œil par où il me voit](ロラン・バルト『テキストの快楽』( Le plaisir du texte 、Date de parution 01/02/1973)
例えば、アンゲルス・シレジウス Angelus Silesius 。彼は自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同している confondre son œil contemplatif avec l'œil dont Dieu le regarde。そこには、倒錯的享楽 la jouissance perverse があるといわざるをえない。(ラカン S.20, 20 Février 1973)







閑話休題


われら糞と尿のさなかより生まれ出づ 
inter faeces et urinam nascimur
然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり
ーー聖アウグスティヌス「告白」
tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo   ―Aurelius Augustinus, Confessiones


アウグスティヌスのinterior intimo meo et superior summo meo とは、ラカンのextimité (extériorité intime)だ。

私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン,S7, 03 Février 1960)
モノは母である。das Ding, qui est la mère (ラカンS7, 16 Décembre 1959)
ラカンは外密 extimitéという語を…フロイトとハイデガーが使ったモノdas Ding (la Chose)から導き出した。…外密 extimitéという語は、親密 intimité を基礎として作られている。外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。外密は、異者としての身体corps étrangerのモデルである。…外密はフロイトの 「不気味なものUnheimlich 」同じように、否定が互いに取り消し合うnégations s'annulent 語である。(Miller, Extimité, 13 novembre 1985)


上のミレール の注釈が示唆しているように、モノdas Ding=外密 extimitéはフロイトの不気味なものが起源。

女陰weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女陰 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。したがって不気味なもの Unheimliche とはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの Heimische、昔なじみのものなの Altvertraute である。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴 Marke der Verdrängung である。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)


で、これでめでたしめでたしだよ、つまり「糞と尿のさなか inter faeces et urinam nascimur」も解決した。

問題となっている「女というもの La femme」は、「神の別の名 autre nom de Dieu」である。その理由で「女というものは存在しない elle n'existe pas」のである。(ラカン、S23、18 Novembre 1975)



Marguerite d Autriche par Bernard van Orley vers 1518



Le Dieu est LȺ Mère
享楽自体、穴Ⱥをを為すもの、取り去らねばならない過剰を構成するものである la jouissance même qui fait trou qui comporte une part excessive qui doit être soustraite。

そして、一神教の神としてのフロイトの父は、このエントロピーの包被・覆いに過ぎない le père freudien comme le Dieu du monothéisme n’est que l’habillage, la couverture de cette entropie。

フロイトによる神の系譜は、ラカンによって、父から「女というもの La femme」 に取って変わられた。la généalogie freudienne de Dieu se trouve déplacée du père à La femme.
神の系図を設立したフロイトは、〈父の名〉において立ち止まった。ラカンは父の隠喩を掘り進み、「母の欲望 désir de la mère」[Ⱥ]と「補填としての女性の享楽 jouissance supplémentaire de la femme」[S(Ⱥ) ]に至る。

こうして我々は、ラカンによるフランク・ヴェーデキント『春のめざめ』の短い序文のなかに、この概念化を見出すことができる。すなわち、父は、母なる神性・白い神性の諸名の一つに過ぎない noms de la déesse maternelle, la Déesse blanche、父は《母の享楽において大他者のままである l'Autre à jamais dans sa jouissance》と(AE563, 1974)。(Jacques-Alain Miller、Religion, Psychoanalysis、2003)
〈母〉、その基底にあるのは、「原リアルの名」である。それは「母の欲望」であり、「原穴の名 」である。Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou (コレット・ソレールColette Soler « Humanisation ? »2014)



ミレールは、フロイトは父の名で立ち止まったと言っているが、最晩年のフロイトには母の名の示唆がある。
偉大な母なる神 große Muttergottheit」⋯⋯もっとも母なる神々は、男性の神々によって代替される Muttergottheiten durch männliche Götter(フロイト『モーセと一神教』1938年)

ようするに父の名 Nom-du-Père は母の名 Nom de la Mèreに対する防衛にすぎない。あるいは母なる穴Trou de la Mèreに対する防衛。






NP
父の名


LȺ Mère
母なる穴





「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé …この意味はすべての人にとって穴があるということである[ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )
我々の言説はすべて、現実界に対する防衛である tous nos discours sont une défense contre le réel 。(J.A. Miller, Clinique ironique, 1993)

以上、いつも言っていることだが、蚊居肢子はほとんど常にテキトウに書いているからな(誰かを罵倒するときだけマジだよ)、マガオでシンヨウしないように。あのマルグリット・ドートリッシュの表情に震えてーー聖なるパックリ女みたいでーー、瞬間的に血迷っただけかも。



2019年11月22日金曜日

私を泣かせてください




ヌリア・リアルはバッハのカンタータをしばしば歌うので、ときに聴くのだが、真に魅せられたことはない。でも上のヘンデルの 「Lascia ch'io pianga(私を泣かせてください)」はとってもいい。惚れ惚れする。

1975年カタローニア生まれのヌリア・リアル Nuria Rialは実に愛らしい顔をしている。




ーーこの娘が「私を泣かせてください」で「母」になったのである。


次の映像は録音風景だが、たいして髪の手入れもせず、飾り気のない田舎娘という感じで、とっても自然な女性だ。





それほど気に入っていなかったヌリアの「ずっとあなたを見つめ PUR TI MIRO」をふたたび聴いてみることになる。遡及的な愛である。





わたくしはこの曲にかんしては至高のバッハ歌いのひとりアーリーン・オジェーArleen Auger のものを好んできたのだがーーとくに冒頭の静けさから湧き上るような呼び声ーーー、ヌリアの自然さだってとってもいいさ。




2019年4月21日日曜日

その声は沈黙にそっくりだった

いやあ、実にすばらしいな、このベケット。「マルグリット・デュラスの声、そして時間」 (たけだ はるか)pdfから拾ったのだけれど(ほかにもすばらしい引用がふんだんにある)。

武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』をあわせて引用しようと思ったけどやめた。このベケットの文といくらか同じ感覚を与えてくれる沈黙と測り合えるほどの歌曲をいったん貼り付けたんだけどそれも消した。この文にはまったくかなわないから。歌じゃなくてグールドを貼り付けるってのもちょっとへんだし。


ぼくはときどき、アンヌが部屋で歌をうたっているのを耳にしたが、かのじょの歌は、かのじょの部屋の扉を通りぬけて、それからキッチンを通って、それからぼくの部屋の扉を通りぬけてやってきて、弱くきこえるとはいっても、そこに疑いの余地はない。かのじょが廊下を通ったのではない限りは。ときどき歌をうたっているのが聞こえるからといって、そうしたことは、ぼくにとって、大した邪魔にはならないのだ。
ぼくは、その歌のことを知らなかったし、聞いたことも一度だってなかったし、これから聞くことも、けっしてないだろう。ぼくは、ただ、歌のなかに、レモンの木やオレンジの木が話題になっていたということは覚えていて、なぜなら、ぼくが聞いたことがあるほかの歌というのがあって、ぼくはほかの歌を聞いたことがあるんだけれど、なぜなら、ぼくのように生きていたって、聾唖者でないならば、歌を聞かずにいきるなんてことは不可能のようだから、だけどぼくは何も覚えられなくて、一つの歌詞も、一つの音符も、ほんの僅かの言葉も、ほんの僅かの音符も、それが、それが何、何でもないものであっても、ぼくには覚えられなくて、というこの文はずいぶん長くなってしまったな。それで、ぼくは遠ざかったんだ、遠ざかりながら、それでもだれかがべつの歌をうたっているのが聞こえてきて、あるいは それは、おなじ歌のつづきだったのかも知れないけれど、それは小さな声で、ぼくが遠ざかれば遠ざかるほど弱くなっていって、それは、かのじょが歌をうたうのをやめたからにせよ、ぼくが声が聞こえないくらいひどく遠ざかってしまったからにせよ、とうとう声は黙ってしまった。…だからぼくは少しまえへすすんだけれど、立ち止まった。はじめは何も聞こえなかったのが、つづいて声が聞こえてきた けれど、ほんのかすかで、それくらい、声はぼくの所に弱々しく届いた。ぼくには聞こえなかったのに、ぼくには聞こえるようになっていたから、そうなれば、ぼくは歌を聞きはじめた、といっても、そうではなくて、はじまりという のはなくて、それくらい、声というのはゆっくりと沈黙から外にでてきたのであって、それほどに、その声は沈黙にそっくりだった。(ベケット『初恋』)

でもひとつだけ引用しておこう、《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》(ミシェル・シュネデール、グールド論)と。


2018年1月18日木曜日

ララング定義集

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21,08 Janvier 1974)
ここでニーチェの考えを思い出そう。小さなリフレインpetite rengaine、リトルネロritournelleとしての永遠回帰。しかし思考不可能にして沈黙せる宇宙の諸力を捕獲する永遠回帰。(ドゥルーズ&ガタリ、MILLE PLATEAUX, 1980)

ーーフロイトにとって永遠回帰とは、快原理の彼岸にある反復強迫 Wiederholungszwang、運命強迫 Schicksalszwang だった。そしてニーチェの傍らにいたルー・アドレアス・サロメにとっても、《生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい「不気味なunheimliche」何ものか》(1894年)とした(参照)。

心的無意識のうちには、欲動の蠢き Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919)

不気味なものとは、ラカン派用語では外密のことである。

外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimitéーー「ひとりの女とは何か?」)

クロソウスキーは、永遠回帰は至高の欲動だ、と言った。

・永遠回帰 L'Éternel Retour …回帰 le Retour は権力への意志の純粋メタファー pure métaphore de la volonté de puissance以外の何ものでもない。

・しかし権力への意志 la volonté de puissanceは…至高の欲動 l'impulsion suprême のことではなかろうか?(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

ララング lalangue は至高の欲動、あるいは《欲動の根 Triebwurzel》 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』)にかかわる。

⋯⋯⋯⋯

◆コレット・ソレール2009
ラカンはララング を次のように説明する。すなわち、ララング lalangueは、“lallation 喃語”と同音的である。“Lallation”はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声である。が、我々が知っているように、非意味であるにもかかわらず、幼児の満足状態からは分離されていない。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )


◆Antonio Quinet、2017
ラカンによれば、ララングは単に言語秩序に属するのではない。ララングは享楽から来る。ララングは謎の情動の源泉である。

ララングのなかに含まれる享楽、それは人間存在のなかに、リズミカルな高揚・刻印・楔を置き残す強烈な効果を伴う。

人はそれぞれ、このララングの謎の圧倒的な音のシャワーによって、熱に浮かされトラウマ化される。

ラカンのトラウマとは、ララングの享楽との最初の遭遇である限りで、フロイトの性的(欲動的)トラウマと密接な関係がある。(Antonio Quinet、Lacan's Clinical Technique: Lack(a)nian Analysis、2017)


◆コレット・ソレール2009

ララングは享楽を情動化する。…ララング Lalangue は象徴界的 symbolique なものではなく、現実界的 réel なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外 hors chaîne のものであり、したがって意味外 hors-sens にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる
 le signifiant devient réel quand il est hors chaîne)。そしてララングは享楽と謎の混淆をする。…ララングは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。…ラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(同上ソレール、L'inconscient Réinventé )


◆ジャック=アラン・ミレール、1998、2012、2011
真のトラウマの核は、誘惑でも、去勢の脅威でも、性交の目撃でもない。…エディプスや去勢ではないのだ。真のトラウマの核は、言葉 la langue(≒ララング)との関係にある。(ミレール、1998 "Joyce le symptôme" )
身体における、ララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(ミレール、2012、Présentation du thème du IXème Congrès de l'AMP par JACQUES-ALAIN MILLER
身体の出来事は、トラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。événement de corps…est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard

…この享楽は、固着の対象である。elle est l'objet d'une fixation

…女性の享楽は、純粋な身体の出来事である。la jouissance féminine est un pur événement de corps ジャック=アラン・ミレール 、Miller, dans son Cours L'Être et l'Un 、2011)

《症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

ーーこの「症状 symptôme」は、「サントーム sinthome」のことである。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール, Fin de la leçon 9 du 30 mars 2011)


◆Pierre-Gilles Guéguen、2016、2013
肉の身体は、生の最初期に、ララングによって穴が開けられる。我々は、セクシャリティが問題になる時はいつでも、この穴=トラウマの谺を見出す。サントームの身体、肉の身体、存在論的身体はつねに自閉症的享楽・非共有的享楽を示す。

le corps de chair est troué par Lalangue, très tôt dans la vie et qu'on retrouvera les échos de ce troumatisme à chaque fois que la sexualité sera en jeu. Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste et non partageable.(ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens, 2016)
ラカンは言語の二重の価値を語っている。肉体をもたない意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDF
身体の享楽は自閉症的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉症的である。(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)


◆コレット・ソレール、2011
最初期、われわれの誰にとっても、ララング lalangue は音声媒体 médium sonore から来る。幼児は、他者が彼(女)に向けて話しかける言説のなかに浸されている。子供の身体を世話することに伴う「母のララング lalangue maternelle」はこの幼児を情動化する。あらゆることが示しているのは、母の声による情動は意味以前のものであるということである。差分的要素 élément différentiel は言葉ではなく、どんな種類の意味も欠けている音素 phonèmeである。母のララングの谺である子供の片言ーーあるいは喃語 lalationーーは、音声と満足とのあいだの連結を証している。それはあらゆる言語学的統辞や意味の獲得に先立っている。ラカンは強調している、前言葉 préverbal 段階のようなものはない、だが前言説的 prédiscursif 段階はある、と。というのはララング lalangue は言語 language ではないから。

ララングは習得されない。ララングlangageは、幼児を音声・リズム・沈黙の蝕éclipse等々で包む。ララングlangageが、「母の言葉 la dire maternelle」と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に(母による)最初期の世話に伴う身体的接触に結びついている liée au corps à corps des premiers soins から。フロイトはこの接触を、引き続く愛の全人生の要と考えた。

ララングは、脱母化 dématernalisants をともなうオーソドックスな言語の習得過程のなかで忘れられゆく。しかし次の事実は残ったままである。すなわちララングの痕跡が、最もリアルなーー意味外のーー無意識の核 le noyau le plus réel - hors sens - de l'inconscient を構成しているという事実。したがってわれわれの誰にとっても、言葉の錘りは、言語の海への入場の瞬間から生じる、身体と音声のエロス化 érotisation の結び目に錨をおろしたままである. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ーー《〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。》(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」とは、原トラウマの名のことである。


◆Geneviève Morel 2009、2005
我々は、母の言葉(ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel 2009, Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law)
サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴づけられたままである。Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(ジュヌヴィエーヴ・モレル Geneviève Morel, Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

以上より、少し前提示した図(参照:女性の享楽と現勢神経症)に、(「言語内の享楽」に対する)「ララングの享楽」を付記できるだろう。



ララングは固有名の核である (Bernard Nomine、2015
単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)



⋯⋯⋯⋯

※附記

ララング≒喃語、ララング=言葉の物質性 motérialitéとの記述があった。

中井久夫のララング論」から一部再引用する。


【「もの」としての言葉】
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)


【喃語】
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


もちろん人はここで、アルトーの 「舌語・異言 glossolalie(グロソラリ)」等を想起することもできるだろう)。

…いまや勝利を得るには、語-息、語-叫びを創設するしかない。こうした語においては、文字・音節・音韻に代わって、表記できない音調だけが価値をもつ。そしてこれに、精神分裂病者の身体の新しい次元である輝かしい身体が対応する。これはパーツのない有機体であり、吸入・吸息・気化・流体的伝動によって、一切のことを行なう(これがアントナン・アルトーのいう卓越した身体、器官なき身体である)。(ドゥルーズ『意味の論理学』「第十三セリー」1969年)


ドゥルーズ&ガタリは、リトルネロについて次のように記している。

リロルネロは三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスが巨大なブラックホールとなり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道を接ぎ木して、ブラックホールの外にでる。

La ritournelle a les trois aspects, elle les rend simultanés, ou les mélange : tantôt, tantôt, tantôt. Tantôt, le chaos est un immense trou noir, et l'on s'efforce d'y fixer un point fragile comme centre. Tantôt l'on organise autour du point une « allure » (plutôt qu'une forme) calme et stable : le trou noir est devenu un chez-soi. Tantôt on greffe une échappée sur cette allure, hors du trou noir.(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

ブラックホールという用語が出てきているが、ラカン派においては、上に示した図に現れる右の項のS(Ⱥ)とは、ブラックホールを表すマテームでもある。




あなたを吸い込むヴァギナデンタータ、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?)

S(Ⱥ)とは、穴Ⱥ(トラウマ)のシニフィアン、フロイトの欲動のシニフィアン、原抑圧(原固着)のシニフィアン(ラカンのサントーム)である(詳細参照:S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴)。

S(Ⱥ)、すなわち「斜線を引かれた大他者のシニフィアン S de grand A barré」。これは、ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne である。(ミレール、Jacques Alain Miller, 6 juin 2001, LE LIEU ET LE LIEN, pdf)
ラカンは後期の教えにおける⋯⋯穴Ⱥとは、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir)

最後に『千のプラトー』における最も美しい文のひとつ(「リトルネロについて」の章の冒頭)を掲げておこう。

暗闇に幼い児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave(すべてをお忘れなさい)" (Arnalta)



ーーアリアドネの小声の歌は、冥界を彷徨っている(参照:アリアドネのたたり

もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

⋯⋯⋯⋯

※追記

最晩年のラカンはララングについて次のように言っている。

想像界の身体がある。
象徴界の身体がある。それはララング lalangue である。
現実界の身体がある。我々はこれについて如何に生ずるのか分からない。

il y a :
- un corps de l'Imaginaire,
- un corps du Symbolique, c'est lalangue,
- et un corps du Réel dont on ne sait pas comment il sort. (Lacan, S24、16 Novembre 1976)

さらに同じセミネール24で《ララングは…現実界を作る faire-réel》(19 Avril 1977)、《ララングは、現実界的なもの le Réel ment だろうか? 》(10 Mai 1977)ともある。





2017年8月17日木曜日

巫女たちの声

神語を以て、なぜ文学の芽生えと見るか。口頭の文章が、一回きりにとほり過ぎる運命から、ある期間の生命を持つ事になるのは、此時を最初とするからである。

われ〳〵の祖先が、其場ぎりに忘れ去る対話としての言語の外に、反復を要する文章の在る事を知るのは、此神語にはじまるのである。神語以外に、永続の価値ある口頭の文章が、存在しなかつたからである。(……)

律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。(……)

わが祖先の用ゐた語にしゞまと言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言の行」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

いやあ折口のいう神語という古代の日本語を読んでも、わたくしの耳には神の声は聞こえてこないね。耳がわるいせいかな……。万葉だっていけない。古事記にはまったくない、というわけでもないが。

どうあっても音楽のほうがいいよ、万葉万葉といってる国学者連中は、たぶん音痴なんだろうよ。


◆Ane Brun Lamento Della Ninfa Amor, Oh Love 2 Meter Sessi




◆Oralia Dominguez - Adagiati, Poppea




神主の厳格な用語例は、主席神職であつて、神の代理とも、象徴ともなる事の出来る者であつた。神主と国造とは、殆ど同じ意義に使はれて居る事も多い位である。村の神の威力を行使する事の出来る者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母など言ふ類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主の為に、村及び村人の生活を保つ様々の方法を授けた。其高級巫女の下に、多数の采女と言ふ下級巫女が居た。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

采女と言ふ下級巫女からだって、万葉よりはよっぽど神の声がきこえてくるよ

◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"






2017年4月24日月曜日

またしてもまんまとだまされて、ただあなたを見つめているだけ

《またしてもまんまとだまされたくはなかった、 Je ne voulais pas me laisser leurrer une fois de plus》(「見出された時」)と、プルーストはいうが、人はときには騙される必要があるのではなかろうか。

◆Yuja Wang 2016 . Musician of year 2017 (Musical America awards).




ドゥルーズもプルーストを引用して、対象の鞘におさまっているものではなく、自分自身の内部にのびているものを深めねばならぬ、と言う。

我々のどの印象もふたつの側面を持っている。《あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびており、後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだ A demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-même par une autre moitié que seul nous pourrions connaître 》(プルースト)。それぞれのシーニュはふたつの部分を持っている。それはひとつの対象を指示しdésigne、他方、何か別のものを徴示する signifie。客観的側面は、快楽 plaisir、直接的な悦楽 jouissance immédiate 、それに実践 pratique の側面である。

我々はこの道に入り込む。我々は《真理》の側面を犠牲にする。我々は物を再認reconnaissons する。だが、我々は決して知る connaissons ことはない。我々はシーニュが徴示すものを、それが指示する存在や対象と混同してしまう。我々は最も美しい出会いのかたわらを通り過ぎ、そこから出て来る要請 impératifs を避ける。出会いを深めるよりも、容易な再認の道を選ぶ。ひとつのシーニュの輝きとして印象の快楽を経験するとき、我々は《ちぇ、ちぇ、ちぇ zut, zut, zut 》とか、同じことだが《ブラボー、ブラボー》とかいうほかない。すなわち対象への賞賛を表出する表現しか知らない。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

だが真理の側面を犠牲にして、《ブラボー、ブラボー》と叫ぶのをしばらくお許しねがうことにする。

もっとも対象の鞘ではなく、蚊居肢散人自身の内部にのびているものは、果たして何なのだろうか、と問うことは何度もしてみた。

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)
秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)

つまり、たんに肢に惹かれているのではなかろうか、と疑い、裸肢なしの映像を眺めてみたが、いまだ魅惑と戦慄は消え去らない・・・

◆INCREDIBLE Yuja Wang!!!!



ひょっとして昔、対象の鞘におさまりそこねた女に似ているということはあるまいか。鉈を振るい損ねたあの少女に。

妻とギー兄さんは森の鞘に入って山桜の花盛りを眺めた日、その草原の中央を森の裂け目にそって流れる谷川のほとりで弁当を食べた。(……)そして帰路につく際、ギー兄さんは思いがけない敏捷さ・身軽さで山桜の樹幹のなかほどの分れめまで登り、腰に差していた鉈で大きい枝を伐ろうとした。妻は心底怯えて高い声をあげ、思いとどまってもらった。(大江健三郎『懐かしい年への手紙』)

ここは本来は熟考のしどころである。プルーストも次のように言っているのだから。

娘たちや若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいだいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう! (プルースト「ゲルマントのほうⅡ」)

ああ、ユジャ・ワン (王羽佳)! 名前までとてつもなく美しい。あの少女はこんな高貴な名をもっていなかった。王が孵化すれば、女神となるにちがいない。

神は《わたしのもっとも内なるところよりもっと内にましまし、わたしのもっとも高きところよりもっと高きにいられました。(interior intimo meo et superior summo meo)》(聖アウグスティヌス『告白』)

「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。(ラカン、セミネール23、 サントーム)

いまは素直に「ただあなたを見つめ Pur ti miro」ているだけしか手のうちようがない。

◆Pur ti miro (C. Monteverdi)





2016年4月3日日曜日

Bernarda Fink の「声の肌理」

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)

◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"




フィッシャー=ディスカウは、今日、歌曲のLPの全部をほとんど独占的に支配している。彼は何でも吹き込んだ。もしシューベルトが好きで、フィッシャー=ディスカウが嫌いだとすると、今日では、もうシューベルトは〈禁止された〉も同然だ。あの(充実による)実質的検閲の好例である。これこそ大衆文化の特徴をなすものだが、といって誰も決して彼を非難しようとしない。それは、おそらく、《きめ》のない、能記の重味のない声によってもたらされる、表現的で、劇的で、〈感情的に明晰な〉彼の芸術が〈平均的〉文化の要求にうまく合致しているからであろう。聴くことがふえ、みずから演奏することがなくなった(もうアマチュアはいない)ことによって定義されるこの文化は、芸術が、音楽が、明晰でさえあれば、そして、情緒を《表現》し、所記[シニフィエ](詩の《意味》)を表象してさえいれば、それらを欲するのである。
今日、大量生産のLPの影響で、テクニックが平板化しているようだということを思い起こす必要があろうか。この平板化は逆説的である。すべての芸は〈完成と共に〉平板になる。もはや、現れとしてのテクストしかない(バルト「声のきめ」沢崎浩平訳

◆Dietrich Fischer-Dieskau "Du bist die Ruh"



テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。

古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒(=声の肌理:引用者)によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物であり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ(だから、極東の芝居ではこれが重視される)。言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(悦楽を予想して)は衝動的な偶発事である。肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の錆、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない。ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。実際、映画が非常に近くから言〔パロール〕の音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、楽しんでいるのだ。(ロラン・バルト『快楽のテキスト』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



…………

私がララング lalangue という語で言おうとしているのは、私自身を構造主義から区別するためである。構造主義が言語を記号論に統合する傾向にある、という限りで。(……)

ララングは、コミュニケーションの目的とは全く異なった目的に奉仕する。それは、無意識の経験が我々に示してくれるものだ。(ラカン、アンコール(セミネールⅩⅩ))

ここには、「無意識は言語のように構造化されている」のラカンとは明らかに別のラカンがいる。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice)  

わたくしが Bernarda Finkに歌唱に特別の愛着をもつのは、バルトのいう「声のきめ」のせいではないのかもしれない。だが個人的なーーわたくし固有のーー「声のきめ」であることは間違いない。


◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO



話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。


ーー「話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant」とは、「分析における転移的無意識は、既に、現実界に対する防衛」/「ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇」(ミレール、AMP VIII Congress, Buenos Aires 2012)の対照でもある。


◆Esurientes Implevit - Bernarda Fink




言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)


2015年11月1日日曜日

火傷するほど「熱い」Raquel Andueza

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

…………

Chanson d'amour(Lois Marshall)」という投稿をするときに、フォーレの「Chanson d´Amour」を何人かの歌手の録音で聴いてみたのだが、そのとき、Raquél Andueza(ラケル・アンドゥエサ)の歌い方には、いささか違和があった。思い入れが込められすぎている、感情過多だ、清澄さに欠ける等々、--これではフォーレにふさわしくない、と感じたのだ。

◆Chanson d´Amour, Gabriel Faure, Raquél Andueza.




昨晩ふたたび聴いてみると、以前とは異なってとても惹きつけられる。二十前後の青春期の男が、このオネエサンすごいなあ、と口をポカンと開けて聴き惚れているような感覚にとらわれた。すなわち、青春期に戻った気分になっているわたくしを見出した。

なぜそうなったのかは記すと長くなるのでーーそれだけでなく、わたくしのヒミツにも触れそうな気がするのでーー書かない。ようするに、《火傷するほど「熱い」》ことにかかわりそうなのだ。

わたくしは当時、アマチュア合唱団に所属していた(大学内部のではなく、年輩者も多い合唱団である。 岡村喬生と共演したこともある、--といってもわたくしは後ろにひかえる多人数の一人であったにすぎないのは言うまでもない、小澤征爾のような髪型をしたやんちゃな指揮者が合唱団員をしごいた、指揮棒が飛んできた・・・ )。

ヴェルディのラクリモーサを歌うあのときのおねえさんはひどくウツクシカッタ・・・




すでに出版された自著への態度は人によって非常に異なるようである。私は普通、改訂はしない。読み返すこともほとんどない。書店に入っても著書が並んでいる本棚の前は避けて通ってしまう。私にはまだ手にとって火傷するほど「熱い」のである。

翻訳の場合にはこの過敏症はない。特に訳詩となると、これは少し間を置けば何度読み返しても飽きないし、少しずつ訂正してしまう。書店に並んでいるとほっとしてその書店を祝福したくなる。これはおそらく私が翻訳という安全な隠れ蓑を着て私の著作家としてのナルシシズムを安全無害に放電しているのであろう。もし私の詩集という実在しないものが書店に並べば私はその前をとおりにくいのは他の著作以上だろう。 (中井久夫「執筆過程の生理学」)

Raquel Anduezaはもともとバロック以前の作曲家たちの歌い手のようだ。Philippe Jarousskyとも共演しているが、わたくしは彼の歌唱に馴染めないので貼り付けない(これもいつ変わるかわからない)。





◆Raquel Andueza - L'amante segreto - Barbara Strozzi




◆Sé que me muero - RAQUEL ANDUEZA & LA GALANÍA




◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi



プルーストのいうように、書物だけでなく芸術作品は自分を読む「眼鏡」である。《自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせる》ものなら、なんでもすばらしい。もちろん最低限の形式的な美をもっていなくてはならない、という観点はあるだろう。

だがプルーストは次ぎのようにさえ言っている、《われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。》(プルースト「逃げさる女」)

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。

したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。

本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。

さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べている。

粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。

こう引用したからといって、Raquel Anduezaが「粗悪の歌手」だとか「石鹸の広告」だとか言いたいのではない。彼女のBarbara Strozzi(バルバラ・ストロッツィ)などの清澄な歌声の裏には、冒頭のフォーレと末尾のモンテヴェルディの歌い方がある、ということを言いたいだけだ。

彼女のバッハを二曲ほど聴いてみたが、あれは、--ちょっといけない。
実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛

スワンのオデットへの愛、主人公のジルベルトやゲルマント公爵夫人、あるいはアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。


2015年10月21日水曜日

にわかに逞しくなった膝

 人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)

…………

ツイッターの古井由吉botで次の文を拾った。

・病気ではない、この二年半の間にどこかの男とよほど深い関係にあったのだ、と岩崎は睨んだ。もう切れたあとか、切れかけているのか、それとも澱んでしまっているのか知らないが、おそらく佐枝はその関係の始まる前の時点にもどろうとして、岩崎の存在を思出したのにちがいない。

・そう言えば抱かれている時にも、孤独を守っていた。岩崎によって、男にたいして孤独になろうとしていた。

・「わかってるよ。お前が男と暮しているとは思っていないさ。男が部屋へ通ってくるとも、思っていない。そんな艶っぽいことのある女の顔はしてないさ。ただ、なんとなく、嫉くんだよ。お前がそれを許すんだ。村では、俺の横着さをどこまでも許したが」

・にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。

・やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』「栖」)

ーーなんという目が眩むような文だろう、 〈あなた〉は性戯の最中に女をからかたことなどにより、《にわかに逞しくなった膝で》《身体を押しのけるように》されたことはないか。

そしてその反動で《相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちて》きて凶暴な心持に襲われたことはないか。

《かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出》したことは〈あなた〉ではない〈わたくし〉にはないが、《鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかけ》たことぐらいはある。

ああ、そうしたあと、女は《細く澄んだ声を立てはじめる》、だが《男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だ》。

私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳)




そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)

ああ女にはかなわない。われわれはつねに負ける。

ーー「負ける」だって? 愛とは勝ち負けじゃないわよ、などとほどよく聡明なお方がたぶんおっしゃられることだろう。

「ほどよく聡明な」とは場合によっては「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)のことである。負ける/勝つとは受動性と能動性のことさ。

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。(Paul Verhaeghe 、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

ほかに肝腎なのは、《〈他〉の性自体は、両方の性にとって、女性の性female sexである。それは、男にとっても女にとっても〈他〉の性である》(The Axiom of the Fantasm ,Jacques-Alain Miller)、すなわち男女とも最初の愛の対象〈女=母〉が〈他〉の性であることだ。

そしてどの現実の女性にもこの〈他〉の性の影が落ちており、他方、現実の男性にはこの〈他〉の性の影が稀にしかないということだ。


男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。( カーミル・パーリア「性のペルソナ」




ーー瞬間的に「勝った」と思ってもダメだ、すぐそのあとが待っている。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝*1とある皇后*2自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ)

*1 ティトゥス・イリウス・プロクルス。
*2 クラディウス帝の妃メッサリナ。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びます。(ジャック=アラン・ミレール『ピロポ』)




構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。(Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、私意訳)。

…………

この半年ぐらい歌曲をかなり聴いたのだが、歌曲とはくり返し聴いていると飽きる。とくに歌い手の個性が強く出すぎているものは、最初はひどく惹きつけられるが、しばらくするとウンザリしてくる。

◆NINON VALLIN "Les berceaux" Fauré






ーーおい、スゴイ声だな、NINON VALLINって。でももういいよ。


たくさん聴いたなかで生き残っているのは、モンテヴェルディをうたうBernarda Finkの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」だ。この〈母〉なる声にすべてを忘れよう、たとえも貪り食われてもいいじゃないか。

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』p359)

この歌声はカオスの中に秩序をつくるだけじゃない、アリアドネの糸に引っ張られて母胎のなかに吸い込まれる感覚をもたらす。

・迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。(ニーチェ 遺稿)

・賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)

そしてあの〈母〉なるものに抵抗しようとするEZIO PINZAの「全てを忘れろ!」である。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




…………

さて、なにが言いたかったのだろう。

しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳) 



2015年7月20日月曜日

「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」(Bernarda Fink)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(『千のプラトー』p359)

世界にはカウンターテナーの声が好きな人たちもいるらしいが(たとえばPhilippe Jaroussky)、なんというちがいだろう・・・いや以前彼の歌唱でなにかを気に入ったことはあったような気はするが、--左様ナラ!

Philippe JarousskyならバスのEZIO PINZAのほうがずっとマシだ。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




上に引用した「ミラプラトー」はリトルネロの章の冒頭だが、ほかの章にもこうある。

われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子どもが暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない、ばあ」(Fort-Da)の呪文を唱えたりする(精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとするからだ)。タララ、タララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つ節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌いはじめる。ジャヌカンからメシアンにいたるまで、音楽は実にさまざまな形で、小鳥の歌に貫かれている。ルルル、ルルル。音楽は幼児期のブロックによって、また女性性のブロックによって貫かれている。音楽はありとあらゆるマイノリティに貫かれているが、それでもなお絶対な力能を構成する。子供たちのリトルネロ、女たちの、さまざまな民族の、さまざまな領土の、そして愛と破壊のリトルネロ。そこにリズムが生まれる。シューマンの全作品はリトルネロや幼児期のブロックから成り立ち、そこに独自の処理がほどこされている。こうしてシューマン独自の子供への生成変化と、クララという名をもつ女性への生成変化が生まれる。子供の遊戯や子供時代の光景、そして小鳥の歌をすべて拾いあげ、音楽史上のリトルネロが示す斜線上の、あるいは横断的な用例を一覧表にまとめあげることはできるだろう。しかし一覧表など何の役にも立たない。実際には音楽にとって本質的で必然的な内容が問題となっているのに、一覧表を作ってしまうと、主題や題材のモチーフの豊富な実例に目を奪われることになるからだ。リトルネロのモチーフは不安、恐怖、悦び、愛、労働、行進、領土など、さまざまでありうる。しかしリトルネロ自体はあくまでも音楽の内容なのである。

われわれは、リトルネロが音楽の起源であるとか、音楽はリトルネロをもって始まると主張しているのではない。いつ音楽が始まるのか、実のところよくわからないのだ。それにリトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか。しかし音楽が存在するのは、リトルネロもまた存在するからだ。音楽は内容としてのリトルネロととりあげ、これをつかもとって表現の形式に組み入れるからだ。音楽がリトルネロとブロックをなし、それを別のところにもたらすからだ。それ自体は音楽でない子供のリトルネロが、音楽の<子供への生成変化>とブロックをなす。(千のプラトー「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p344)

ここはシューマンを貼りつけるべきところだが、このところシューマンばかりなので、もうひとり女性の声で同じ《すべてをお忘れなさい Oblivion soave 》を貼りつけよう。わたくしにはPhilippe Jarousskyよりこっちのほうがずっといい。

◆Olivia Chaney -Oblivion Soave from Monteverdi's Poppea



Olivia Chaney -Aupres de ma Blonde(a popular chanson dating to the 17th century)

ドゥルーズのいうようにアリアドネの糸が漂ってくるよ、《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》(暁方ミセイ)アリアドネの糸!《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

《賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。》(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)
……一つの<線―ブロック>が音の中間を通りぬけ、位置決定が不可能な独自の環境(中間)で芽を吹くのだ。音のブロックはインテルメッツォ〔間奏曲〕である。つまり音学的組織をすりぬけ、なおさら強度の音を放つ器官なき身体、あるいは反-記憶なのである。

「シューマン的身体は一箇所にとどまることがない。(……)インテルメッツォは全作品と一体化している。(……)極言するなら、インテルメッツォしかないのだ。(……)シューマン的身体には分岐しかない。この身体はみずからを構築していくのではなく、ただ間奏曲(休止)を積み重ね、不断の分岐を続けるのだ。(……)シューマン的鼓動は、狂乱しながらもなお、コードをそなえている。そして鼓動を刻む音の狂乱が一般には見過されがちなのは、一見したところ、この狂乱が穏当な言語の限度内に収まっているからである。(……)調性には、矛盾し、しかも共存しうる二つの面があると想定してみよう。一方にはスクリーンが、つまり既知の組織にしたがって身体を分節する言語がありながら、しかしもう一方では、矛盾したことに調性が、別の水準では馴致すべきはずの鼓動に対して、その巧みなしもべとなるのだ。」(ロラン・バルト『第三の意味――映像と演劇と音楽と』)(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p342)

2015年7月9日木曜日

美の愛とは去勢の愛である

バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう。(小倉朗)
バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)

◆Glenn Gould live in Moscow 1957, (7), JS Bach - Art of the Fugue, #1, 2, 4.




スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(Ⱥ)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛とは去勢の愛であるlove of truth is love of castration」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO





幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だ。(“Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly)私訳)

 ◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」

◆Lamento della Ninfa by Monteverdi



Monteverdi - Lamento della Ninfa - Kirkby

女の愛と生涯(Bernarda Fink)」にてBernarda Finkの名を知ったので、彼女の Lamento della Ninfa (ニンファの嘆き)を聴いてみたのだが、メゾソプラノの彼女には、この曲は無理がある。響きすぎる声質もモンテヴェルディには向かないというべきか(ただし上に掲げたモンテヴェルディはすばらしい)。

わたくしには、このTuuli Lindebergーーたぶんあまり名が知られていないのではないかーーの歌唱のほうがよほどいい。より有名なのはEmma Kirkbyエマ・カークビーだそうだが、わたくしにはTuuli Lindebergのものがなぜだか魅かれる(それよりなにより、古楽器の音が曲が終わってもしばらく鳴りつづけている)。

2015年7月2日木曜日

Pur ti miro:(ただあなたを見つめ)

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

《彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知った》(プルースト)

われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳) 

《〈対象a〉は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。》(ジジェク『ラカンはこう読め』p121)

対象aは、アガルマーー〈あなた〉のなかにあって〈あなた自身〉以上のものーーであり、かつ究極的には〈あなた〉を見つめる眼差し自体である。

◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"





「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。
私をそのようにした、私の中にあるものは何? 
私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」

ーーシェークスピア『リチャード二世』

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より

◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans le bois"; G. Fauré




はじめてヴェルデュラン家を訪れた晩、あの小楽節を演奏してもらった彼が、その夜会のあとで、なぜ小楽節が匂のように愛撫のように自分をとりまき自分をつつんだかを見きわめようとつとめたとき、あの身の縮まるような、冷気のしみこむような、快い印象がわきおこったのは、小楽節を構成する五つの音のあいだのわずかなひらきと、それらのなかの二つの音の不断の反復とによることをスワンは理解したのであった、(……)彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知ったし、また音楽家にひらかれている領域は、七つの音の貧弱な鍵盤ではなくて、際限のない、まだほとんど全体にわたって知られていない鍵盤であり、そこにあっては、鍵盤を構成している愛情、情熱、勇気、平静の幾百万のキーのうちのいくつかが、わずかにあちこちに、未踏の地の濃い闇によってたがいにへだてられて、それらのおのおのは、ちょうど一つの宇宙が他の宇宙と異なるように、他のキーと異なっているのであって、それらは、数人の大芸術家によって発見されたので、その人たちとこそ、彼らの見出したテーマと交換しあうものをわれわれのなかに呼びさましながら、どんな富が、どんな変化が、われわれの空虚と見なし虚無と見なす魂のあのはいりこめない絶望的な広大な闇のなかに、知られずにかくされているかをわれわれのために見せてくれるのだ、ということを彼は知るのであった。(「スワン家のほうへ 第二部」)

◆Magda Tagliaferro plays Fauré Ballade Op. 19(1928)




ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。

サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。

実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛書評『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』)

◆Anne Sofie von Otter: The complete "3 Poèmes de Stéphane Mallarmé" (Ravel)




ーー音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる

おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a