歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹
《彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知った》(プルースト)
われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
《〈対象a〉は奇妙な対象で、じつは対象の領野に主体自身が書き込まれることにすぎない。それは染みにしか見えず、この領野の一部が主体の欲望によって歪められたときにはじめて明確な形が見えてくる。》(ジジェク『ラカンはこう読め』p121)
対象aは、アガルマーー〈あなた〉のなかにあって〈あなた自身〉以上のものーーであり、かつ究極的には〈あなた〉を見つめる眼差し自体である。
◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"
対象aは、アガルマーー〈あなた〉のなかにあって〈あなた自身〉以上のものーーであり、かつ究極的には〈あなた〉を見つめる眼差し自体である。
◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"
「あなたは私のことをあなたの恋人だとおっしゃる。
私をそのようにした、私の中にあるものは何?
私の中の何が、あなたをして私をこんなふうに求めさせるのでしょう?」
ーーシェークスピア『リチャード二世』
――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?
最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。(ミレール 「愛について」(Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”より)
◆Anne Sofie von Otter; "La lune blanche luit dans le bois"; G. Fauré
はじめてヴェルデュラン家を訪れた晩、あの小楽節を演奏してもらった彼が、その夜会のあとで、なぜ小楽節が匂のように愛撫のように自分をとりまき自分をつつんだかを見きわめようとつとめたとき、あの身の縮まるような、冷気のしみこむような、快い印象がわきおこったのは、小楽節を構成する五つの音のあいだのわずかなひらきと、それらのなかの二つの音の不断の反復とによることをスワンは理解したのであった、(……)彼はピアノの回想そのものが、音楽についての彼の物の見かたをゆがめていることを知ったし、また音楽家にひらかれている領域は、七つの音の貧弱な鍵盤ではなくて、際限のない、まだほとんど全体にわたって知られていない鍵盤であり、そこにあっては、鍵盤を構成している愛情、情熱、勇気、平静の幾百万のキーのうちのいくつかが、わずかにあちこちに、未踏の地の濃い闇によってたがいにへだてられて、それらのおのおのは、ちょうど一つの宇宙が他の宇宙と異なるように、他のキーと異なっているのであって、それらは、数人の大芸術家によって発見されたので、その人たちとこそ、彼らの見出したテーマと交換しあうものをわれわれのなかに呼びさましながら、どんな富が、どんな変化が、われわれの空虚と見なし虚無と見なす魂のあのはいりこめない絶望的な広大な闇のなかに、知られずにかくされているかをわれわれのために見せてくれるのだ、ということを彼は知るのであった。(「スワン家のほうへ 第二部」)
◆Magda Tagliaferro plays Fauré Ballade Op. 19(1928)
ヴァントゥイユのソナタの聴取の記述に最も大きなインスピレーションを与えたものと、プルーストの書簡から読み取られるのは、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタである。しかし奇妙なことに、プルーストはサン=サーンスについて、自分の好みではなく凡庸な作曲家だと、1915年にアントワーヌ・ビベスコ宛ての書簡で述べている。これは一体いかなることなのだろうか。アンヌ・ペネスコは、その答をボードレールについてのプルーストの評論の記述の中に見出している(p104)。それによれば、音楽が「有益な夢想」を与えてくれさえすれば、詩人の賞賛する音楽の客観的クオリティは問題ではないというのである。また、プルーストは未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の「粗悪音楽礼賛」のくだりでこう述べているという。「粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ」と。
サン=サーンスの音楽を「粗悪音楽」とは言い切れないだろうが、良い音楽か否かは間わず、「夢」や「涙」と結びつく音楽であればポエジーの糧になるというプルーストの考え、そして彼が必ずしも好みではない音楽家の作品を『失われた時を求めて』における音楽の記述の発想源としていたというのは、興味深い。
実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛書評『Anne Penesco Proust et le violon interieur (Les Editions duCerf, 2011)』)
◆Anne Sofie von Otter: The complete "3 Poèmes de Stéphane Mallarmé" (Ravel)
ーー音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる
ーー音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー譲渡できる対象objet cessibleとしての対象a)
対象aの究極の外-親密ex-timate的特徴……私のなかにあって「エイリアン」…であるもの、まったく文字通り「私のなかにあって私自身以上のもの」、私自身のまさに中心にある「異物 foreign body」…(ジジェクーー「糸巻き」としての対象a)