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2015年7月20日月曜日

「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」(Bernarda Fink)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(『千のプラトー』p359)

世界にはカウンターテナーの声が好きな人たちもいるらしいが(たとえばPhilippe Jaroussky)、なんというちがいだろう・・・いや以前彼の歌唱でなにかを気に入ったことはあったような気はするが、--左様ナラ!

Philippe JarousskyならバスのEZIO PINZAのほうがずっとマシだ。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




上に引用した「ミラプラトー」はリトルネロの章の冒頭だが、ほかの章にもこうある。

われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子どもが暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない、ばあ」(Fort-Da)の呪文を唱えたりする(精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとするからだ)。タララ、タララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つ節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌いはじめる。ジャヌカンからメシアンにいたるまで、音楽は実にさまざまな形で、小鳥の歌に貫かれている。ルルル、ルルル。音楽は幼児期のブロックによって、また女性性のブロックによって貫かれている。音楽はありとあらゆるマイノリティに貫かれているが、それでもなお絶対な力能を構成する。子供たちのリトルネロ、女たちの、さまざまな民族の、さまざまな領土の、そして愛と破壊のリトルネロ。そこにリズムが生まれる。シューマンの全作品はリトルネロや幼児期のブロックから成り立ち、そこに独自の処理がほどこされている。こうしてシューマン独自の子供への生成変化と、クララという名をもつ女性への生成変化が生まれる。子供の遊戯や子供時代の光景、そして小鳥の歌をすべて拾いあげ、音楽史上のリトルネロが示す斜線上の、あるいは横断的な用例を一覧表にまとめあげることはできるだろう。しかし一覧表など何の役にも立たない。実際には音楽にとって本質的で必然的な内容が問題となっているのに、一覧表を作ってしまうと、主題や題材のモチーフの豊富な実例に目を奪われることになるからだ。リトルネロのモチーフは不安、恐怖、悦び、愛、労働、行進、領土など、さまざまでありうる。しかしリトルネロ自体はあくまでも音楽の内容なのである。

われわれは、リトルネロが音楽の起源であるとか、音楽はリトルネロをもって始まると主張しているのではない。いつ音楽が始まるのか、実のところよくわからないのだ。それにリトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか。しかし音楽が存在するのは、リトルネロもまた存在するからだ。音楽は内容としてのリトルネロととりあげ、これをつかもとって表現の形式に組み入れるからだ。音楽がリトルネロとブロックをなし、それを別のところにもたらすからだ。それ自体は音楽でない子供のリトルネロが、音楽の<子供への生成変化>とブロックをなす。(千のプラトー「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p344)

ここはシューマンを貼りつけるべきところだが、このところシューマンばかりなので、もうひとり女性の声で同じ《すべてをお忘れなさい Oblivion soave 》を貼りつけよう。わたくしにはPhilippe Jarousskyよりこっちのほうがずっといい。

◆Olivia Chaney -Oblivion Soave from Monteverdi's Poppea



Olivia Chaney -Aupres de ma Blonde(a popular chanson dating to the 17th century)

ドゥルーズのいうようにアリアドネの糸が漂ってくるよ、《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》(暁方ミセイ)アリアドネの糸!《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

《賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。》(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)
……一つの<線―ブロック>が音の中間を通りぬけ、位置決定が不可能な独自の環境(中間)で芽を吹くのだ。音のブロックはインテルメッツォ〔間奏曲〕である。つまり音学的組織をすりぬけ、なおさら強度の音を放つ器官なき身体、あるいは反-記憶なのである。

「シューマン的身体は一箇所にとどまることがない。(……)インテルメッツォは全作品と一体化している。(……)極言するなら、インテルメッツォしかないのだ。(……)シューマン的身体には分岐しかない。この身体はみずからを構築していくのではなく、ただ間奏曲(休止)を積み重ね、不断の分岐を続けるのだ。(……)シューマン的鼓動は、狂乱しながらもなお、コードをそなえている。そして鼓動を刻む音の狂乱が一般には見過されがちなのは、一見したところ、この狂乱が穏当な言語の限度内に収まっているからである。(……)調性には、矛盾し、しかも共存しうる二つの面があると想定してみよう。一方にはスクリーンが、つまり既知の組織にしたがって身体を分節する言語がありながら、しかしもう一方では、矛盾したことに調性が、別の水準では馴致すべきはずの鼓動に対して、その巧みなしもべとなるのだ。」(ロラン・バルト『第三の意味――映像と演劇と音楽と』)(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p342)