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2018年12月1日土曜日

2018年10月24日水曜日

アデーラ

◆Bernarda Fink; "Tres canciones populares españolas"; Joaquín Rodrigo





◆Montserrat CABALLÉ. Canciones amatorias. Joaquin Rodrigo.





◆Joaquin Rodrigo/ Cuatro madrigales amatorios/ Bernarda Fink




ボクは、ベルナルダ・フィンクが大好きなんだけど、モンセラート・カバリェには負けてるっていうんだろな、人は。カバリェはバルセロナ出身で、ロドリーゴの本場だから、ま、仕方がないけど。

いやあでもじつに美しい。ボクのベルナルダは。オッカサンみたいだ。





おかあさん
あなたは三十六年前 五十歳で亡くなった
あなたは いまも五十歳
そのうちどんどん若くなり
妹でもなくて娘になってしまう
年齢って つくづく奇妙ですね






2017年8月21日月曜日

「夜咲きすみれ Nachtviolen」

深更、本を読みながら漫然とBernarda Finkのシューベルトを聴いていた。

突然、閃光が走る、「夜咲きすみれ Nachtviolen」にこんなに美しい箇所があったのか、と。Bernarda Fink; "Nachtviolen"; Franz Schubert(1:38~

少し前に聴いたはずの、Schwarzkopf / Fischerで聴いてみる。たしかに同じくらい美しい。

でもいまはベルナルダ・フィンク Bernarda Finkがいい。なぜ彼女がいいのかはわからない。たぶん惚れた、ということだろう。惚れたということは「彼女のなかに私が書き込まれている」ということだ。

愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない。les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
ある一つの細部が、私の読み取りを完全に覆してしまう。それは関心の突然変異であり、稲妻である。ある何ものかの徴がつけられることによって、写真はもはや任意のものでなくなる。そのある何ものかが一閃して、私の心に小さな震動を、悟りを、無の通過を生ぜしめたのでる(指向対象が取るに足りないものであっても、それは大して問題ではない)。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

下の二曲は、小学校五年のときに何度もくり返して聴いた(日本人の歌手のレコードで)。当時はシューベルトとシューマンばかり聴いていた。その一年前まではロシア民謡だった。自分から求めた記憶はない。たぶん母が与えてくれたレコード。シューベルトは身体に染みついている。

◆Franz Schubert - 'An den Mond' (D.193) - Bernarda Fink




◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"







2016年4月3日日曜日

Bernarda Fink の「声の肌理」

声の《きめ》は響きではない――あるいは、響きだけではない――。それが開いてみせる意味形成性は、音楽と他のもの、すなわち、音楽と言語(メッセージでは全然ない)との摩擦そのものによって定義するのが一番いい。歌は語る必要がある。もっと適切にいえば、〈書く〉必要がある。なぜなら、発生としての歌のレベルで生み出されるのは、結局、エクリチュールだからである。(ロラン・バルト「声のきめ」)

◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"




フィッシャー=ディスカウは、今日、歌曲のLPの全部をほとんど独占的に支配している。彼は何でも吹き込んだ。もしシューベルトが好きで、フィッシャー=ディスカウが嫌いだとすると、今日では、もうシューベルトは〈禁止された〉も同然だ。あの(充実による)実質的検閲の好例である。これこそ大衆文化の特徴をなすものだが、といって誰も決して彼を非難しようとしない。それは、おそらく、《きめ》のない、能記の重味のない声によってもたらされる、表現的で、劇的で、〈感情的に明晰な〉彼の芸術が〈平均的〉文化の要求にうまく合致しているからであろう。聴くことがふえ、みずから演奏することがなくなった(もうアマチュアはいない)ことによって定義されるこの文化は、芸術が、音楽が、明晰でさえあれば、そして、情緒を《表現》し、所記[シニフィエ](詩の《意味》)を表象してさえいれば、それらを欲するのである。
今日、大量生産のLPの影響で、テクニックが平板化しているようだということを思い起こす必要があろうか。この平板化は逆説的である。すべての芸は〈完成と共に〉平板になる。もはや、現れとしてのテクストしかない(バルト「声のきめ」沢崎浩平訳

◆Dietrich Fischer-Dieskau "Du bist die Ruh"



テクストの快楽の美学を想像することが可能なら、その中に声を挙げるエクリチュールも加えるべきであろう。この声のエクリチュール(言〔パロール〕とは全然違う)は実践できない。しかし、アルトーが勧め、ソレルスが望んでいるのは多分これなのだ。あたかも実際に存在するかのように、それについて述べてみよう。

古代弁論術には、古典注釈者たちによって忘れられ、抹殺された一部門があった。すなわち、言述の肉体的外化を可能にするような手法の総体であるactio〔行為〕だ。演説者=役者が彼の怒り、同情等を《表現》するのだから、表現の舞台が問題だったのだ。しかし、声を挙げるエクリチュールは表現的ではない。表現はフェノ=テクストに、コミュニケーションの正規のコードに任せてある。こちらはジェノ=テクストに、意味形成性(シニフィアンス)に属している。それは、劇的な強弱、意地悪そうな抑揚、同情のこもった口調によってもたらせるのではなく、声の粒(=声の肌理:引用者)によってもたらされるのである。声の粒とは音色と言語活動のエロティックな混合物であり、従って、それもまた朗詠法と同様、芸術の素材になり得る。自分の肉体を操る技術だ(だから、極東の芝居ではこれが重視される)。言語〔ラング〕の音を考慮に入れれば、声を挙げるエクリチュールは音韻論的ではなく、音声学的である。その目的はメッセージの明晰さ、感動の舞台ではない。それが求めているもの(悦楽を予想して)は衝動的な偶発事である。肌で覆われた言語活動であり、喉の粒、子音の錆、母音の官能等、肉体の奥に発する立体音響のすべてが聞えるテクストである。肉体の分節、舌〔ラング〕の分節であって、意味の分節、言語活動の分節ではない。ある種のメロディー芸術がこの声のエクリチュールの概念を与えてくれるかもしれない。しかし、メロディーが死んでしまったので、今日では、これが最も容易に見出せるのは、多分、映画だろう。実際、映画が非常に近くから言〔パロール〕の音(これが、結局、エクリチュールの《粒》の一般化された定義だ)を捉え、息、声のかすれ、唇の肉、人間の口元の存在のすべてを、それの物質性、官能性のままに聞かせてくれればいい(声やエクリチュールが、動物の鼻面のように、みずみずしく、しなやかで、滑らかで、こまかな粒々で、かすかに震えていればいい)。そうすれば、記号内容をはるか彼方に追放し、いわば、役者の無名の肉体を私の耳に投げ込むことに成功するだろう。あ、こいつ、粒々しているぞ。しゅうしゅういっている。くすぐっている。こすっている。傷つけている。つまり、楽しんでいるのだ。(ロラン・バルト『快楽のテキスト』)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



…………

私がララング lalangue という語で言おうとしているのは、私自身を構造主義から区別するためである。構造主義が言語を記号論に統合する傾向にある、という限りで。(……)

ララングは、コミュニケーションの目的とは全く異なった目的に奉仕する。それは、無意識の経験が我々に示してくれるものだ。(ラカン、アンコール(セミネールⅩⅩ))

ここには、「無意識は言語のように構造化されている」のラカンとは明らかに別のラカンがいる。

欲望において、我々は花火を見る、ラカンが「無意識は言語のように構造化されている」と呼んだものの花火を。しかし欲動は、フロイトが言うように、沈黙している。声対象の廻りを旋回しているかぎり、欲動は沈黙した声だ。何も話さない声、まったく言語のように構造化されていない声。

声は言語と身体を結ぶ。だがどちらにも属していない。声は、言語学の部分でもなく、身体の部分でもない。声は自身を身体から分離する。身体にフィットしない。声は浮遊する。…… (Mladen Dolar,His Master's Voice)  

わたくしが Bernarda Finkに歌唱に特別の愛着をもつのは、バルトのいう「声のきめ」のせいではないのかもしれない。だが個人的なーーわたくし固有のーー「声のきめ」であることは間違いない。


◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO



話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant

…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。


ーー「話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant」とは、「分析における転移的無意識は、既に、現実界に対する防衛」/「ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇」(ミレール、AMP VIII Congress, Buenos Aires 2012)の対照でもある。


◆Esurientes Implevit - Bernarda Fink




言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。言語の「発見論的」heuristicな使用が改めて起こる。これは通常十五歳から十八歳ぐらいに発現する。「妄想を生み出す能力」の発生と同時である。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」『家族の肖像』1996所収ーー「ラカン派の「象徴界から排除されたものは現実界のなかに回帰する」の意味するところ」)


2015年10月21日水曜日

にわかに逞しくなった膝

 人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)

…………

ツイッターの古井由吉botで次の文を拾った。

・病気ではない、この二年半の間にどこかの男とよほど深い関係にあったのだ、と岩崎は睨んだ。もう切れたあとか、切れかけているのか、それとも澱んでしまっているのか知らないが、おそらく佐枝はその関係の始まる前の時点にもどろうとして、岩崎の存在を思出したのにちがいない。

・そう言えば抱かれている時にも、孤独を守っていた。岩崎によって、男にたいして孤独になろうとしていた。

・「わかってるよ。お前が男と暮しているとは思っていないさ。男が部屋へ通ってくるとも、思っていない。そんな艶っぽいことのある女の顔はしてないさ。ただ、なんとなく、嫉くんだよ。お前がそれを許すんだ。村では、俺の横着さをどこまでも許したが」

・にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。

・やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』「栖」)

ーーなんという目が眩むような文だろう、 〈あなた〉は性戯の最中に女をからかたことなどにより、《にわかに逞しくなった膝で》《身体を押しのけるように》されたことはないか。

そしてその反動で《相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちて》きて凶暴な心持に襲われたことはないか。

《かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出》したことは〈あなた〉ではない〈わたくし〉にはないが、《鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかけ》たことぐらいはある。

ああ、そうしたあと、女は《細く澄んだ声を立てはじめる》、だが《男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だ》。

私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳)




そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)

ああ女にはかなわない。われわれはつねに負ける。

ーー「負ける」だって? 愛とは勝ち負けじゃないわよ、などとほどよく聡明なお方がたぶんおっしゃられることだろう。

「ほどよく聡明な」とは場合によっては「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)のことである。負ける/勝つとは受動性と能動性のことさ。

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。(Paul Verhaeghe 、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

ほかに肝腎なのは、《〈他〉の性自体は、両方の性にとって、女性の性female sexである。それは、男にとっても女にとっても〈他〉の性である》(The Axiom of the Fantasm ,Jacques-Alain Miller)、すなわち男女とも最初の愛の対象〈女=母〉が〈他〉の性であることだ。

そしてどの現実の女性にもこの〈他〉の性の影が落ちており、他方、現実の男性にはこの〈他〉の性の影が稀にしかないということだ。


男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。( カーミル・パーリア「性のペルソナ」




ーー瞬間的に「勝った」と思ってもダメだ、すぐそのあとが待っている。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝*1とある皇后*2自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ)

*1 ティトゥス・イリウス・プロクルス。
*2 クラディウス帝の妃メッサリナ。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びます。(ジャック=アラン・ミレール『ピロポ』)




構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。(Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、私意訳)。

…………

この半年ぐらい歌曲をかなり聴いたのだが、歌曲とはくり返し聴いていると飽きる。とくに歌い手の個性が強く出すぎているものは、最初はひどく惹きつけられるが、しばらくするとウンザリしてくる。

◆NINON VALLIN "Les berceaux" Fauré






ーーおい、スゴイ声だな、NINON VALLINって。でももういいよ。


たくさん聴いたなかで生き残っているのは、モンテヴェルディをうたうBernarda Finkの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」だ。この〈母〉なる声にすべてを忘れよう、たとえも貪り食われてもいいじゃないか。

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』p359)

この歌声はカオスの中に秩序をつくるだけじゃない、アリアドネの糸に引っ張られて母胎のなかに吸い込まれる感覚をもたらす。

・迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。(ニーチェ 遺稿)

・賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)

そしてあの〈母〉なるものに抵抗しようとするEZIO PINZAの「全てを忘れろ!」である。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




…………

さて、なにが言いたかったのだろう。

しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳) 



2015年7月20日月曜日

「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」(Bernarda Fink)

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)



暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(『千のプラトー』p359)

世界にはカウンターテナーの声が好きな人たちもいるらしいが(たとえばPhilippe Jaroussky)、なんというちがいだろう・・・いや以前彼の歌唱でなにかを気に入ったことはあったような気はするが、--左様ナラ!

Philippe JarousskyならバスのEZIO PINZAのほうがずっとマシだ。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




上に引用した「ミラプラトー」はリトルネロの章の冒頭だが、ほかの章にもこうある。

われわれは、リトルネロ(リフレイン)こそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える。一人の子どもが暗闇で心を落ち着けようとしたり、両手を打ち鳴らしたりする。あるいは歩き方を考え出し、それを歩道の特徴に適合させたり、「いないいない、ばあ」(Fort-Da)の呪文を唱えたりする(精神分析家は《Fort-Da》を適切に語ることができない。《Fort-Da》は一個のリトルネロだというのに、彼らはそこに音素の対立関係や、言語としての無意識を代理する象徴的構成要素を読みとろうとするからだ)。タララ、タララ。一人の女が歌を口ずさむ。「小声で、やさしく一つ節を口ずさむのが聞こえた。」小鳥が、独自のリトルネロを歌いはじめる。ジャヌカンからメシアンにいたるまで、音楽は実にさまざまな形で、小鳥の歌に貫かれている。ルルル、ルルル。音楽は幼児期のブロックによって、また女性性のブロックによって貫かれている。音楽はありとあらゆるマイノリティに貫かれているが、それでもなお絶対な力能を構成する。子供たちのリトルネロ、女たちの、さまざまな民族の、さまざまな領土の、そして愛と破壊のリトルネロ。そこにリズムが生まれる。シューマンの全作品はリトルネロや幼児期のブロックから成り立ち、そこに独自の処理がほどこされている。こうしてシューマン独自の子供への生成変化と、クララという名をもつ女性への生成変化が生まれる。子供の遊戯や子供時代の光景、そして小鳥の歌をすべて拾いあげ、音楽史上のリトルネロが示す斜線上の、あるいは横断的な用例を一覧表にまとめあげることはできるだろう。しかし一覧表など何の役にも立たない。実際には音楽にとって本質的で必然的な内容が問題となっているのに、一覧表を作ってしまうと、主題や題材のモチーフの豊富な実例に目を奪われることになるからだ。リトルネロのモチーフは不安、恐怖、悦び、愛、労働、行進、領土など、さまざまでありうる。しかしリトルネロ自体はあくまでも音楽の内容なのである。

われわれは、リトルネロが音楽の起源であるとか、音楽はリトルネロをもって始まると主張しているのではない。いつ音楽が始まるのか、実のところよくわからないのだ。それにリトルネロは、むしろ音楽を妨げ、祓いのけ、あるいは音楽なしですませるための手段ではないか。しかし音楽が存在するのは、リトルネロもまた存在するからだ。音楽は内容としてのリトルネロととりあげ、これをつかもとって表現の形式に組み入れるからだ。音楽がリトルネロとブロックをなし、それを別のところにもたらすからだ。それ自体は音楽でない子供のリトルネロが、音楽の<子供への生成変化>とブロックをなす。(千のプラトー「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p344)

ここはシューマンを貼りつけるべきところだが、このところシューマンばかりなので、もうひとり女性の声で同じ《すべてをお忘れなさい Oblivion soave 》を貼りつけよう。わたくしにはPhilippe Jarousskyよりこっちのほうがずっといい。

◆Olivia Chaney -Oblivion Soave from Monteverdi's Poppea



Olivia Chaney -Aupres de ma Blonde(a popular chanson dating to the 17th century)

ドゥルーズのいうようにアリアドネの糸が漂ってくるよ、《蕾の割れた梅の林から、糸のように漂いやってくる、》(暁方ミセイ)アリアドネの糸!《五百年前の我が兄子、千年前の我が妹子、》

《迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。》(ニーチェ 遺稿

《賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。》(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)
……一つの<線―ブロック>が音の中間を通りぬけ、位置決定が不可能な独自の環境(中間)で芽を吹くのだ。音のブロックはインテルメッツォ〔間奏曲〕である。つまり音学的組織をすりぬけ、なおさら強度の音を放つ器官なき身体、あるいは反-記憶なのである。

「シューマン的身体は一箇所にとどまることがない。(……)インテルメッツォは全作品と一体化している。(……)極言するなら、インテルメッツォしかないのだ。(……)シューマン的身体には分岐しかない。この身体はみずからを構築していくのではなく、ただ間奏曲(休止)を積み重ね、不断の分岐を続けるのだ。(……)シューマン的鼓動は、狂乱しながらもなお、コードをそなえている。そして鼓動を刻む音の狂乱が一般には見過されがちなのは、一見したところ、この狂乱が穏当な言語の限度内に収まっているからである。(……)調性には、矛盾し、しかも共存しうる二つの面があると想定してみよう。一方にはスクリーンが、つまり既知の組織にしたがって身体を分節する言語がありながら、しかしもう一方では、矛盾したことに調性が、別の水準では馴致すべきはずの鼓動に対して、その巧みなしもべとなるのだ。」(ロラン・バルト『第三の意味――映像と演劇と音楽と』)(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……」p342)

2015年7月9日木曜日

美の愛とは去勢の愛である

バッハの作品を見て、それが理論的であり、規則に厳格であると人はしばしば感嘆する。しかし、理論的であり、規則に厳格だからバッハの音楽が美しいと考えたら嘘になろう。(小倉朗)
バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。(踊れ、もっと踊れ  高橋悠治)

◆Glenn Gould live in Moscow 1957, (7), JS Bach - Art of the Fugue, #1, 2, 4.




スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(Ⱥ)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛とは去勢の愛であるlove of truth is love of castration」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO





幻想の役割において決定的なことは、欲望の対象と欲望の対象-原因のあいだの初歩的な区別をしっかりと確保することだね(その区別はあまりにもしばしばなし崩しになっている)。欲望の対象とは単純に欲望される対象のことだ。たとえば、もっとも単純な性的タームでいうとすれば、私が欲望するひとのこと。欲望の対象-原因とは、逆に、私にこのひとを欲望させるもののこと。このふたつは同じものじゃない。ふつう、われわれは欲望の対象-原因が何なのか気づいてさえいない。――そうだな、精神分析をすこしは学ぶ必要があるかもしれない、たとえば、何が私にこの女性を欲望させるかについてね。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的なんだな、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるんだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだね。たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言うんだな、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。でもあなたは確信することだってありうるんだ、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったりするのを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだけれど、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物だ。(“Conversations with Ziiek”(Slavoj Zizek and Glyn Daly)私訳)

 ◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」

◆Lamento della Ninfa by Monteverdi



Monteverdi - Lamento della Ninfa - Kirkby

女の愛と生涯(Bernarda Fink)」にてBernarda Finkの名を知ったので、彼女の Lamento della Ninfa (ニンファの嘆き)を聴いてみたのだが、メゾソプラノの彼女には、この曲は無理がある。響きすぎる声質もモンテヴェルディには向かないというべきか(ただし上に掲げたモンテヴェルディはすばらしい)。

わたくしには、このTuuli Lindebergーーたぶんあまり名が知られていないのではないかーーの歌唱のほうがよほどいい。より有名なのはEmma Kirkbyエマ・カークビーだそうだが、わたくしにはTuuli Lindebergのものがなぜだか魅かれる(それよりなにより、古楽器の音が曲が終わってもしばらく鳴りつづけている)。

2015年6月23日火曜日

女の愛と生涯(Bernarda Fink)

まずフォーレをレパートリーにもつ歌い手として、わたくしには比較的馴染みのあるバーバラ・ボニーとエリー・アーメリングによるシューマン「女の愛と生涯」を掲げる。

◆Du Ring an meinem Finger シューマン 女の愛と生涯 作品42- Barbara Bonney





◆Elly Ameling Live Sings Schumann's Du Ring an meinem Finger





そして次ぎは、Bernarda FinkとAnne Sofie von Otter次ぎのふたり。

1,Bernarda Fink: Du Ring an meinem Finger by Schumann
2, Anne Sofie von Otter;Du Ring an meinem Finger


ーーまた女に惚れちまった。どっちにいっそう惚れようかは悩むところだがーーなぜなら二人ともバッハの歌いのようだからーー、今回はBernarda Finkでいこう。





アルゼンチンからすぐれた音楽家が輩出するのはどういうわけのものだろう。ブエノスアイレス出身とのことだが、《Born in Buenos Aires to Slovene parents who escaped from the communist takeover of Slovenia》でもあるようだ。マルタ・アルゲリッチはどうなのか、と調べてみたら、父は経済学教授や会計士。母フワニータ(旧姓ヘラー)はベラルーシからのユダヤ系移民の二世とのこと。

ブエノスアイレスといえばボルヘスである。




女たちは美しい。とても美しい。

外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩といして結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収)

◆Hart & Ziel: Erbarme Dich Fink





夕顔のうすみどりの
扇にかくされた顔の
眼(まなこ)は李(すもも)のさけめに
秋の日の波さざめく

(西脇順三郎)


◆Messe en si agnus dei Herreweghe B Fink VIDEO





亜麻色の蜜蜂よ きみの針が
いかに細く鋭く命取りでも、
(……)
刺せ この胸のきれいな瓢を。
(……)
ほんの朱色の私自身が
まろく弾む肌にやってくるように!

素早い拷問が大いに必要だ。

 ーーヴァレリー「蜜蜂」中井久夫訳



◆Esurientes Implevit - Bernarda Fink






鶏頭の酒を
真珠のコップへ
つげ
いけツバメの奴
野ばらのコップへ。
角笛のように
髪をとがらせる
女へ
生垣が
終わるまで

(西脇順三郎)


◆Bernarda Fink, Bach, Passion selon Saint Jean, "Es ist vollbracht"





果実が溶けて快楽(けらく )となるように、
形の息絶える口の中で
その不在を甘さに変へるやうに、
私はここにわが未来の煙を吸ひ
空は燃え尽きた魂に歌ひかける、
岸辺の変るざわめきを。(ヴァレリー「海辺の墓地」第五節 中井久夫訳)


◆Bernarda Fink sings Schubert's "Du bist die Ruh"