ツイッターの「古井由吉の文章@furuiyo」より(順不同かもしれず、連続して引用しているのかどうか、あるいはもし続けた引用であっても行分けは不明)。
東北の大震災の後しばらく、東京の街は都心も郊外も、地上も地下も、電力の節減をせまられて、それまでよりもよほど夜が暗くなった。(『雨の裾』踏切り)
それにつけて、このほうが落着くな、ひさしぶりに宵の巷を歩いている気がするよ、夜の寝つきもいいようだ、とつぶやく声を受けて、いや、お蔭で夜の町が昔のように、明るくなった、と妙なことを言い出すのがあった。(『雨の裾』踏切り)
踏切りというところはほかよりも、高くなっているんだ、と渡りながら感じた。線路に沿って何かの鳴る音が、この寒空に遠い祭りの囃子のように伝わってくる。(『雨の裾』踏切り)
昔、電車にはねられて奇跡的に命はとりとめた年寄りが、どうしてそんなにぼんやりしていたのと後から咎められて、飾り立てた山車が近づいて来て、ああ、おもしろい、と眺めたまでは覚えているが、と答えたという。(『雨の裾』踏切り)
ながらく行方知れずの縁者や、時には死者を、暮れ方の人出の中に探しに行くとかいう習わしが古くにあったと聞く。あの叔父の眼は、行き交う人の顔に、先を急ぐ生者の面(おも)に、蒼いような翳のつかのま差すのを見て訝る眼ではなかったか。(『雨の裾』踏切り)
そう思うと、腕組みをして眺めるばかりになった姿のまわりに、長い時間が、過ぎたのも来るのもひとつになって、凝(こご)ってくるように感じられた。(『雨の裾』踏切り)
あるいはまた、死者の翳が差してこそ生者は生彩を放つものであり、叔父はひさしぶりに人の往来の賑わいを感じて立ち停まったのではないか、とも思った。(『雨の裾』踏切り)
《踏切りというところはほかよりも、高くなっているんだ、と渡りながら感じた》とある。どこかで似たような文章に巡りあったことがあるな、と小一時間ほど探していたのだが見当たらない。
ひょっとして荷風の日記の文章が混淆して聞えてきたのかもしれない。
一月廿二日。晴。暖氣春の如し。疥癬愈甚しければ午前近巷の醫師を尋ねて治を請ふに、傳染せし當初なれば治し易き病なれど、全身に蔓衍しては最早や藥治の能くすべきところならず。硫黄を含む温泉に浴するより外に道なしと言へり。醫師また言ふ。これ歸還兵の戰地より持ちかへりし病にて、國内傳染の患者甚多しとなり。驛前の市場にて惣菜物蜜柑等を購ひ、京成線路踏切を越え松林欝々たる小徑を歩む。人家少く閑地多し。林間遙に一帶の丘陵を望む。通行の人なければ樹下の草に坐し鳥語をきゝつゝ獨り蜜柑を食ふ。風靜にして日の光暖なれば覺えず瞑想に沈みて時の移るを忘る。この小徑より數丁、垣根道を後に戻れば寓居の門前に至るを得るなり。この地に居を移してより早くも一週日を經たれど驛前に至る道より外未知る處なし。されど門外の松林深きあたり閑靜頗る愛すべく、世を逃れて隱れ住むには適せし地なるが如し。住民の風俗も澁谷中野あたり、東京の西郊にて日常見るものとは全く同じからず、所謂インテリ風に化せざるところ大に喜ぶべし。
四月廿九日。晴。風あり。午前江戸川堤を歩む。堤防の斜面にも麥植ゑられ菜の花猶咲殘りたり。國府臺新緑の眺望甚よし。路傍の蕎麥屋に代用食ふかし芋ありますとの貼紙あり。入りて憩ふ。一皿五圓なり。三十前後のおかみさん澁茶を汲みながら、其夫去年沖繩に送られしまゝ今だに生死知れず。子供三人あれば女の手一ツにては暮しも立ちがたしと語れり。歸途手古奈堂に近き町の古本屋にて武江年表活字本を買ふ。(三十五圓。)家に至るに凌霜子來りて待てり。大森邊の古本屋にて井上唖々の猿論語を得たりとて示さる。又築地宮川の雞肉を惠まる。
六月十一日。晴。午後省線新小岩町の私娼窟を歩す。省線驛前に露店並びたる處より一本道の町を歩み行くこと七八丁。人家漸く盡きむとする町端に在り。災前平井町に在りし藝者家と龜戸に在りし銘酒屋の移轉せしものと云。女は思ひしほど醜からず。揚代客の和洋を問はず五拾圓と云。燈刻勝部眞玄氏、齋藤書店主人、中村光夫氏、近藤博士等來話。
の部屋に入る
何週間か前に踏切で飛びこみがあった
踏切に木が敷かれてある
木に血が染みていた
線路のくぼみの中に血のかたまりと
臓器のはへんらしいものが残っていた
と引用してきたところで、ツイッターbotにてもう一つの文に行き当たった。
《踏切を渡る人間は、渡る前の自分と、渡った後の自分と、すっかり同じなのか。だいたい踏切というのは気味の悪いところです。何となく変な風が吹いてきて、生臭いような。鉄粉が散るのでしょう。しかも錆びる。血のにおいがします。》(古井由吉「群像」2015年7月号 堀江敏幸対談)
…………
九月も最終土曜日の正午すぎ頃、総武線は下総中山駅の、発車間際の下り電車から若い女がホームへ駆け下りた。車内は学校帰りの生徒たちやもうひとつ先の西船橋まで行く競馬客やで込みあって、人の載りこんで来る頃にいきなり走り出た女に脇をぶつけられたり足を踏まれる客もあり閉じた扉ごしに睨んでいたが、女は車内に背を向けてジーパンの腰のわきを片手でそろそろと撫ぜながら、天井からさがった駅名をただ不思議そうに見あげていた。電車が走り去ると、人のすくなかった階段をふらりと降りて行った。若いといっても三十のほうに近くは見えた。
新宿から乗りこんだ客だった。まだすいていた車内の隅のほうの席に腰をおろして、疲れの荒く浮いた顔で中吊り広告の、墜落事故の記事の見出しを眺めるうちに瞼がさがり、市ヶ谷すぎでちらりと壕のほうを振り返って次ぐらいに降りそうな様子を見せたがまた眠りこみ、腕組みをした頭を垂れ、ときたま細く白眼などを剥いて、下総中山に停まるまで覚めなかった。
改札口でも簡単な清算に手間取っていたが、小雨の降り出した駅前広場の前に立った時には、艶のさえない額にそれでもほんのりと、四十分も居眠りしたせいか、赤みが差していた。雨降りといっても早朝から雲が低くて朝焼けもひどかったので、都心のほうから戻る人間たちもたいてい傘の用意をしていた。その傘の往来を眺めやり、相変らず片手で腰の、脇からややうしろを気づかいながら軒の下に立っている。迎えの者でも待つのかと思ったら、次の電車から吐き出されてきた客たちに混って広場をあっさり突っきり、雨に首もすくめず、駅からまっすぐ商店街の表通りへ入って行った。
行くうちに気ままな足取りになり、片側に並ぶ店の中をいちいち、なにかあらわな女の目でのぞいて千葉街道との交差点にさしかかり、その手前で急に興が尽きたふうに止まって荒涼とした顔をあたりへ向けていたが、信号が青に変るとついと渡った。京成電車の線路まで来て、左手のすぐ先にいきなりな感じで湧く京成中山駅のホームへ目をやりながら踏切りを越し、道の上にかかる門をくぐり、さらに行く手に立つ法華経寺の南大門に惹かれたか、屈めぎみだった腰も伸びて、門前町の長い坂道をたゆまず登って行った。人から染まったものとも、自分の肌のものとも、つかなくなる。
女の行く手を老人がひとりゆっくり登っていた。糠雨の中を、傘をささずに杖をついて、くたびれた背広に黒靴ばかりが真新しい。白い五分刈の頭にイヤホーンを片耳にはめて右足をひきずり、そちらへ傾き傾き歩いている。ときおり立ち止まりそうになってはじわりと足を運ぶ。その過度に張りつめた背の表情に女はなにがなし嫌悪の情をそそられて、追い抜いてしまおうと足を速めたが、すぐ近くまで寄りながら、あと三歩ばかりの間が詰まりそうで詰まらない。不思議な気がして眺めると、老人はいよいよひっそり歩きながら、女の足音がすぐ近くに迫ってざわつくと、前へ押し出されたみたいに進む。あせりのあまりすくむようなけはいも見えて、女のほうが思わず足をゆるめてしまう。
追いついたのは、坂を登りきって大門をくぐるところだった。屋根の下には石畳が敷かれていたが乾いた土のにおいがした。その暖かいような空気に女はひさしぶりに安堵した心地がして、しっとりと濡れた髪を搔きあげ、すこし離れて肩を並べるかたちになった老人の存在を忘れた。太い敷居をまたぐときに腰の右側が鈍く疼いて内股にためらいが感じられ、ジーパンはもう惨めだから、今日かぎりにしよう、とそんなことを思った。気がつくと、隣と歩調がぴたりと合っていて、老人は敷居をまたいで動かなくなった。
いまにも前にのめりそうに腰をかがめて、目がうつろに宙を見つめ、わずかに左の小手を妙な高さに動かして女を招いていた。寄りかねていると、むこうからわなわなと身を傾けてきて、金〔かね〕を焦がすようなにおいがひろがり、意外に骨太の手が女の右腕のつけねを摑んで、男の重みがずっしりと肩にかかってきた。女は両足を踏んばって、腋にアザができるわと思ったきり、雨の中を眺めた。「いや、何でもない、騒がないでくれ。取って喰おうってわけじゃない」
……(古井由吉「中山坂」)