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2015年7月18日土曜日

「濡れた」文章(Virginia Woolf)

"Yes, of course, if it's fine tomorrow," said Mrs Ramsay. "But you'll have to be up with the lark," she added.

――とても魅力的に始まるヴァージニア・ウルフの『灯台へ』である。わたくしの手許にはこの書の邦訳はないのだが、ウエブ上には比較的的評判のよい御輿哲也氏の訳を引用している方たちがいる。ここでいくらか原文と邦訳を並べてみよう(わたくしにはすぐれた文学のテキストを翻訳する力は到底ない)。

「そう、もちろんよ、もし明日が晴れだったらばね」とラムジー夫人は言って、つけ足した。「でも、ヒバリさんと同じくらい早起きしなきゃだめよ」
息子にとっては、たったこれだけの言葉でも途方もない喜びの因(もと)になった。まるでもうピクニックは行くことに決まり、何年もの間と思えるほど首を長 くして待ち続けた素晴らしい体験が、一晩の闇と一日の航海さえくぐり抜ければ、すぐ手の届くところに見えてきたかのようだった。

"Yes, of course, if it's fine tomorrow," said Mrs Ramsay. "But you'll have to be up with the lark," she added. To her son these words conveyed an extraordinary joy, as if it were settled, the expedition were bound to take place, and the wonder to which he had looked forward, for years and years it seemed, was, after a night's darkness and a day's sail, within touch.

この子はまだ六歳だったが、一つの感情を別の感情と切り離しておくことができず、喜びや悲しみに満ちた将来の見通しで今手許(てもと)にあるものまで色づけてしまわずにいられな い、あの偉大な種族に属していた。こういう人たちは年端もいかぬ頃から、ちょっとした感覚の変化をきっかけに、陰影や輝きの宿る瞬間を結晶化させ不動の存 在に変える力をもっているものなのだが、客間の床にすわって「陸海軍百貨店」の絵入りカタログから絵を切り抜いて遊んでいたジェイムズ・ラムジーも、母の 言葉を聞いた時たまたま手にしていた冷蔵庫の絵に、自らの恍惚(こうこつ)とした喜びを惜しみなく注ぎこんだ。その冷蔵庫は、歓喜の縁飾りをもつことに なったわけである。

Since he belonged, even at the age of six, to that great clan which cannot keep this feeling separate from that, but must let future prospects, with their joys and sorrows, cloud what is actually at hand, since to such people even in earliest childhood any turn in the wheel of sensation has the power to crystallise and transfix the moment upon which its gloom or radiance rests, James Ramsay, sitting on the floor cutting out pictures from the illustrated cata-logue of the Army and Navy stores, endowed the picture of a refrigerator, as his mother spoke, with heavenly bliss. It was fringed with joy.

ほかにも庭の手押し車や芝刈り機、ポプラの葉のそよぎや雨の前の白っぽい木の葉の色、さらにはミヤマガラスの鳴き声や窓を叩くエニシダの枝、ドレスの衣(きぬ)ずれの音など-こうした何でもないものが、彼の心の中ではくっきりと色づけきわだたせられていたので、いわば彼には自分だけの暗号、秘密の言葉があるようなものだった。だがそばにいる夫人にとっては、子どもなりに毅然とした態度を崩さず、人間の弱さに少し眉をしかめるような率直さ や純粋さがあり、秀でた額と青く鋭い目をしたジェイムズの様子ばかりが目に映り、彼がていねいに冷蔵庫の絵を切り取っているところを見ていると、白貂(し ろてん)をあしらった真紅の法服姿で法廷に現われたり、国家存亡の機に厳しく重大な計画を指揮したりする際の息子の姿が、われ知らず思い浮かびもするの だった。

The wheelbarrow, the lawnmower, the sound of poplar trees, leaves whitening before rain, rooks cawing, brooms knocking, dresses rustling—all these were so coloured and distinguished in his mind that he had already his private code, his secret language, though he appeared the image of stark and uncompromising severity, with his high forehead and his fierce blue eyes, impeccably candid and pure, frowning slightly at the sight of human frailty, so that his mother, watching him guide his scissors neatly round the refrigerator, imagined him all red and ermine on the Bench or directing a stern and momentous enterprise in some crisis of public affairs.

「でも」と、ちょうどその時客間の窓辺を通りかかった父親が足を止めて言った、「晴れにはならんだろう」 手近に斧か火かき棒があれば、あるいは父の胸に穴をこじ開け、その時その場で彼を殺せるようなどんな武器でもあれば、ジェイムズは迷わずそれを手に取った だろう。ラムジー氏が、ただそこにいるだけで子どもたちの胸に引き起こす感情の嵐は、それほど凄まじいものだった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』 御輿哲也訳 岩波文庫)

"But," said his father, stopping in front of the drawing-room window, "it won't be fine." Had there been an axe handy, a poker, or any weapon that would have gashed a hole in his father's breast and killed him, there and then, James would have seized it. Such were the extremes of emotion that Mr Ramsay excited in his children's breasts by his mere presence;

たぶんウルフのこの文章は読むひとが読めばとても「濡れている」と感じるのではないか。御輿哲也訳に文句をつけるつもりは毛頭ないが、やはりいくらかの箇所がもたもたした訳であるように感じられる。とはいえ英文を小声で読んでみるときの快楽にくらべらば物足りないところがあるのはやむえないのだろう。

私は、詩の翻訳可能性にかんしての議論は表層言語の水準では解決できないものであると考えている。訳詩というものがそもそも果たして可能かという議論はいつまでも尽きない永遠の問題である。これが、ゼノンの逆理に似ているのは、歩行は現実にできているのだが、それを歩行と認めるかどうかという問題だからだ。ゼノンの逆理に対してディオゲネスは「立って歩けば解決できる」と言ったが、それでもなお「歩いているというのは何かの間違いだ」「ほんとうは歩けないはずだ」という反論はありうるだろう。つまり、詩の訳はできているし、あるのだが、それでもなお「それは原詩とはちがう」「ほんとうは詩の訳はできない」ということはできる。

私は、多くのものが他のもので代表象〔ルプラザンテ〕できる程度には詩の翻訳は可能であると考える。それだけでなく、もっと強く、原文を味到できる人も、その人の母語が別の言語であるならばその人の母語によって訳詩を読むことにかけがえのない意義があると考える。

その詩を母語としない外国語学の専門家が原文を母語のように味到できるという可能性は絶無ではないが、言語の生理学からは非常に至難の技である。ましてや詩である。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。

この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。

翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。

また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」)

もうすこし『灯台へ』から邦訳が拾えるところを原文と並べておく、

…波音は、たいていは控えめに心を和らげるリズムを奏で、夫人が子どもたちとすわっていると、「守ってあげるよ、支えてあげるよ」と自然の歌う古い子守唄のようにも響くのだが、また別の時、たとえば夫人が何かの仕事からふとわれにかえった時などは、そんな優しい調子ではなく、激しく太鼓を打ち鳴らすように生命の律動を容赦なく刻みつけ、この島もやがては崩れ海に没し去ることを教えるとともに、あれこれ仕事に追われるうちに彼女の人生も虹のように消え去ることを、あらためて思い起こさせもするのだった。…

…so that the monotonous fall of the waves on the beach, which for the most part beat a measured and soothing tattoo to her thoughts and seemed consolingly to repeat over and over again as she sat with the children the words of some old cradle song, murmured by nature, "I am guarding you—I am your support," but at other times suddenly and unexpectedly, especially when her mind raised itself slightly from the task actually in hand, had no such kindly meaning, but like a ghostly roll of drums remorselessly beat the measure of life, made one think of the destruction of the island and its engulfment in the sea, and warned her whose day had slipped past in one quick doing after another that it was all ephermal as a rainbow—this sound which had been obscured and concealed under the other sounds suddenly thundered hollow in her ears and made her look up with an impulse of terror.
――子供は決して忘れない。だからこそ、大人が何を言い何をするかはとても重要で、あの子達が寝てしまうと、どこかホッとする。これでやっと誰に対しても気を遣わなくてもすむ。一人になって、私自身に戻れる。そうしてそれは、最近しばしばその必要を感じることだった。――考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること。すると日ごろの自分のあり方や行動、きらきら輝き、響きあいながら広がっていたすべてものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形をした暗闇の芯になるような、そんな気がする。

— children never forget. For this reason, it was so important what one said, and what one did, and it was a relief when they went to bed. For now she need not think about anybody. She could be herself, by herself. And that was what now she often felt the need of—to think; well, not even to think. To be silent; to be alone. All the being and the doing, expansive, glittering, vocal, evaporated; and one shrunk, with a sense of solemnity, to being oneself, a wedge-shaped core of darkness, something invisible to others.(Virginia Woolf,To the Lighthouse (1927))