歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹
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「Chanson d'amour(Lois Marshall)」という投稿をするときに、フォーレの「Chanson d´Amour」を何人かの歌手の録音で聴いてみたのだが、そのとき、Raquél Andueza(ラケル・アンドゥエサ)の歌い方には、いささか違和があった。思い入れが込められすぎている、感情過多だ、清澄さに欠ける等々、--これではフォーレにふさわしくない、と感じたのだ。
◆Chanson d´Amour, Gabriel Faure, Raquél Andueza.
昨晩ふたたび聴いてみると、以前とは異なってとても惹きつけられる。二十前後の青春期の男が、このオネエサンすごいなあ、と口をポカンと開けて聴き惚れているような感覚にとらわれた。すなわち、青春期に戻った気分になっているわたくしを見出した。
なぜそうなったのかは記すと長くなるのでーーそれだけでなく、わたくしのヒミツにも触れそうな気がするのでーー書かない。ようするに、《火傷するほど「熱い」》ことにかかわりそうなのだ。
わたくしは当時、アマチュア合唱団に所属していた(大学内部のではなく、年輩者も多い合唱団である。 岡村喬生と共演したこともある、--といってもわたくしは後ろにひかえる多人数の一人であったにすぎないのは言うまでもない、小澤征爾のような髪型をしたやんちゃな指揮者が合唱団員をしごいた、指揮棒が飛んできた・・・ )。
ヴェルディのラクリモーサを歌うあのときのおねえさんはひどくウツクシカッタ・・・
すでに出版された自著への態度は人によって非常に異なるようである。私は普通、改訂はしない。読み返すこともほとんどない。書店に入っても著書が並んでいる本棚の前は避けて通ってしまう。私にはまだ手にとって火傷するほど「熱い」のである。
翻訳の場合にはこの過敏症はない。特に訳詩となると、これは少し間を置けば何度読み返しても飽きないし、少しずつ訂正してしまう。書店に並んでいるとほっとしてその書店を祝福したくなる。これはおそらく私が翻訳という安全な隠れ蓑を着て私の著作家としてのナルシシズムを安全無害に放電しているのであろう。もし私の詩集という実在しないものが書店に並べば私はその前をとおりにくいのは他の著作以上だろう。 (中井久夫「執筆過程の生理学」)
Raquel Anduezaはもともとバロック以前の作曲家たちの歌い手のようだ。Philippe Jarousskyとも共演しているが、わたくしは彼の歌唱に馴染めないので貼り付けない(これもいつ変わるかわからない)。
◆Raquel Andueza - L'amante segreto - Barbara Strozzi
◆Sé que me muero - RAQUEL ANDUEZA & LA GALANÍA
◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi
プルーストのいうように、書物だけでなく芸術作品は自分を読む「眼鏡」である。《自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせる》ものなら、なんでもすばらしい。もちろん最低限の形式的な美をもっていなくてはならない、という観点はあるだろう。
だがプルーストは次ぎのようにさえ言っている、《われわれも相当の年になると、回想はたがいに複雑に交錯するから、いま考えていることや、いま読んでいる本は、もう大して重要性をもたなくなる。われわれはどこにでも自己を置いてきたから、なんでも肥沃で、なんでも危険であり、石鹸の広告のなかにも、パスカルの『パンセ』のなかに発見するのとおなじほど貴重な発見をすることができるのだ。》(プルースト「逃げさる女」)
私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。
したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。
本を読むとき、読者はそれぞれに自分自身を読んでいるので、それがほんとうの意味の読者である。作家の著書は一種の光学器械にすぎない。作家はそれを読者に提供し、その書物がなかったらおそらく自分自身のなかから見えてこなかったであろうものを、読者にはっきり見わけさせるのである。書物が述べていることを読者が自分自身のなかに認めることこそ、その書物が真実であるという証拠であり、すくなくともある程度、その逆もまた真なりであって、著者のテキストと読者のテキストのあいだにある食違は、しばしば著者にでなくて読者に負わせることができる。
さらにつけくわえれば、単純な頭の読者にとって、書物が学問的でありすぎ、難解でありすぎることがある、そんなときはくもったレンズしかあてがわれなかったように、読者にはよく読めないことがあるだろう。しかし、それとはべつの特殊なくせ(倒錯のような)をもった読者の場合には、正しく読むために一風変わった読みかたを必要とすることもあるだろう。著者はそれらのことで腹を立てるべきではなく、むしろ逆に、最大の自由を読者に残して、読者にこういうべきである、「どれがよく見えるかあなたがた自身で見てごらん、このレンズか、あのレンズか、そちらのレンズか。」(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)
粗悪な音楽を嫌悪したまえ、しかし侮ることなかれ。いい音楽以上にうまく演奏したり歌つたりすれば、音楽は徐々に夢と人の涙で満たされる。(中略)粗悪な音楽には芸術の歴史に居場所はないが、社会の情緒の歴史において、その地位は絶大なのだ。
こう引用したからといって、Raquel Anduezaが「粗悪の歌手」だとか「石鹸の広告」だとか言いたいのではない。彼女のBarbara Strozzi(バルバラ・ストロッツィ)などの清澄な歌声の裏には、冒頭のフォーレと末尾のモンテヴェルディの歌い方がある、ということを言いたいだけだ。
彼女のバッハを二曲ほど聴いてみたが、あれは、--ちょっといけない。
スワンのオデットへの愛、主人公のジルベルトやゲルマント公爵夫人、あるいはアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。
実は『失われた時を求めて』執筆の前にプルーストが手がけた未完の二人称小説『ジャン・サントゥイユ』の中には、主人公ジャンがサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに耳傾ける場面があるのだという。このことから、サン=サーンスを好まないと1915年の時点で書簡にプルーストは書いているものの、人の嗜好は変化するものであって、プルーストのサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタに寄せる思いは、『失われた時を求めて』の語り手がジルベルトに寄せる思いと同じく、初恋のようなものではなかったか、とアンヌ・ペネスコは推測している(p108)。プルーストは、やはりサン=サーンスのヴァイオリン・ソナ夕に魅了されていたのだとペネスコは断じる。かつて愛し、離れてしまったものへの、疼くようなやるせない思いが、文学テクスト上のヴァントゥイユの音楽の創出にあずかっていたというのが、ペネスコの見立てである。(安永愛)
スワンのオデットへの愛、主人公のジルベルトやゲルマント公爵夫人、あるいはアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。