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2017年8月17日木曜日

巫女たちの声

神語を以て、なぜ文学の芽生えと見るか。口頭の文章が、一回きりにとほり過ぎる運命から、ある期間の生命を持つ事になるのは、此時を最初とするからである。

われ〳〵の祖先が、其場ぎりに忘れ去る対話としての言語の外に、反復を要する文章の在る事を知るのは、此神語にはじまるのである。神語以外に、永続の価値ある口頭の文章が、存在しなかつたからである。(……)

律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。(……)

わが祖先の用ゐた語にしゞまと言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言の行」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

いやあ折口のいう神語という古代の日本語を読んでも、わたくしの耳には神の声は聞こえてこないね。耳がわるいせいかな……。万葉だっていけない。古事記にはまったくない、というわけでもないが。

どうあっても音楽のほうがいいよ、万葉万葉といってる国学者連中は、たぶん音痴なんだろうよ。


◆Ane Brun Lamento Della Ninfa Amor, Oh Love 2 Meter Sessi




◆Oralia Dominguez - Adagiati, Poppea




神主の厳格な用語例は、主席神職であつて、神の代理とも、象徴ともなる事の出来る者であつた。神主と国造とは、殆ど同じ意義に使はれて居る事も多い位である。村の神の威力を行使する事の出来る者が、君主として、村人に臨んだのである。村の君主の血縁の女、娘・妹・叔母など言ふ類の人々が、国造と国造の神との間に介在して、神意を聞いて、君主の為に、村及び村人の生活を保つ様々の方法を授けた。其高級巫女の下に、多数の采女と言ふ下級巫女が居た。(折口信夫「「しゞま」から「ことゝひ」へ」)

采女と言ふ下級巫女からだって、万葉よりはよっぽど神の声がきこえてくるよ

◆Anne Sofie von Otter, Sandrine Piau, Monteverdi, L'incoronazione di Poppea, "Pur ti miro"