2016年12月11日日曜日

一匹の蝿が私に腹を立てさせる

遺憾なことに、多くの写真は、私の視線のもとでは、生気を失っている。しかし、私の目から見ていくらか生きているように見える写真も、たいていは私の心に、ある一般的な関心、もしこう言ってよければ礼儀正しい関心しか呼びおこさない。それらの写真には、いかなるプンクトゥムもないのだ。そうした写真は、私の気にいることもあれば気に入らぬこともあるが、私を突き刺しはしない。そこに充当されているのは、ただストゥディウム(一般的関心)だけである。ストゥディウムというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。(ロラン・バルト『明るい部屋』原著1980年、花輪光訳)

Beaucoup de photos sont, hélas, inertes sous mon regard. Mais même parmi celles qui ont quelque existence à mes yeux, la plupart ne provoquent en moi qu'un intérêt général, et si l'on peut dire, poli: en elles, aucun punctum: elles me plaisent ou me déplaisent sans me poindre: elles sont investies du seul studium. Le studium, c'est le champ très vaste du désir nonchalant, de l'intérêt divers, du goût inconséquent: j'aime/je n'aime pas, I like/I don't. Le studium est de l'ordre du to like, et non du to love; il mobilise un demi-désir, un demi-vouloir; c'est la même sorte d'intérêt vague, lisse, irresponsable qu'on a pour des gens, des spectacles, des vêtements, des livres qu'on trouve "bien".(Roland Barthes, La Chambre claire)

仏語には「愛する」と「好き」の区別がないため、バルトはここで英語を使っているということになるのだろう。仏語に疎いものとして、以下の訳文に文句を言おうとしたのだが、そういうわけにはいかなさそうだ。

《私の好きなもの J'aime》、サラダ、肉桂、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干草の匂い(どこかの「鼻〔調香師〕」がそんな 香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立場、グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻、ヘンデル、適度の散歩、梨、白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃、桜んぼ、絵具、腕時計、万年筆、ペ ン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、コーヒー、ボロック、ドウンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェル ヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、列車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出発するときにたべたセルラー ノ[スペイン風のハム]など。

《私の好きでないもの Je n'aime pas》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニウム、いちご、クラヴサン、ホアン・ミロ、同義語反復、アニメーション映画、アルチュール・ルビンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィ ヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル(古い、きわめて陽気な、輪になっておどるダンス)、ルネッサンス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、 忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。

《私の好きなもの、好きではないもの J’aime, je n'aime pas》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎の形象 figure d'une énigme corporelleである。ここに、身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽jouissanceないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。

一匹の蝿が私に腹を立てさせる Une mouche m'agace, 私はそれを殺す je la tue。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蝿を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。)(『彼自身によるロラン・バルト』原著1975、佐藤信夫訳 )

バルトがここで記している《私の好きなもの J'aime》は、ストゥディウムの次元のものだろうか。それともプンクトゥムの次元のものだろうか。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分対象 objet partiel である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

Très souvent le punctum est un « détail », c’est-à-dire un objet partiel. Aussi, donner des exemples de punctum, c’est aussi, certaine façon, me livrer (ロラン・バルト『明るい部屋』既存訳からだが、 objet partiel の訳語を変えた)
ストゥディウム(studium)、――、この語は、少なくともただちに《勉学》を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

おそらく快楽の次元なのか、享楽の次元なのか、と問うてもほとんど同じことだろう。

快楽のテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽(享楽 jouissance)のテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』原著1973年、沢崎浩平訳)

微妙な混在はあるだろうにしろ、《私の好きなもの、好きではないもの J’aime, je n'aime pas》は、まずはストゥディウムの次元、つまり快楽の次元の記述だとしてよいのだろう。ただしバルトは《私の身体はあなたの身体と同一ではない mon corps n'est pas le même que le vôtre》と記している。これは(ラカン派的には)享楽の次元の表現である。

《ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! 》(S20、Février 1973)

ファルス享楽の彼方にある他の享楽とは、享楽する実体 substance jouissante(身体の実体substance du corps)にかかわる。ラカン曰く、これは分析経験のなかで確証されていると。 他の享楽は、性関係における失敗の相関物 corrélat として現れる。幻想は、性関係の不在の代替物を提供することに失敗する。

身体の享楽とはファルスの彼方にある。しかしながらファルス享楽の内部に外立 ex-sistence する。そして、これは (a)-natomie(a 的解剖学的構造)にかかわる。この(a)-natomie とは、ある痕跡に関係し、肉体的偶然性 contingence corporelle の証拠である。これは遡及的な仕方で起こる。これらの痕跡は、ファルス享楽のなかに外立 ex-sistence する無性的ー対象a性的 (a)sexuée な残留物と一緒に、(二次的に)性化されたときにのみ可視的になる。すなわち a から a/− φ への移行。ファルス快楽、とくにファルス快楽の不十分性は、この残留物を表出させる。臨床的に言えば、真理の彼方に(性関係の失敗の彼方に)、現実界は姿を現す。この現実界の残留物ーー享楽する実体ーーは、対象a にある(口唇、肛門、眼差し、声)。(ヴェルハーゲ、2001 Beyond Gender. From Subject to Drive. PDFーー「一の徴」日記⑥:誰もがトラウマ化されている

すなわち、ストゥディウムの彼方にあるプンクトゥムと呼んでどうして悪いことがあろう。

バルト自身、享楽という用語を使っている、《身体による威嚇 l'intimidation du corps が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざまな享楽jouissanceないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ》・・・

そもそも「好き」という次元でさえ、「身体」に大きくかかわるのではないだろうか。《文化から生れ、それと縁を切ら》ないものが快楽の次元であるとバルトは記してるが、快楽(シニフィアンの次元)と享楽(身体の次元)は単純には識別されがたい。

オートマンとテュケーは共存し絡み合っている。シンプルに言えば、テュケーはオートマトンの裂目である。…どの反復も微細な仕方であれ、象徴化から逃れるものが既に現れている。…裂目のなかに宿る偶有性の欠片、裂目によって生み出されたものがある。そしてこの感知されがたい微かな欠片が、喜劇が最大限に利用する素材である。(ムラデン・ドラー、喜劇と分身、2005年、私訳)

ラカン=アリストテレスのオートマンとテュケーは、一般には前者はシニフィアンの次元、後者は享楽の次元とされてきた。

ラカンは、よく知られたセミネール11 の講義にて、偶然(経験上の偶発性)と絶対的遇発性とのあいだの区別をしている。…アリストテレスの『自然学』第4、5章から引用して、彼は二種類の偶然性、 automaton と tyche があると主張している。

オートマンはシニフィアンの論理(象徴界)に属し、この水準では、恣意性は究極的に常に見かけにすぎない。というのは共時的構造が、通時性のなかに「選択的効果 effets préférentiels」を促し、定まったカードで主体を戯れさせるだけだから。

テュケーは現実界に結びつけられる。よりよく言えば、象徴構造への現実界の侵入にかかわる。それは純粋で無条件的(絶対的)である。

しかしながら、科学とは異なり精神分析は、言語は非全体 pas-toutであり全体化されえないと仮定する。したがって、シニフィアンのネットワーク内部での蓋然的偶然としてのオートマンは、テュケーによって可能・支えられていると同時に、テュケーによって土台を崩される。すなわち、物質的原因として理解されなければならない構造の穴の絶対的遇発性によって。 (ロレンツォ・キエーザ、 2010, Chiesa, L., ‘Hyperstructuralism's Necessity of Contingency',PDFーー偶然/遇発性(Chance/Contingency))

ロレンツォの上の文の(一般的な説明としての)前段ではなく、後段を読むと、やはりムラデン・ドラ―2005の言っていることと相同的である。

だがいまはこれ以上記さないでおく。

ここでは、わたくしは愛する作家の「私の好きなもの」の記述が好きである、とだけ書いておこう。

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろ く、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ていると き。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰 銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの 鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき 市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)。

そして好きな作家の「私の好きなもの」は好きなときもあれば嫌いなときもある。

なぜこんなことを記しているかといえば、昨日ツイッターを眺めていたら、《一匹の蝿が私に腹を立てさせる Une mouche m'agace》ことがあったからだ。

そしてその囀り主は、そのあたりの馬の骨ではなく、既にすぐれた仕事をしてきた「わたくしの愛する作家」であるのだ。それにもかかわらず苛立ったのはなぜなのだろう? それはやはり、《身体による威嚇 l'intimidation du corps》を感じたからだ・・・《自分の参加していないさまざまな享楽jouissanceないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用》(わたくしが参加することのすくない「分裂病的享楽 jouissance schizophrène」の身体による囀りと言ってしまってもよい)。

そもそもわたくしはどこかの馬の骨の「好き・嫌い」には無関心である。いやじつは馬の骨の好みでも、わたくしの最も愛する作家や芸術家への好みを表出するものであったら気にならないでもないが、ある時期から(福島原発事故以降から)無関心を装うことにしている。

個人の好き嫌いということはある。しかしそれは第三者にとって意味のあることではない。たしかに梅原龍三郎は、ルオーを好む。そのことに意味があるのは、それが梅原龍三郎だからであって、どこの馬の骨だかわからぬ男(あるいは女)がルオーを好きでも嫌いでも、そんなことに大した意味がない。昔ある婦人が、社交界で、モーリス・ラヴェルに、「私はブラームスを好きではない」といった。するとラヴェルは、「それは全くどっちでもよいことだ」と応えたという。(加藤周一『絵のなかの女たち』「まえがき」より)

最後に何度も引用しているプルーストの文をここでも貼り付けておこう。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

…………


きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dérive と命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20)
享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。 la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive. (『彼自身によるロラン・バルト』)
写真は絶対的な「個 Particulier」であり、反響しない、ばかのような、この上もなく「偶発的なもの Contingence」であり、「あるがままのもの Tel」である(ある特定の「写真」であって、「写真」一般ではない)。要するにそれは、「偶然 Tuché(テュケー)」の、「機会 Occasion」の、「遭遇 Rencontre」の、「現実界 Réel」の、あくことを知らぬ表現である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)