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2016年12月10日土曜日

プリゴジンの爪の垢

いやあ、またどっかの科学系らしき「馬の骨」がなんたら言ってくるが、ようするにおまえさん、徹底的にマヌケなんだよ。ウンコみたいな無知野郎だな、ま、世界はそんなヤツばかりのことは知っているが。

①科学は、象徴界内部で形式化されえないどんなリアルもないという仮定に基づいている。すべての「モノ das Ding 」は徴示化 signifying 審級に属するか翻訳されるという仮定である。言い換えれば、科学にとって、モノは存在しない。モノの蜃気楼は我々の知の(一時的かつ経験上の)不足の結果である。ここでのリアルの地位は、内在的であるというだけではなく手の届くもの(原則として)である。しかしながら注意しなければならないことは、科学がモノの領野から可能なかぎり遠くにあるように見えてさえ、科学はときにモノ自体(破局に直に導きうる「抑え難い」盲目の欲動)を体現するようになる。…

②宗教は、リアルは根源的に超越的な・〈大他者〉の・排除されたものという仮定に基づいている。リアルは、不可能で禁じられており、超越的で手の届かないものである。

③芸術は、リアルは内在的で手かないものという想定に基づいている。リアルは、表象に常に「突き刺さっている」、表象の他の側あるいは裏側に、である。裏側は、定められた空間に常に内在的でありながら、また常に手が届かない。どの動きも二つの物を創造する。目に見えるもの/見えないもの、聞こえるもの/聞こえないもの、イメージ可能なもの/不可能なもの。このように、芸術は常に境界と戯れる。境界を創造・移動・越境する。境界の彼方に「ヒーローたち」を送り込むのだ。しかしまた、鑑賞者を境界の「正しい」側に保つ。(ジュパンチッチ、Alenka Zupančič、The Splendor of Creation: Kant, Nietzsche, Lacan、PDFーー地球における最悪の病原菌)

科学者+芸術家であるプリゴジンの爪の垢でも甞めとけよ、そこのオマエさんよ


◆浅田彰、イリヤ・プリゴジンに聞く(1997年7月 18 日,東京、「時間と創造」PDF)

【分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべき】
浅田――ここでは技術的なディテールに立ち入ることはできませんが,あなたのヴィジョンは科学者以外の人々にも大きな意味をもっていると思います. 今,決定論的・可逆的な世界と非決定論的・不可逆的な世界を,客観と主観に対応させる伝統的な見方を批判されました.大きく言えば, C・P ・スノーの言う 「二つの文化」 の対立,ハー ドな自然科学とソフ トな人文科学, ハードなテクノロジーとソフトなアートの対立といったものも, その見方からくるものだと言えます. あなたのヴィジョンはそういう対立を全体として乗り越える ものですね.

プリゴジン――まったくそのとおりです.

浅田――あなたをそういうヴィジョンに導いた哲学史的・科学史的な背景についてうかがいたいのですが.

プリゴジン――時間の問題は哲学史の起源から論じられてきた大問題です.

浅田――ヘラクレイトスやパルメニデス以来…….

プリゴジン――ええ. それから近代になってニュートン力学が登場し,決定的な解答を与えたかに見えた. 自然の基本法則は決定論的かつ可逆的である, と. しかし, そうする と, 初期条件さえすべてわかっていれば,その後の発展は完全に予知できることになるわけで, これはどうにも納得しがたい. こうしてわれわれが話し合っ ていることも ビッグ ・バンの瞬間から決まっていたなどというのは, 考えられないでしょう.

浅田――いわゆる 「ラプラスの魔物」 の神話ですね.

プリゴジン――そう, それは受け容れられません. それから,今度は量子力学が登場します. そこでは確率を扱うけれど, 確率は人間の測定によって初めて入ってくるとされます.量子力学では, リアリティは測定を通じてしか接近できない. 波動関数はポテンシャリテ ィだけを含んでおり, 測定によって初めてポテンシャリティからアクチュアリティに移行することになるからです. ボーア は, 物理学に自然がどう動いているか問うてはならない, われわれが実験結果をどう表現しうるかだけを問え,と言いました. これは, 自然そのものは理解不能だ, と言うに等しい考え方です.

浅田――量子力学のコペンハーゲン解釈として知られる, 一種の主観主義ですね. アインシュタインは,それを批判したけれど,「神はさいころ遊びをしない」 という言葉に見られるように, 不確定性そのものを退けてしまった.

プリゴジン――それに対して, わたしは,不確定性が自然そのものの中に基本的・微視的なレヴ ェルにおいてすでに含まれていると思います. そして, それを数学的に理論化しえたと考えているのです.

古代哲学に戻れば, これは本質的にエピクロスやルクレチウスがかの有名なクリナメンによって捉えようとしたことです. わたしが正しいと したら, わたしたちはいまやクリナメの真のメカニズムを分析的に理解しようとしているのです.

自然はいたるところでゆらぎをはらんでいます. そうしたゆらぎが, 時に巨視的なレヴェルにまで増幅されて, 非平衡の構造――化学的, さらには生物学的な構造につながってゆく. しかし, ゆらぎはすでに微視的なレヴェルにおいて存在していたのです.

自然は常に試行錯誤を繰り返し, 新しい構造を生み出しています.人間もその中で生まれてきたのであり, 人間の創造活動も自然の創造活動の延長なのです.

逆に言えば, ニュートン的な世界では,生命や,わたしたちの脳が存在する余地はありません. わたしたちは,生命や脳の存在と矛盾しない世界を求めなければならない.そして,わたしはそのような世界を記述しえたと思っ ています. それが確率論的記述でなければならなかったのは, 世界そのものがゆらぎをはらんでいるからなのです.

浅田――確か, 若い頃にベルクソンを読んで時間の問題に関心をもったと言っておられましたね. そうした影響についてはどうでしょうか.

プリゴジン――ベルクソンやハイデガーは, 本質的にはニュートン力学以外に科学がなかった時代の文脈において理解しなければなりません.それは, おっしゃるとおり, 西洋の思考を 「二つの文化」 へと分割してしまった.ベルクソンやハイデガーはその分割の例です.

ベルクソンやハイデガーの批判的な部分は, 今でもなお興味深い. しかし, 建設的な部分は, わたしの見るかぎりでは, もう時代遅れになってしまった.

浅田――科学者と しては当然の見解でしょうね. わたしは, 現代哲学の独自の創造性を評価し, 科学のほうが哲学より優れているとか, 科学の成果を哲学者がよく理解せぬまま誤用しているとかいった, アラン ・ ソーカルのような一方的批判には与しない者ですが, 分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべきだという点で,あなたに同意します.

ーー浅田彰のいう《分析的に明確化できるようになったところはぎりぎりまで分析的に明確化すべき》とは、似たような表現がくり返されてきたがその代表的なものは「明晰な理解可能性という、貧しい領土にとどまる」だろう。

浅田彰:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。 (平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰

で、それは何の問題もない。とくに科学精神はそうあったらいいわけで、 ただし問題はそれだけではないということだ。


【生物的レヴェルと, 人間的・社会的レヴェルの間のギャップ】
(……)プリゴジン――科学には,まわりの世界を理解するという側面と,その世界における自己の位置を理解するという側面がありますが, 特に後者は,決してニュートラルな問題ではありえません. わたしたちは, 政治運動に参加するのと同じようにして, 科学研究に参加するのです. 政治には情熱がつきものですが, 科学研究についても同じことです.

じつのところ, わたしは自分が思っていた以上の情熱をもっていたことに気づいて, われながら驚かされま した. わたしは,このささやかな科学革命に, 意に反して乗り出してしまったのです.良い抽象画家はできるだけオリジナルであろうとするが, 良い理論物理学者はできるだけオリジナルでなくあろう とする, というハイゼンベルクの言葉を, わたしはいつも引用し, 自分でもそうありたいと思ってきたのですが, どうしてもいささかオリジナルにならざるをえませんでした (笑) .

浅田――あなたは, いわば科学における芸術家だったのかもしれませんね.

プリゴジン――さあ, どうでしょ う. いずれにせよ, わたしの歩みは, わたしが人文系の教育を受け, 後になってから自然科学に移ったという事実を考慮しなければ, 理解できないでしょう.

もう 60年も前の1937年に, まだ学生だった20歳のわたしは 「物理哲学試論」 「進化」 「決定論」 という三つの短いエッセイを発表しています. も ちろん, 特に新しい論点は含まれていません. ただ, わたしがすでに時間の問題に関心をもち, 「二つの文化」のギャップを意識していたことはわかります.

浅田――それから 60年を経て, あなたはそのギャップに橋をかけるところまで到達された?

プリゴジン――まだそこまではいきません. わたしたちの研究は始まったばかりなのです. また, そもそもすべてを説明する統一理論のようなものが可能だとは, わたしには考えられません.

浅田――それに関して, 5年前にあなたを囲むシンポジウム ( 『生命論パラダイムの時代』 ) で提起した疑問を繰り返しておきたいと思います. あなたの研究は, 物理的なレヴェルと生物的なレヴェルのギャップを埋め, 『混沌からの秩序』の原題を借りて言えば 「新しい連帯」 をつくりあげるうえで, 多くの示唆を与えるものでした. さらにそれは, 例えば都市のパターン形成のモデルなどにも応用されています.

ただ, 生物的レヴェルと, 人間的・社会的レヴェルの間には, もう一つのギャ ップがあるのではないでしょ うか.

プリゴジン――もちろんです. 人間はそれぞれが意思決定を行ない,その意思決定は過去の記憶と未来の予測に依存しますが, 分子のレヴェルにそんなものはないのです. ですから, 時間の流れは共通でも,変化のメカニズムは大きく異なります.

浅田――さらにいささか哲学的に言うなら, 人間のレヴェルには生命の論理を超えた部分があるのではないでしょうか.人間は死を意識する. 自殺することもある. マゾヒスティックな快楽を死に至るまで追い求めたりもする. それは人間が言語をもつ存在だという ことと深く結びついています.

生命の論理に関するかぎり, わたしたちはそれを自然の総体の中で統合的に理解する方向を見出しつつあるかに見える. しかし, 人間というのはさらにそれを超えた不可解な存在ではないでしょうか.

プリゴジン――おっしゃるとおりです. わたしたちは人間についてほんのわずかしか理解していない. そして, わたしたちが人間について学べば学ぶほど, 謎はますます深まるばかりであるかのようです.

わたしたちは, 人間の精神が何兆もの神経細胞の相互作用から発生することを知っている. それらはきわめて複雑な構造を形成し, そこにはカオスも関係しているら しい. そこから統一的な意識がいかにして生まれてくるのか. わたしには想像もつかない複雑な問題です.

脳と意識の問題を解明すると自称する本があります. クリックやデネットなどの本です. しかし, それらを読んでもあまり得るところはありませんね.

浅田――言い換えれば, 科学の前にはまだまだ広大な未知の領域が広がっている ということでしょう.

プリゴジン――そう, 最後にはっきりと言っておきたいのですが, わたしは科学の終焉や時間の終焉といった考え方に反対です. ホーキングのような物理学者は, わたしたちがすべてを説明する究極の統一理論を手に入れようとしており, いわば神の視点に近づいている, と主張している. そういう信じがたくナ イーヴな意見にはとても同意できません.

物理学者が時間に敵意を示してきたのは, 時間の不在こそ, 神の視点に近づいていることの証拠だと考えられているからです.神にとって時間は存在しませんからね. これこそアインシュタインの見方であり, ホーキングの見方です. ホーキングは, アインシュタインのヴィジョンを受け継いで, 物理学を幾何学化――つまりは空間化しようとしている. 他方,わたしは物理学を時間化しようとしているのです.

わたしの観点から言えば, 科学の終焉どころか, 科学の始まりを語らなければなりません. わたしたちは, どちらかと言えば未知の宇宙の中にいて, 多様な現象の生成と発展を ようやく理解しはじめようとしているのです.


《いささか哲学的に言うなら, 人間のレヴェルには生命の論理を超えた部分があるのではないでしょうか.人間は死を意識する. 自殺することもある. マゾヒスティックな快楽を死に至るまで追い求めたりもする. それは人間が言語をもつ存在だという ことと深く結びついています》ーーともあるが、これがフロイトの死の欲動であり、ラカンの享楽。

現実界の享楽は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要な形式である。

la Jouissance du réel comporte… ce dont FREUD s'est aperçu …comporte le masochisme… Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (Lacan, S23, 10 Février 1976)

フロイトやラカンが古くなっているはずないだろ、これからの思想家だよ。ラカンの若き友人だったソレルスは、《われわれの時代の最も偉大な思想家であるファルス》(『女たち』1983)としているが、これは小説のなかの話とはいえ、で、ラカン以外に誰がいるんだい、現在? 一人でもいいから、誰かあげてみろよ、科学の世界のことはよく知らないがプリゴジンの後釜でもいいさ、誰がいるんだい?

そしてラカンというのは実は、唯一まともなフロイト解釈者のことだよ。

二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。

これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。……(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」初出1997、『アリアドネからの糸』所収)