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2016年12月12日月曜日

基礎資料:神経症・精神病・倒錯

古典的ラカンでは一般に「精神病」と「倒錯」と「神経症」の大分類があり、正常とされる人でもどれかの分類に属する。そして精神病の下位分類にパラノイア・スキゾフレニー・メランコリーがある。そして神経症の下位分類には、、ヒステリーと強迫神経症、そして付加的に恐怖症があると言われてきた。

たまたまネット上から拾った次の分類表はそれを表わしている。



(May De Chiara & Alejandro Lodi,2010)


ところで別に次のような図にも行き当たった。



自閉症と境界例(境界性パーソナリティ障害)がつけ加わっている。わたくしはこのあたりに詳しくないのだが(DSMにはまったく無知である)、上の図を信じて日本語にすれば次のようになる。




いやあつまんねえ、わたくしは自らを「倒錯」じゃないかと疑っているのだが、いわゆる標準的な「神経症」に近い位置いあるじゃないか・・・

フロイトが言ったことに注意深く従えば、全ての人間のセクシャリティは倒錯的である。フロイトは決して倒錯以外のセクシャリティに思いを馳せることはしなかった。そしてこれがまさに、私が精神分析の肥沃性 fécondité de la psychanalyse と呼ぶものの所以ではないだろうか。

あなたがたは私がしばしばこう言うのを聞いた、精神分析は新しい倒錯を発明することさえ未だしていない、と(笑)。何と悲しいことか! 結局、倒錯が人間の本質である la perversion c'est l'essence de l'homme,。我々の実践は何と不毛なことか!(Lacan, Le Seminaire XXIII, Le Sinthome,11, 1977)

ラカンは別に「正常な」性関係を、《norme-mâle》ーー男の規範とも言っている。これは悪い規範 norme  mal と読めもする。すなわち正常な性関係とは、「父」の介入による前性器的「多形倒錯polymorphe Perversität」--もちろんフロイト用語であるーーの男根化(ファルス化)である。

やあ神経症的男根主義者たちにはお近づきになりたくなかったのだが・・・

ま、それはこの際脇にやり、最近のラカン派ーー冒頭に記した古典的ラカン解釈ではなく、ラカン主流派(ミレール派)の最近の解釈では、次のようなことが言われている。

神経症においては、我々は「父の名」を持っている…正しい場所にだ…。精神病においては、我々は代わりに「穴」を持っている。これははっきりした相違だ…。「ふつうの精神病」においては、あなたは「父の名」を持っていないが、何かがそこにある。補充の仕掛けだ…。とはいえ、事実上それは同じ構造だ。結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている…。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。(Miller, J.-A. (2009). Ordinary psychosis revisited. Psychoanalytic Notebooks of the European School of Psychoanalysis、私訳)
精神病の一般化が意味するのは、あなたは本当の「父の名」を持っていないということだ。そんなものは存在しない。…父の名は常にひとつの特殊な要素、他にも数ある中のひとつであり、ある特殊な主体にとって「父の名」として機能するものに過ぎない。そしてもしあなたがそう言うなら、神経症と精神病とのあいだの相違を葬り去ることになる。これが見取図だ、ラカンが1978年に言った「みな狂人である」あるいは「それぞれに仕方で、みな妄想的である」に応じた見取図…。これは、あるひとつの観点というだけではない。臨床のあるレベルでもかくの如しである。(同上)

このような変貌があったのは、最晩年のラカンの次の言葉に由来する。« Tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant » (Lacan Tout le monde délire、1979)

人は皆妄想的だ、とは人は皆精神病的だという意味である(日本でも若きすぐれたラカン派であるのは間違いない松本卓也氏の書の題名になっているが、わたくしは一部を近親の者(娘)にPDFにして送ってもらって読んだだけで全体としては未読)。

……臨床において、「父の名」の名の価値下落は、前代未聞の視野に導いてゆく。ラカンの「皆狂っている、妄想的だ」という表現、これは冗句ではない。それは話す主体である人間すべてに対して、狂気のカテゴリーの拡張と翻訳しうる。誰もがセクシャリティについてどうしたらいいのかの知について同じ欠如を患っている。このフレーズ、この箴言は、いわゆる臨床的構造、すなわち神経症、精神病、倒錯のそれぞれに共通であることを示している。そしてもちろん、神経症と精神病の相違を揺るがし掘り崩す。その構造とは、今まで精神分裂病の鑑別のベースになっていたものであり、教育において無尽蔵のテーマであったのだが。(ジャック=アラン・ミレール 2012 The real in the 21st century by Jacques-Alain Miller

日本でも中井久夫が2000年にすでに次のような指摘をしている。

現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収ーー「で、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」)

…………

というわけで、実は別のことを記そうと思って前段として掲げるつもりだったのだが、たまにはすっきり基礎的文献としてとどめて、以下、古典的ラカン解釈ーー同じジャック=アラン・ミレールによるものを掲げるだけですましておく。

◆ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」 Jacques-Alain Miller, An Introduction To Lacan's Clinical Perspectives, in Reading Seminars I and II: Lacan's Return to Freud(1990年代の論文である)。

ラカンはフロイトの著作のなかに、それぞれの構造に対する特異的な用語があることを指摘しました。[Verdrangung(repression)]、精神病では排除[Verwerfung(foreclosure)]、倒錯で は 否 認 [Verleugnung(disavowal,desaveu)] です 。 ラカンは最終的には否認[Verleugnung]に dementi(denial)という訳をあてることを好むようになりました。

ラカンの分析の教義の多くは、否定の三つの異なったモードを作ることにささげられています。ラカンはこのように言います――精神病における排除[Verwerfung] は 父のシニフィアンの否定であり、倒錯における否認[Verleugnung]はファルスのシニフィアンの否定の特別なモードであり、 神経症における抑圧[Verdrangung]は主体自身のより広範な否定である、 と。 これらのメカニズムには詳細なレクチャーが必要でしょう。

これらのカテゴリーのそれぞれには、もちろんさらなる区別があります。ラカンは何度も三つのカテゴリーに平行線を引いています。ラカンが新しい概念をつかんだとき、あるいは臨床的仕事の新しい観点を強調するとき、彼はそれを神経症・精神病・倒錯に適用します。精神分析においては、新しい観点を作るならば、この三つの領域に関連付けて複雑にしなければならないのです。神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。

しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。