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2017年3月23日木曜日

純粋過去Ⱥと潜在的対象S(Ⱥ)

・潜在的対象は純粋過去の切片である。 L'objet virtuel est un lambeau de passé pur

・潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial
(ドゥルーズ 『差異と反復』1968年)



剰余享楽は(……)享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)



享楽とは本当は、斜線が引かれている、ーー「享楽

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能にかかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象 l’objet originairement perdu」と呼んだもの、ラカンが「欠如しているものとしての対象a l’objet a, en tant qu’il manque」と呼んだものです。(コレット・ソレール、2013、Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas »

上の二つの図は、すくなくとも構造的には、次の図と相同的である。




S(Ⱥ)は、原抑圧にかかわる。Ⱥとは、トラウマにかかわる。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』)

トラウマとは、言葉で表象されえないもの、--これがフロイト・ラカン派の定義である。つまりはシニフィアンの彼岸、それがトラウマである。《au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme 》(ラカン、S11)

対象aの意味合いは、(現実界・象徴界・想像界のそれぞれにかかわって)何種類もあるが、その一つは、Ⱥ のことである(Ⱥが穴であるのは、末尾のミレール注釈を見よ)。

対象a、それは穴のことである。

C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)

ーーブルース・フィンクは、《S(Ⱥ) は、S(a)と書けるかもしれない》(Fink, THE LACANIAN SUBJECT, 1995)としているが、これは Ⱥ=a の場合がある、ということである。

かつまた、S(Ⱥ)は、初期フロイトの「境界表象 Grenzvorstellung」概念に相当する(ポール・バーハウ、1999)。それが上の図において、S(Ⱥ)がȺのエッジに置かれていることの意味合いである。

抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化によって起こる。(フロイト書簡、1896年)

Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung, (Freud, Briefe an Wilhelm Fliess,1896)

ーーここでフロイトが抑圧と言っているのは、原抑圧のことである。

トラウマとは、また穴 trou とも呼ばれる、--《穴ウマ(troumatisme =トラウマ)》(ラカン、S22)。いわゆる駄洒落ラカンの気味もあるが。

原抑圧とは穴の名である(「原リアルの名 le nom du premier réel」・「原穴の名 le nom du premier trou 」)(コレット・ソレール、2013-2014セミネールーー参照:二種類の超自我と原抑圧

以下の文で、ラカンはフロイト概念、夢の臍 Nabel des Traums(時期によって、菌糸体 mycelium、真珠貝の核の砂粒 das Sandkorn im Zentrum der Perle、我々の存在の核 Kern unseres Wesen、欲動の固着 Fixierungen der Triebe、欲動の根 Triebwurzel 等とも呼ばれる)を、原抑圧・穴に結びつけている。

◆ラカン、Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975

夢の臍 l'ombilic du rêve…それは欲動の現実界 le réel pulsionnel である。

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞の機能によって欲動を特徴づけたことを。

原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である

さて、なぜ三つの図が相同的なのか。

まずドゥルーズは、潜在的対象にかかわって、原抑圧という語を出している。

反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)l'objet virtuel (objet = x) に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成される。潜在的対象は、たえず循環し、つねに自己に対して遷移するからこそ、その潜在的対象がそこに現われてくる当の二つの現実的な系列のなかで、すなわち二つの現在のあいだで、諸項の想像的な変換と、 諸関係の想像的な変容を規定するのである。

潜在的対象の遷移 Le déplacement de l'objet virtuel は、したがって、他のもろもろの偽装 déguisement とならぶひとつの偽装ではない。そうした遷移は、偽装された反復としての反復が実際にそこから由来してくる当の原理なのである。

反復は、実在性(レアリテ réalité)の〔二つの〕系列の諸項と諸関係に関与する偽装とともにかつそのなかで、はじめて構成される。 ただし、そうした事態は、反復が、まずもって遷移をその本領とする内在的な審級としての潜在的対象に依存しているがゆえに成立するのだ。

したがってわたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化 la représentation des présents に関わる帰結として産み出されるのである。

そうしたことをフロイトは、抑圧 refoulement という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧 refoulement dit « primaire »〉と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復)

そして冒頭に《潜在的対象は純粋過去の切片である》とも引用した。

純粋過去とは何だったか。

マドレーヌの味、ふたつの感覚に共通な性質、ふたつの時間に共通な感覚は、いずれもそれ自身とは別のもの、コンブレーを想起させるためにのみ存在している。しかし、このように呼びかけられて再び現われるコンブレーは、絶対的に新しいかたちになっている。コンブレーは、かつて現在であったような姿では現われない。コンブレーは過去として現われるが、しかしこの過去は、もはやかつてあった現在に対して相対するものではなく、それとの関係で過去になっているところの現在に対しても相対するものではない。それはもはや知覚されたコンブレーでもなく、無意識的記憶の中のコンブレーでもない。コンブレーは、体験さええなかったような姿で、実在(リアリティ)においてではなく、その真実において現われる Combray apparaît tel qu'il ne pouvait pas être vécu: non pas en réalité, mais dans sa vérité。コンブレーは、純粋過去 passé pur の中に、ふたつの現在と共存して、しかもこのふたつの現在に捉えられることなく、現在の無意識的記憶と過去の意識的知覚の到達しえないところで現われる。それは、《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》である。つまりそれは、現在と過去、現実的な(アクチュアルな)ものである現在 présent qui est actuel と、かつて現在であった過去との単純な類似性ではなく、ふたつの時間の同一性でさえもなく、それを越えて、かつてあったすべての過去、かつてあったすべての現在よりもさらに深い、過去のそれ自体における存在〔即自存在〕である。《純粋状態での短い時間 Un peu de temps à l'état pur》とは、局在化した時間の本質である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

(プルーストの作品は)ジョイスの聖体顕現 épiphanies とはまったく異なった構造をもっている。しかしながらまた、それは二つの系列の問いである。 すなわち、かつての現在(生きられたコンブレー)と現勢的 actuel な現在の系列。疑いもなく経験の最初の次元にあるのは、二つの系列(マドレーヌ、朝食)のあいだの類似性であり、同一性でさえある(質としての味、二つの瞬間における類似というだけでなく自己同一的な質としての味覚)。

しかしながら、秘密はそこにはない。味覚が力能をもつのは、それが何か=X を包含するenveloppe ときのみである。その何かは、もはや同一性によっては定義されない。すなわち味覚は、それ自身のなか en soi にあるものとしてのコンブレー、純粋過去の破片 fragment de passé pur としてのコンブレーを包んでいるenveloppe Combray 。それは、次の二つに還元されえない二重性のなかにある。すなわち、かつてあったものとしての現在(知覚)、そして意志的記憶 mémoire volontaire によって再現されたり再構成されたりし得るかもしれないアクチュアルな現在への二重の非還元性のなかにある。

それ自身のなかのこのコンブレーは、己れの本質的差異 différence essentielle によって定義される。「質的差異 qualitative difference」、それはプルーストによれば、「地球の表面には à la surface de la terre」存在せず、固有の深さのなかにのみ存する。この差異なのである、それ自身を包むことによって、諸々の系列のあいだの類似性を構成する質の同一性を生み出すのは。

したがって再びまた、同一性と類似性は「差異化するもの différenciant」の結果である。二つの系列が互いに継起するなら、それにもかかわらず、二つの系列に共鳴を引き起こすもの、すなわち対象=X としてのそれ自身のなかのコンブレーとの関係において共存する。さらに、二系列の共鳴は、その系列をともに越えて溢れ返る déborde 死の本能 instinct de mort をもたらす。たとえば半長靴と祖母の記憶である。

エロスは共鳴 résonanceによって構成されている。だがエロスは、強制された運動の増幅 l'amplitude d'un mouvement forcé によって構成されている死の本能に向かって己れを乗り越える(この死の本能は、芸術作品のなかに、無意志的記憶のエロス的経験の彼方に、その輝かしい核を見出す)。プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰 l'éternité du retour dans le temps を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968)

上に引用したラカン文に《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する》とあった。この原穴の名、原リアルの名は、ドゥルーズのいう「死の本能」と相同的である(参照:死の本能と死の欲動の相違(ドゥルーズ))。

フロイトの言い方なら、引力である。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

こうして次の図が書ける。



わたくしは長い間ーーもしかりにラカン概念に結びつけるならーー、純粋過去のほうが、S(Ⱥ)で、潜在的対象は、Ⱥではないか、と(なんとなく)考えていたが、ドゥルーズをいくらか読み返してみると、どうもこうならざるをえない。

だがそのとき純粋差異はどちらのポジションになるのだろう。純粋差異とは、S(Ⱥ)であるように思えてならないのだが、ちょっと今はあまりはっきりしたことはいえない。


【絶対的差異・内的差異】
究極の絶対的差異 différence ultime absolue とは何か。それは、ふたつの物、ふたつの事物の間の、常にたがいに外的な extrinsèque、経験の差異 différence empirique ではない。プルーストは本質について、最初のおおよその考え方を示しているが、それは、主体の核の最終的現前 la présence d'une qualité dernière au cœur d'un sujet のような何ものかと言った時である。すなわち、内的差異 différence interne であり、《われわれに対して世界が現われてくる仕方の中にある質的差異 différence qualitative、もし芸術がなければ、永遠に各人の秘密のままであるような差異》(プルースト)である。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

【単独的差異・内的差異・差異の差異化】
反復とは…一般的差異 différences générales から単独的差異 différence singulière へ、外的差異 différences extérieures から内的差異 différence interne への移行として理解される。要するに、差異の差異化 le différenciant de la différenceとしての反復である。(『差異と反復』)

起源的差異・純粋差異・即自的差異】
永遠回帰には、つぎのような意味しかない―――特定可能な起源の不在 l'absence d'origine assignable。それを言い換えるなら、起源は差異である l'origine comme étant la différence と特定すること。もちろんこの差異は、異なるもの(あるいは異なるものたち)をあるがままに環帰させるために、その異なるものを異なるものに関係させる差異である。

そのような意味で、永遠回帰はまさに、起源的・純粋な・総合的・即自的差異 une différence originaire, pure, synthétique, en soi の帰結である(この差異はニーチェが『力の意志』と呼んでいたものである)。差異が即自であれば、永遠回帰における反復は、差異の対自である。(ドゥルーズ『差異と反復』)

ーーいやあ、間違ってないかな・・・「起源は差異である」なんてあるな・・・純粋差異と純粋過去の「純粋」という語に導かれて、純粋過去をS(Ⱥ)とし、潜在的対象をȺとするかもしれないよ、・・・だいたいラカン派だって、ȺとS(Ⱥ)、どっちかどっちだかいいかげんだからな、まあ、いいさ。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

ま、徴示するのか、その徴示されるのかのどちらかなのだが、だいたいシニフィアンの彼岸にあるȺ(大他者の大他者はない)を徴示しようとするのが奇妙なのであって、だから初期フロイト概念の「境界表象」(境界シニフィアン)が貴重なのである・・・あるいは厳密さを期そうとせずに、本来はȺもひっくるめて S(Ⱥ)でよいのである・・・

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

ーーいやあ、まいったな、この文とは合致しそうにはないよ、せっかく書いたから投稿はするが、だれかアタマのいい人、考えてくれよ、オレはもういいからさ。

冒頭にかかげたドゥルーズの《潜在的対象はひとつの部分対象である。L'objet virtuel est un objet partial 》ってのが、ひょっとして間違っているってことはないだろうか?

部分対象ってのは、(ラカン派的には)フェティッシュ化、あるいはファルス化された対象aなんだから、やっぱ外側にあるはずなんだけどさ・・・

いずれにせよ肝腎なのは遡及性概念である、「原初 primaire は最初 premier のことではない」(S20)。すなわちȺは、S(Ⱥ)によって遡及的 rétroactivement に構成されて現勢化する。

とすれば、純粋過去は、潜在的対象によって遡及的に構成されて現勢化するんだろうか。それとも、潜在的対象は、純粋過去によって遡及的に構成されて現勢化するのだろうか。

いやあどっちだろ?

純粋差異についてだが、ジジェクはこう言っている。

ドゥルーズの超越論的経験論の用語では、純粋差異は、現勢的 actual アイデンティティの潜在的支えもしくは条件である。或る実体 entity が「(自己)同一的(self‐)identical」であると受け取られのは、その潜在的支えが純粋差異に還元された時(時のみ)である。ラカン派においては、純粋差異は、潜在的対象(ラカンの対象a)の補填(穴埋め)にかかわる。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここでの補填という用語は、コルク栓にかかわる。《女性の享楽は非全体の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 le bouchon を見いだす》(Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

…私は、対象の、考えうる唯一の概念、欲望の原因としての対象、欠如している対象を考えだした。

欠如の欠如が現実界を生みだす。それは唯一、コルク栓として、そこに現れる。このコルク栓は、不可能という語によって支えられている。現実界についてわれわれが知っている僅かなことは、すべての本当らしさへのアンチノミーとして示される。

Je l'ai fait d'avoir produit la seule idée concevable de l'objet, celle de la cause du désir, soit de ce qui manque.

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible, dont le peu que nous savons en matière de réel, montre l'antinomie à toute vraisemblance. (Lacan, PRÉFACE À L'ÉDITION ANGLAISE DU SÉMINAIRE XI,AE573 , 17 mai 1976)


《物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ》(『トランスクリティーク』)の表現を援用して言えば、「現実界」はアンチノミーの場にあり、何ら神秘的な意味合いはない、となる。

さて、そこの〈あなた〉!、わたくしの記述を、わたくしの図を、訂正してクダサイ!

…………

※付記

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威 legitimate authority である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥ の最も深い特性である。Ⱥは、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立 ex-sistence がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)