祖母の思い出の中に、何が起こったのか。ひとつの強制された運動が、ひとつの反響(共鳴)とかみ合うのである。死の観念を持った拡がりが、共鳴する瞬間を除去してしまった。しかし、見出された時と、失われた時とのあいだの、あれほど激しい矛盾は、両者のそれぞれを、その生産の系列と関連させている限り、解決される。
『失われた時を求めて』のすべては、この書物の生産の中で、三種類の機械を動かしている。それは、部分対象の機械(欲動)machines à objets partiels(pulsions)・共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros),・強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos),である。
このそれぞれが、真実を生産する。なぜなら、真実は、生産され、しかも、時間の効果として生産されるのがその特性だからである。
それが失われた時のばあいには、部分対象 objets partiels の断片化により、見出された時のばあいには共鳴 résonance による。失われた時のばあいには、別の仕方で、強制された運動の増幅 amplitude du mouvement forcéによる。この喪失は、作品の中に移行し、作品の形式の条件になっている。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』1964-1970-1976「三つの機械 Les trois machines」)
ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』は、初版1964年、第二版1970年、第三版1976年とある。初版は第二版にあらわれる「第八章 アンチロゴスまたは文学機械」が欠けた小さな本だった(ほぼ倍増の書物になっている)。第三版は、章の組み換えや章題の変更等以外には、最後の章として「狂気の現存と機能ークモー」がつけ加えられいるが、大きな変化はない。
とはいえ「思考のイマージュL'image de la pensée」の章の三度にわたる位置変動が、ドゥルーズの何かへの拘りを示してはいる(そもそも彼がこのようにいったん出版した書物をいじくりまわしたのは、このプルースト論だけである)。
以下の水色の枠が「思考のイマージュ」の章である。
だが今はこの話をもうこれ以上するつもりはない。
ここでは、上に引用した「三つの機械 Les trois machines」の文は、1970年版に初めて現れる、ということが言いたいだけである。
ところで、1968年上梓の『差異と反復』には次のようにある。
この1970年と1968年の叙述を、1967年上梓の『マゾッホとサド』とともに読むとどうなるか。
もしドゥルーズのエロスとタナトスの捉え方に変化がないのなら、これらの三つの叙述をどのように捉えたらよいだろう?
マゾッホ論には、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、生の欲動 puIsions de vie と混同された形で現れるとあった。すなわち死・破壊欲動が《エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなもの》とされている。
とすれば、『プルーストとシーニュ』の記述にあった、次の三区分をどう振り分けるべきか。
①部分対象の機械(欲動あるいは衝動)machines à objets partiels(pulsions)
②共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
③強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)
①②を、ドゥルーズはエロスの審級としていると仮定することができないだろうか? それはマゾッホ論の次の記述からの類推である。
そして《破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう》ともあった。
もしこの想定をとれば、③の「強制された運動の機械(タナトス)」のみが、ドゥルーズが死の本能と呼ぶものということになる。この③は、『差異と反復』における《時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式》だろう。
①部分対象の機械(欲動)+②共鳴の機械(エロス)が上辺とすれば(ラカン的には象徴界)、③強制された運動の機械(タナトス・死の本能)が、下辺(現実界)ということになる筈である。
① 部分対象の機械(欲動)+② 共鳴の機械(エロス)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
③ 強制された運動の機械(純粋状態のタナトス・死の本能)
もちろんこれは、ドゥルーズの1967年から1970年のあいだの考え方の変化がなかったら、とした場合の想定である。
ドゥルーズの《強制された運動の機械》とは、ラカンの現実界にかかわる表現のひとつ、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)に相当するはずである。
上辺の(死の)欲動がエロスの審級と混同されるという観点については、フロイト自身にも、「欲動混淆 Triebvermischung」、あるいは「死の欲動とエロスとの合金化 Legierung von Todestrieb und Eros 」という表現があり、ほぼ同様の考え方とすることができうる。
そしてドゥルーズの言う③、つまり「死の本能 Instinct de mort 」あるいは「純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur」とは、ひょっとして次のフロイト文にある《以前のある状態を再回復Wiederherstellung しようとするもの》ではなかろうか。
このフロイト文は、ラカンの次の文とともに読むことができる。
上の『快原理の彼岸』に典型的にあらわれているフロイトの欲動 Trieb をめぐる表現のいくつかを、攻撃欲動 Aggressionstrieb(あるいは《破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)と同じものと扱うわけにはいかない。それがドゥルーズの言っていることであるだろう。
たとえば次の文を攻撃欲動や破壊欲動、征服欲動と同じものとして読むのは、(それじたいとしては)いささか無理がある。
もっともフロイトは後々まで、たとえば次のように言っているわけだが。
さてもうひとつ、ドゥルーズのマゾッホ論1967年に、Todestriebは《本源的に沈黙する essentiellement silencieux 》ものとあったが、これは直接には、『自我とエス』の次の文に由来しているだろう。
『快原理の彼岸』にも似たような表現がある。
この「本質的に唖」であったり、「目立たずにunauffällig その仕事を行う」ものとしてのTodestriebeは、死の欲動ではなく死の本能と呼ぶべきだというのがドゥルーズの捉え方であり、この観点はーーわたくしの知る限り、誰も注目していないようにみえるがーー、ひどく豊かな示唆を今でももっている、と思う。
(以上、そのうちたぶん続く)
プルーストの定式、《純粋状態での短い時間 un peu de temps à l'état pur》が示しているのは、まず純粋過去 passé pur 、過去それ自身のなかの存在、あるいは時のエロス的統合である。しかしいっそう深い意味では、時の純粋形式・空虚な形式 la forms pure et vide du temps であり、究極の統合である。それは、時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式である。(ドゥルーズ『差異と反復』1968年)
この1970年と1968年の叙述を、1967年上梓の『マゾッホとサド』とともに読むとどうなるか。
『快原理の彼岸』で、フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。
なぜなら、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、まちがいなく無意識にそなわっている、というより与えられているのだが、きまって生の欲動 puIsions de vie と混同された形としてなのだ mais toujours dans leurs mélanges avec des puIsions de vie。エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなものである。
従って破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう。
無意識に「否Non」(純粋否定 negation pure)は認められない、無意識にあっては両極が一体化しているからだとフロイトが主張しうるのは、そうして意味においてである。
ここで死の本能 Instinct de mort という言葉を使用したが、それが示すものは、反対に純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur なのである。ところでそれ自体としてのタナトスは、たとえ無意識の中にであれ、心的生活にそなわっていることはありえない。見事なテキスト textes admirables のなかでフロイトが述べているように、それは本源的に沈黙する essentiellement silencieux ものなのである。にもかかわらず、それを問題にしなければならない。後述するごとく、それは心的生活の基礎以上のものとして決定づけうるdéterminable ものだから。
すべてがそれに依存しているからには、問題にせざるをえないのだが、フロイトの確言によると、純理論的にか、あるいは神話的にしかそれを遂行する道をわれわれは持っていない。その指示にあたって、かかる超越論性transcendanceを人に理解させたり、「超越論的transcendantal」原理を指示しうる唯一のものとして、本能という名 le nom d'instinct を使い続ける必要がわれわれにあるのだ。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』1967年)
もしドゥルーズのエロスとタナトスの捉え方に変化がないのなら、これらの三つの叙述をどのように捉えたらよいだろう?
マゾッホ論には、死の欲動と破壊の欲動 les pulsions de mort et de destructionは、生の欲動 puIsions de vie と混同された形で現れるとあった。すなわち死・破壊欲動が《エロスと結ばれることは、タナトスの《現前化 présentation》の条件のようなもの》とされている。
とすれば、『プルーストとシーニュ』の記述にあった、次の三区分をどう振り分けるべきか。
①部分対象の機械(欲動あるいは衝動)machines à objets partiels(pulsions)
②共鳴の機械(エロス)machines à résonance (Eros)
③強制された運動の機械(タナトス)machines à movement forcé (Thanatos)
①②を、ドゥルーズはエロスの審級としていると仮定することができないだろうか? それはマゾッホ論の次の記述からの類推である。
フロイトは生の欲動と死の欲動 les pulsions de vie et les pulsions de mort、つまりエロスとタナトスの違いを明確化している。だがこの区別は、いま一つのより深い区別、つまり、死の欲動、あるいは破壊の欲動それ自体 les pulsions de mort ou de destruction elles-mêmesと、死の本能 l'instinct de mortとの違いを明確化することで、はじめて理解されるものである。(ドゥルーズ、1967)
そして《破壊、破壊に含まれる否定性は、必然的に構築 construction もしくは快原理への従属的融合 unification soumises au principe de plaisir といったものとしてあらわれてしまう》ともあった。
もしこの想定をとれば、③の「強制された運動の機械(タナトス)」のみが、ドゥルーズが死の本能と呼ぶものということになる。この③は、『差異と反復』における《時のなかに永遠回帰を導く死の本能 l'instinct de mort の形式》だろう。
①部分対象の機械(欲動)+②共鳴の機械(エロス)が上辺とすれば(ラカン的には象徴界)、③強制された運動の機械(タナトス・死の本能)が、下辺(現実界)ということになる筈である。
① 部分対象の機械(欲動)+② 共鳴の機械(エロス)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
③ 強制された運動の機械(純粋状態のタナトス・死の本能)
もちろんこれは、ドゥルーズの1967年から1970年のあいだの考え方の変化がなかったら、とした場合の想定である。
ドゥルーズの《強制された運動の機械》とは、ラカンの現実界にかかわる表現のひとつ、《書かれぬことをやめぬもの ce qui ne cesse de ne pas s'écrire》(Lacan, S.20)に相当するはずである。
上辺の(死の)欲動がエロスの審級と混同されるという観点については、フロイト自身にも、「欲動混淆 Triebvermischung」、あるいは「死の欲動とエロスとの合金化 Legierung von Todestrieb und Eros 」という表現があり、ほぼ同様の考え方とすることができうる。
リビドーによる死の欲動のかかる馴化(飼い馴らし) Bändigung des Todestriebes durch die Libido がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型 Triebvermischung (欲動混淆)がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動のうちどれほどの部分が、リビドー的付加物に拘束することによる馴化を免れているかは、目下のところ推察できない。
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動 Todestrieb ーー原サディズム Ursadismusーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズム erogene Masochismus が残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化 Legierung von Todestrieb und Eros が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲動がふたたび摂取され内面に向けられうる projizierte Sadismus oder Destruktionstrieb wieder introjiziert, nach innen gewendet werden kann のであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』Das ökonomische Problem des Masochismus (1924) フロイト著作集6 pp.303-304からだが一部変更)
そしてドゥルーズの言う③、つまり「死の本能 Instinct de mort 」あるいは「純粋状態のタナトス Thanatos à l'état pur」とは、ひょっとして次のフロイト文にある《以前のある状態を再回復Wiederherstellung しようとするもの》ではなかろうか。
…欲動的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか? ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されていなかったーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーー欲動の特性、おそらくはすべての有機的な生 Leben 一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。
要するに、欲動とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を再回復Wiederherstellung しようとするものであろう。以前の状態とは、生命体 Belebte が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。
また欲動とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的な生における鎮静傾向の表出であるとも言えよう。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
このフロイト文は、ラカンの次の文とともに読むことができる。
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
上の『快原理の彼岸』に典型的にあらわれているフロイトの欲動 Trieb をめぐる表現のいくつかを、攻撃欲動 Aggressionstrieb(あるいは《破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)と同じものと扱うわけにはいかない。それがドゥルーズの言っていることであるだろう。
たとえば次の文を攻撃欲動や破壊欲動、征服欲動と同じものとして読むのは、(それじたいとしては)いささか無理がある。
有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920)
もっともフロイトは後々まで、たとえば次のように言っているわけだが。
攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動 Todestriebes から出たもので、かつその主要代表者である。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』1930年)
さてもうひとつ、ドゥルーズのマゾッホ論1967年に、Todestriebは《本源的に沈黙する essentiellement silencieux 》ものとあったが、これは直接には、『自我とエス』の次の文に由来しているだろう。
死の本能(死の欲動)は本質的に唖であり、生命の騒乱はもっぱらエロスから発するという印象は避けがたい。
…müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind und der Lärm des Lebens meist vom Eros……(フロイト『自我とエス』1923年)
『快原理の彼岸』にも似たような表現がある。
死の欲動Todestriebeは、目立たずにunauffällig その仕事を行うように見える。
Arbeit unauffällig Todestriebe ihre Arbeit unauffällig zu leisten scheinen.(フロイト『快原理の彼岸』1920年、最終章)
この「本質的に唖」であったり、「目立たずにunauffällig その仕事を行う」ものとしてのTodestriebeは、死の欲動ではなく死の本能と呼ぶべきだというのがドゥルーズの捉え方であり、この観点はーーわたくしの知る限り、誰も注目していないようにみえるがーー、ひどく豊かな示唆を今でももっている、と思う。
(以上、そのうちたぶん続く)
…………
※付記
本能と欲動について、ラカン自身は晩年まで次のように言っている。
セミネールⅩⅠの6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Trieb を本能 instinct と訳さないことによって得られるもの、そしてこの欲動 pulsion を漂流(逸脱dérive)と呼び、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』1973年)
ただし上の文にあるように、pulsion という仏語訳には異和があったようだ。同じ時期、次のようにもくり返している。
…私は、欲動 Trieb を翻訳して「漂流 dérive」・享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。…j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20, 08 Mai 1973)
さらに三年後にも、はっきりとpulsionという訳語に異議表明をしている。
人は円環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの以外に、どんな進展もない il n'y a pas de progrès que marqué de la mort. …
それはフロイトが強調したものだ、« trieber »、Trieb という語で。フランス語では pulsionと翻訳される…どうしてか知らないがね je sais pas pourquoi… …la pulsion, la pulsion de mort, もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流(逸脱)」という語はどうだろう…on n'a pas trouvé une meilleure traduction alors qu'il y avait le mot dérive.(S23 16 Mars 1976)