【曖昧なままの原抑圧・超自我】
フロイト・ラカンの両者とも、原抑圧 Urverdrängung 概念ーーすなわちいかに無意識が最初に生じるのかーーについて率直に議論することにひどく気の進まない様子である。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)
ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF)
ラカンは1973年に次のように言っている。
フロイトは、抑圧は禁圧に由来するとは言っていません Freud n'a pas dit que le refoulement provienne de la répression。つまり(イメージで言うと)、去勢はおちんちんをいじくっている子供に今度やったら本当にそれをちょん切ってしまうよと脅かすパパからくるものではないのです。
とはいえ、そこから経験へと出発するという考えがフロイトに浮かんだのはまったく自然なことです-この経験とは、分析的ディスクールのなかで定義されるものをいいます。結局、フロイトは分析的ディスクールのなかで進んでいくにつれて、原抑圧が最初である le refoulement originaire était premier いう考えに傾いていったのです。総体的に言うと、それが第二の局所論の大きな変化です。フロイトが超自我の性格だと言う大食漢 La gourmandise dont il dénote le surmoi は構造的なものであって、文明の結果ではありません。それは「文化の中の居心地の悪さ(症状)« malaise (symptôme) dans la civilisation »」なのです。
ですから抑圧が禁圧を生みだすのだということから試練に立ち戻ることが必要なのです。De sorte qu'il y a lieu de revenir sur l'épreuve, à partir de ce que ce soit le refoulement qui produise la répression. どうして、家族や社会そのものが、抑圧から構築されるべき創造物ではないということがあるでしょうか。まさにそのとおりなのですが、それは無意識が構造、つまり言語によって外-在し、動機づけられることによって可能なのでしょう。(ラカン、テレビジョン、向井雅明試訳、1973、一部変更)
【二種類の原抑圧】
超自我は原抑圧に由来する。おそらくそれは間違いない。だがフロイト派もラカン派も明瞭にそのことを指摘している人は(わたくしの知る限り)いない。その理由は上に見たように、フロイト・ラカン自身が最後まで曖昧なままだった(揺れ動いた)せいだろう。
さらに厄介なのは、ラカンによる原抑圧解釈には二種類あるように見えることだ。
ラカンにとって、言語は無意識に先行する。より具体的に言えば、言語は無意識の完全な構造化に先行する。というのは、どんな隠喩的置換もなしに個人において、原抑圧ーー最初の泣き叫び・音素・言葉の換喩的発声ーーが起こるから。Laplanche とは異なり、ラカンは、本源的なelementary シニフィアン を考えた。その原シニフィアンとは、たんに対立的カップルとしてのシニフィアンでありーー母の不在によって引き起こされたトラウマの原象徴化の試み、フロイトによって描写されたFort–Da(いないないバア)のようなものーー、充分に分節化された言語と共の、厳密な意味での抑圧の平行的可能性は、エディプスコンプレックスの崩壊によってのみ、引き続いてもたらされる。(…)
父性隠喩の出現以前に、言語は(非統合的 nonsyntagmatic 換喩として)既に子どもの要求を疎外するーーしたがって、また何らかの形で抑圧されるーー。しかし、無意識も自己意識もいまだ完全には構造化されていない。原抑圧は、エディプスコンプレックスの崩壊を通してのみ、遡及的(事後的)に、実質上抑圧される。
(……)結局、我々は認めなければならない、ラカンは我々に二つの異なった原抑圧概念を提供していることを。広義に言えば、原抑圧は、原初のフリュストラシオン(欲求不満)ーー「エディプスコンプレックスの三つの時」Les trois temps du complexe d'Oedipe の最初の段階の始まりーーの帰結である。《原抑圧は、欲求が要求のなかに分節化された時の、欲望の疎外に相当する》(E690:摘要)。明瞭化のために、我々はこの種の原抑圧を刻印 inscription と呼びうる。
他方、厳密な意味での原抑圧は、無意識の遡及的形成に相当する。それは(意識的エゴの統合に随伴して)、エディプスコンプレックスの第三の段階の最後に、父性隠喩によって制定される。この意味での原抑圧は、トラウマ的原シニフィアン「母の欲望」の抑圧と、根本幻想の形成化に相当する。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007 PDFーー原抑圧・原固着・原刻印・サントーム)
【二種類の超自我】
原抑圧が二種類あるのなら超自我も二種類あると考えられうる。それがラカンにとっての「母なる超自我」と「父なる超自我」なのではないか。
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症において父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S.5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…
最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)
超自我とは確かに「法」である。しかし鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴・正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「単一」unary のシニフィアンとしての法である。…超自我は、独自のunique シニフィアンから生まれる形跡・パラドックスである。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。(……)
「母なる超自我」( surmoi mère) ……思慮を欠いた法としての超自我は、父の名によって隠喩化され支配される以前の「母の欲望」にひどく近似している。超自我は、法なき気まぐれな勝手放題 capricious whim without law としての母の欲望に似ている。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez、1996,PDF)
【母の法と父の法】
上の文でミレールは「母の法」について語っていると捉えうる。
母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである(Lacan.S5、22 Janvier 1958)
これにより、「父の法」としての超自我と「母の法」としての超自我の二種類があると捉えうる。
ラカンに「父の法 la loi du père」概念はーーわたくしの知る限り--直接にはない。 だが次の文はほぼ「父の名」は「父の法」と言っているようなものである。
父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。(ラカン、ローマ講演、1953)
« C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. »
ーーもっとも前期ラカンであり、この「父の名」の記述をそのまま取ってはならない。父の名の定義は後に大きく変わっていくが、ここではその側面の注釈を割愛する(いくらかの参照としては、「超越的法/超越論的法」を見よ)。
さて以上から、当面次のような図が書ける(ここでは厳密さを期していない)。
※Ⱥ、S(Ⱥ)、そしてS1についてのいくらかの注釈は「前回の図」を参照のこと。
…………
【資料編】
【資料編】
以下、上記の想定をした基礎となる資料を掲げる。
この後バーハウは、フロイトの『制止、症状、不安』から引用しているが、その引用よりもやや長く引用する。
ーーここでフロイトは刺激保護を語るなかでトラウマという語を口にしている。 他方、1926年の論文には、《原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護Reizschutzが破綻するというような量的な契機》とあった。
乳幼児は生誕直後は次のような状況にあるのは明らかである。
さてこの欲動興奮を誰が飼い馴らすのであろうか。幼児の欲動の奔馬に最初に鞍を置くのは誰であろうか。それは実はだれもが知っている(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。
ーーあるいは、「母が行ったり来たりするのは、ありゃ何なんだろ?」を見よ。
…………
いったい誰が欲動を「固着」させるのか。それが父でないのは明らかである。
フロイトにとって、原抑圧の正当的概念化は、メタ心理学的悪夢だった。…
表象が抑圧されるのは、唯一、二つの力が作用するときのみである。すなわち、斥力と引力。難題は後者にある。それはどこから来るのか。ある種の無意識的核・知られていない過程に起源がある「臍」があり、そこからこの引力が発するに違いない。
フロイトは、この無意識的核を生じさせるのは原抑圧の作用であると想定した。しかし「原動因」としてのこの原抑圧は、とても特別なメカニズムを必要とする。なぜなら最初にはどんな引力的核もないから。事実、これが存在するようになるのは原抑圧自体の効果としてでしかあり得ない。したがって唯一可能なメカニズムは、逆備給(カウンター・カセクシス Gegenbesetzung)である。
もし我々が前段で展開した議論に従えば、今の内容を次のように表現しうる。すなわち、「原抑圧は、象徴界にある欠如・現実界が顕現する欠如の境界の上に表象を設立する」と。これが意味するのは、原抑圧は、抑圧というより「固着 fixierung」、事実上「原固着Urfixierung」だということである。つまり現実界の何ものかが、以前の水準に置き残される一方で、最初の展開は「カウンター表象 Gegenvorstellung」として機能する。あたかも穴の周りを循環する洗濯機のように。
驚くことはない、フロイトはこの限定されたメカニズムにあまり満足していなかったことは。1926年に彼は次のように書いている。(ポール・バーハウ1999, DOES THE WOMAN EXIST? PAUL VERHAEGHE, ,PDF)
この後バーハウは、フロイトの『制止、症状、不安』から引用しているが、その引用よりもやや長く引用する。
われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。こういう抑圧の背景や前提については、ほとんど知られていない。また、抑圧のさいの超自我の役割を、高く評価しすぎるという危険におちいりやすい。この場合、超自我の登場が原抑圧と後期抑圧との区別をつくりだすものかどうかということについても、いまのところ、判断が下せない。いずれにしても、最初のーー最も強力なーー不安の襲来は、超自我の分化の行われる以前に起こる。原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護Reizschutzが破綻するというような量的な契機である。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳 P.325、一部変更)
1926年の論文の叙述だが、フロイトはその最晩年まで原抑圧について明瞭なことは言っていない。それは超自我についても同様である。もっとも常に「父」に拘ったフロイトであるにもかかわらず、1923年の『自我とエス』における微妙な表現とともに最晩年の論文にはある種の示唆がある。
まず『自我とエス』には次のようにある。
最初の非常に幼い時代に起こった同一化の効果は、一般的であり、かつ永続的であるにちがいない。このことは、われわれを自我理想の発生につれもどす。というのは、自我理想の背後には個人の最初のもっとも重要な同一化がかくされているからであり、その同一化は個人の原始時代、すなわち幼年時代における父との同一化である(註)。(フロイト『自我とエス』旧訳p.278、一部変更ーー参照)
註)おそらく、両親との同一化といったほうがもっと慎重のようである。なぜなら父と母は、性の相違、すなわち陰茎の欠如に関して確実に知られる以前は、別なものとしては評価されないからである。……(同『自我とエス』)
そして1939年上梓の論文と死後出版1940年の論文には次のようにある。
超自我は、人生の最初期に個人の行動を監督した彼の両親(そして教育者)の後継者・代理人である。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
・超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。
・患者が分析家を彼の父(あるいは母)の場に置いた時、彼は自らの超自我が自我に行使する力能を分析家に付与する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
上に引用した『制止、症状、不安』1926年に「刺激保護Reizschutz」という語彙が出現しているので、ここで『快原理の彼方』(1920年)から、刺激保護をめぐる叙述をも抜き出しておく。
……この敏感な皮膜層、すなわち、後のBw体系(意識体系)は、しかしまた、内部からの刺激をも受け入れるのである。内と外との中間に位するこの体系の位置と、二つの側からくる影響にたいする条件の相違は、この体系と心的装置全体の働きを決定するものになる。外部にたいしては刺激保護 Reizschutz があるので、外界からくる興奮量は小規模にしか作用しないであろう。内部にたいしては刺激保護 Reizschutz は不可能なので、深い層の興奮は直接に、またおなじ規模で体系に伝わるのであるが、そのさいに、ある特性をもった興奮の経過が快・不快の感覚の系列をうみだすのである。むろん内部からくる興奮は、その強度と他の質的な特性(たとえばその振幅によって)、外界から流れ込む刺激よりは体系の働き方に適合しているであろう。しかし、この事情によって二つのことが決定的になる。第一に、装置内部の過程の指針である快・不快の感覚が、あらゆる外的刺激にたいして優位に立つこと、第二に、あまり大きな不快の増加をまねくような内的興奮にたいする反応の方向についてである。刺激保護 Reizschutzes の防衛手段を応用できるように、内部の興奮があたかも外部から作用したかのように取り扱う傾向が生まれてくるであろう。これが病理的過程の原因として、大きな役割が注目されている投射 Projektion の由来である。
私は以上の考察によって、快感原則の支配について理解を深めたと思っているが、しかし、快感原則に矛盾する場合を解明するにはいたっていない。それゆえ、われわれは一歩前進しよう。外部から来て、刺激保護 Reizschutz を突破するほど強力な興奮を、われわれは外傷性 traumatische のものとよぶ。思うに、外傷 Traumas の概念は、平生は有効な刺激阻止にたいする、以上のような関係を含むべきものである。外部からくる外傷のような出来事は、たしかに有機体のエネルギーの運営に大規模な障碍をひき起こし、あらゆる防衛手段を活動させるであろう。しかし、そのさい快感原則は無力にされている。他方、心的装置に充満した巨大な刺激量は、押し戻すことができない。むしろ刺激をとらえて料理し、侵入した刺激量を心理的に拘束し、そのうえでそれを除去するという別個の課題が生れるのである。(フロイト『快感原則の彼方』1920年、p167)
ーーここでフロイトは刺激保護を語るなかでトラウマという語を口にしている。 他方、1926年の論文には、《原抑圧の手近な誘引として、もっともあり得ると思われることは、興奮が強すぎて刺激保護Reizschutzが破綻するというような量的な契機》とあった。
乳幼児は生誕直後は次のような状況にあるのは明らかである。
乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部からソマティックに somatically 湧き起る未分化の undifferentiated 欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)
さてこの欲動興奮を誰が飼い馴らすのであろうか。幼児の欲動の奔馬に最初に鞍を置くのは誰であろうか。それは実はだれもが知っている(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。
享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死を徴付ける marqué pour la mort ものとしてもよい。その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)
フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungszwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
ーーあるいは、「母が行ったり来たりするのは、ありゃ何なんだろ?」を見よ。
…………
「原抑圧」とは、熱心なフロイト読みであったドゥルーズが、1968年に既に指摘しているが、「抑圧」という表現から誤解をもたらしがちである。だが本来は(上に引用したロレンツォやバーハウの叙述にあったように)原固着、原刻印とでも呼ぶべきものである。
エロスとタナトスは、次ののように区別される。すなわち、エロスは、反復されるべきものであり、反復のなかでしか生きられないものであるのに対して、(超越論的的原理 principe transcendantal としての)タナトスは、エロスに反復を与えるものであり、エロスを反復に服従させるものである。唯一このような観点のみが、反復の起源・性質・原因、そして反復が負っている厳密な用語という曖昧な問題において、我々を前進させてくれる。なぜならフロイトが、表象にかかわる"正式の"抑圧の彼方に au-delà du refoulement、「原抑圧 refoulement originaire」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前 présentations pures 、あるいは欲動 pulsions が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じるから。(ドゥルーズ『差異と反復』私訳)
……そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉un refoulement dit « primaire » と考えてしまってはいたのだが。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)
事実、フロイトはまだ原抑圧という概念を提出していない1911年に次のように言っている。
「抑圧」は三つの段階に分けられる。
①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)
②「正式の抑圧(後期抑圧)」の段階は、ーーこの段階は、精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーー実際のところ既に抑圧の第二段階である。(… )
③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、抑圧の失敗、侵入、「抑圧されたものの回帰Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてその点へのリビドー的展開の退行を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911、摘要)
いったい誰が欲動を「固着」させるのか。それが父でないのは明らかである。
誘惑者Verführerinはいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933年)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)
…………
いくらか超自我をめぐって調べているなかで、ミレールによるとても過激で示唆溢れる超自我の定義を見出したので、ここにメモしておく。
父の名とは言語である。そしてさらに、超自我とは言語である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、MILLER Jacques-Alain et Éric Laurent, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthiques, séminaire 96/97)
現在の彼なら、この言語にララング(母の舌語=母語)を含めるだろう。そしてララングによる超自我が「母なる超自我」、言語による超自我が「父なる超自我」として何の奇妙なこともない、とわたくしは思う。
次のGeneviève Morelの叙述は、二つの超自我を考える上で決定的である。
法の病理は、法との最初の遭遇から、主体のなかに生み出される。私がここで法と言っているのは、制度的あるいは司法的な意味ではない。そうではなく、言語と結びついた原初の法である。それは、必然的に、父の法となるのだろうか? いや、それは何よりもまず母の法である(あるいは、母の代役者の法)。そして、ときに、これが唯一の法でありうる。
事実、我々は、この世に出るずっと前から、言語のなかに没入させられている。この理由で、ラカンは我々を「言存在parlêtre」と呼ぶ。というのは、我々は、なによりもまず、我々を欲する者たちの欲望によって「話させられている」からだ。しかしながら、我々はまた、話す存在でもある。
そして、我々は、母の舌語(≒ララング)のなかで、話すことを学ぶ。この言語への没入によって形づくられ、我々は、母の欲望のなかに欲望の根をめぐらせる。そして、話すことやそのスタイルにおいてさえ、母の欲望の刻印、母の享楽の聖痕 stigmata を負っている。これらの徴だけでも、すでに我々の生を条件づけ、ある種の法を構築さえしうる。もしそれらが別の原理で修正されなかったら。( Geneviève Morel ‘Fundamental Phantasy and the Symptom as a Pathology of the Law',2009、PDF)
サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。
これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。
この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School)
超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
この父の法(父なる超自我≒自我理想)によって、人は母の法(母なる超自我)から分離しなくてはならないのである。
〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。
Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)
ここでいささか断定的に記してみよう。
超自我の基盤は「母なる超自我」である。もし父なる超自我に、母なる超自我と同様の《猥褻かつ無慈悲な形象 figure obscène et féroce」》(ラカン)の側面があるなら、それは父なる超自我が母なる超自我の上を覆っており、その残余が「父なる超自我」の非全体の領域に外立するからである。《現実界は、分節化された象徴界の内部(非全体pas-tout)に外立 ex-sistence する。》(Paul Verhaeghe、2001ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
原トラウマ Urtraumaとは 《経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 》(フロイト『制止、症状、不安』) ーーのことである。
超自我は、「父なる超自我 Surmoi paternel」であるどころか、現実界(原トラウマȺ)を仕切る仮面(フロイトの境界表象Grenzvorstellung)、あるいは原超自我 surmoi primordial・原リアルの名 le nom du premier réel・原穴の名 le nom du premier trou としての「母なる超自我 surmoi maternel 」である。
超自我は、「父なる超自我 Surmoi paternel」であるどころか、現実界(原トラウマȺ)を仕切る仮面(フロイトの境界表象Grenzvorstellung)、あるいは原超自我 surmoi primordial・原リアルの名 le nom du premier réel・原穴の名 le nom du premier trou としての「母なる超自我 surmoi maternel 」である。
超自我とは、現実界のトラウマ的中核からその昇華によって我々を保護してくれるものであるどころか、超自我そのものが、現実界を仕切る仮面なのである。(ZIZEK"LESS THAN NOTHING、2012ーーー自我理想と超自我の相違(基本版))
以下の文も、ここでの想定の依拠となるわたくしのベースのひとつである。
…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事 un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012)
※参照:S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un
…………
【付記】
初期ジジェクの「母なる超自我」をめぐる叙述を掲げておこう。
父親は不在で、父の機能(平和をもたらす法の機能、「父の名」)は中止され、その穴は「非合理的な」母なる超自我によって埋められる。母なる超自我 maternal superego は恣意的で、邪悪で、「正常な」性関係(これは父性隠喩の記号の下でのみ可能である)を妨害する。(……)父性的自我理想 paternal ego-ideal が不十分なために法が獰猛な母なる超自我 ferocious maternal superego へと「退行」し、性的享楽に影響を及ぼす。これは病的ナルシシズムのリピドー構造の決定的特徴である。「母親にたいする彼らの無意識的印象は重視されすぎ、攻撃欲動につよく影響されているし、母親の配慮の質は子どもの必要とほとんど噛み合っていないために、子どもの幻想において、母親は貪り食う鳥としてあらわれるのである」(Christopher Lasch)(ジジェク『斜めから見る』原著1991年)
ここでジジェクは「父の名」を、父性的自我理想とし、「母なる超自我」を前エディプス的超自我としている。
ポール・バーハウ2004の倒錯臨床をめぐる叙述における「母なる超自我」をもかかげる。
倒錯者の不安は、エディプス不安、つまり去勢を施そうとする父についての不安としてしばしば解釈されるが、これは間違っている。不安は、母なる超自我にかかわる。彼を支配しているのは最初の〈他者〉である。そして倒錯者のシナリオは、明らかにこの状況の反転を狙っている。
これが、「父の」超自我を基盤とした行動療法が、ふつうは失敗してしまう主要な理由である。それらは見当違いであり、すなわち、倒錯者の母なる超自我へと呼びかけていない。不安は、はるかな底に横たわっており、〈他者〉に貪り食われるという精神病的な不安に近似している。父の法の押し付けに対する反作用は、しばしば攻撃性発露である。(ポール・バーハウ2004、Paul Verhaeghe、On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics)
この記述からも明らかに、父なる超自我は「エディプス的超自我」、母なる超自我は「前エディプス的超自我」とすることができる。
【追記】
ここまでの記述では、フロイト・ラカンの教えの核心のひとつ「遡及性(事後性)」に触れていないのでここに付記しておく。
潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)
次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。
なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)
これがラカンが後に、「原初 primaire は最初 premier のことではない」(S20,「アンコール」)と言った意味である。すなわち原トラウマは、原抑圧(原固着)によって遡及的 rétroactivement に構成されて現勢化する。