2017年3月13日月曜日

母が行ったり来たりするのは、ありゃ何なんだろ?

藝術家たちは自由について語りすぎる。「鳥のように自由に」という言葉を思い出したモートン・フェルドマンは、ある日公園に行って、しばらく鳥たちを見ていた。戻って来ると彼は言った。「知ってるか? 鳥は自由なんかじゃないんだ。エサを奪いあってる。」(ジョン・ケージ)

わたくしは最近ますます、ドゥルーズ&ガタリの「欲望機械」というのはとんでもない「寝言」だと考えるようになった。

ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している。欲望機械 Les machines désirantes は、私たちに有機体を与える。ところが、この生産の真っ只中で、この生産そのものにおいて、身体は組織される〔有機化される〕ことに苦しみ、つまり別の組織をもたないことを苦しんでいる。いっそ、組織などないほうがいいのだ。こうして過程の最中に、第三の契機として「不可解な、直立状態の停止」がやってくる。そこには、「口もない。舌もない。歯もない。喉もない。食道もない。胃もない。腹もない。肛門もないPas de bouche. Pas de Io.Hgue. Pas de dents. Pas de larynx. Pas d'œsophage. Pas d'estomac. Pas de ventre. Pas d'anus. 」。もろもろの自動機械装置は停止して、それらが分節していた非有機体的な塊を出現させる。この器官なき充実身体 Le corps plein sans organes は、非生産的なもの、不毛なものであり、発生してきたものではなくて始めからあったもの、消費しえないものである。アントナン・アルトーは、いかなる形式も、いかなる形象もなしに存在していたとき、これを発見したのだ。死の本能Instinct de mort 、これがこの身体の名前である。(『アンチ・オイディプス』)

とくに、《ある純粋な流体 un pur fluide à l'état libre が、自由状態で、途切れることなく、ひとつの充実人体 un corps plein の上を滑走している》などとはひどく耐え難い。

こういう言葉に踊って来た、そしてなかには今でも踊ろうとしている「現代思想」バカをみると殴ってやりたくなる。そして「オマエ、はやいとこシネよ」と呟くことになる。

こっちのほうがずーっとましである。

・ああ私の頭にはプロレタリアもブルジュアもない。たった一握りの白い握り飯が食べたいのだ。

・金が欲しい。白い御飯にサクサクと歯切れのいい沢庵でもそえて食べたら云う事はありませんのに、貧乏をすると赤ん坊のようになります。(林芙美子『放浪記』)

ま、次の文だって悪くない。

自由とは、究極的に「死を選ぶ自由」以外の何ものでもない。(バゾリーニ)
自由か命か! « La liberté ou la vie » 自由を選ぶなら、即座に両方を失う。命を選ぶなら、自由を剥奪された生がある。

自由とは、選択する自由 la liberté du choix があるのを示すことだ。…それは(究極的に)、死への自由だ c'est la liberté de mourir. (ラカン,S.11)

…………

乳幼児の動因は「興奮」に直面してのサバイバルである。興奮とは、乳児自身の身体内部からソマティックに somatically 湧き起る未分化の undifferentiated 欲動緊張との遭遇として記述しうる。(ポール・バーハウ2009、PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

フロイトの「性的」というシニフィアンは必ずしも通常の意味での「性的」ではない。「欲動的」ということのほうがより正しい。

「欲動」という名のもとにわれわれが理解することができるのは、さしあたり、休むことなく流れている、ソマティックな(体内的な)刺激源 innersomatischen Reizquelle の心的表象のなにもにでもない。(フロイト『性欲論三篇』1905)

以下の文に、「性欲動興奮 Erregung des Sexualtriebes」という言葉が出現するが。最も原初的には「お腹が減った」等の欲求興奮のことである。

私は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛 infantilen Sexualität の源泉に関してこう主張した。性的興奮 Sexualerregung は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮 Erregung des Sexualtriebes のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮Schmerz- und Unlusterregung もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張 Schmerz- und Unlustspannung におけるこうした随伴的リピドー興奮 libidinöse Miterregung は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズム erogener Masochismus というものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。

(多細胞)生物のなかでリビドーは、そこでは支配的なものである死の欲動あるいは破壊の欲動 Destruktionstrieb に敵対する。この欲動は、細胞体を崩壊させ、個々一切の有機体を無機的安定状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ移行させようとする。リビドーはこの破壊欲動を無害なものにするという課題を持ち、そのため、この欲動の大部分を、ある特殊な器官系すなわち筋肉を用いてすぐさま外部に導き、外界の諸対象へと向かわせる。

それが破壊欲動 Destruktionstrieb とか征服欲動 Bemächtigungstrieb とか権力への意志 Wille zur Macht とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能 Sexualfunktion に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性的興奮によってそこにリビドー的に拘束されるlibidinös gebunden。これが原初的な、性愛的マゾヒズムMasochismus zu erkennenである。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924年)

とはいえ、この文は後期フロイトの核心である別のことも書かれている。

・死への迂回路 Umwege zum Tode は、保守的な欲動によって忠実にまもられ、今日われわれに生命現象の姿を示している。

・有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)

《死への道 le chemin vers la mort は、享楽 jouissance と呼ばれるもの以外の何ものでもない。》(ラカン、S.17)

これらはある意味当たり前のことである。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。

ーービシャ(フーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

ーーリルケ「ドウイノの悲歌」より

ただある種の人たち、そのなかでもとくにある年代層の人たちはほとんど気づいていないだけだ。



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

《昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。  》(リルケ『マルテの手記』)

 …………

以下、欲動メカニズムとそれにかかわる「母の欲望」と言われるものの標準版解釈を掲げておく。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ラカン派ではこのように語られることが多いが、この「原リアルの名」、「原穴の名」としての母の欲望というのは、簡単にいえば幼児にとって行ったり来たりするわけのわからない存在からもたらされる当惑、あるいは「寄る辺なさ」の感覚のことである。

経験された無力の(寄る辺なき)状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ (フロイト『制止、症状、不安』1926年)

《母が行ったり来たりするのは何なんだろ? Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?》(ラカン、セミネール5)

ようは呼んでもやってこなかったり、呼ばないときにやってくる不気味な存在ーーそれにもかかわらず「生死」にかかわる必要不可欠な存在ーーへの不安感覚である。《(構造化されていない)不安、その鋭い切り傷 L'angoisse c'est cette coupure même》(ラカン、s10)、ーーこれをȺの原初的出現と呼ぶ。

これが我々の原トラウマである。

我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ーーこの文に出現する「性関係はない」は、柄谷行人=マルクスの「社会的なもの」に入れ替えても何の問題もない。

フロイトは、世界宗教を「抑圧されたものの回帰」とみなす。私はそれに同意する。しかし、抑圧されたものは「原父」のようなものではなく、いわば「社会的なもの」である。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

社会的なもの、それは、《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷『マルクスその可能性の中心』)であり、非対称的なコミュニケーション関係の起源は母子関係である。すなわち、マルクスの「社会的なもの」とは、ラカンの非全体 pas-tout の定義と(ほぼ)等価である(コミュニケーションの「非全体関係」とは、マルクスの社会的なもの、すなわち「社会的非関係」である)。

そして、「非全体pas-tout」とはȺ、あるいは〈女〉のことでもある。

《真理はすでに女である。真理はすべてではない(非全体)のだから。la vérité est femme déjà de n'être pas toute》(Lacan,Télévision,1973,AE540)

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

さて以下、母の欲望と欲動機制の標準版解釈。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子どもの)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa 2007)
欲動の緊張に対処しようとするなか、子供は、最初の〈他者〉に訴えかける。母はこの訴えかけを要求として解釈するが、それは、彼女自身の部分欲動に向けた自己の立場を元にして、なされる。こうして、自己の欲望を含んだ答えを編みだす。結果として、子供はこの〈他者〉によって現わされたイメージに自己自身を同一化する。すなわち、自己の興奮への応答を受け取るために、〈他者〉の欲望に同一化することになる。

簡単な例をあげよう。子供の泣き叫びは、食べ物への要求として、最初の〈他者〉により解釈される。その結果、子どもは、ただ食べなければならないのではなく、この〈母〉の解釈を元にして、自分自身の興奮を食べ物の欠如として解釈することを余儀なくされる。

この解釈とともに、最初の〈他者〉は彼女自身の欲望を表現するのだが、もし子供は自身の欲動の応答を受け取りたいならば、その〈母〉の欲望に服従しなければならない。他者が子供の欲求に応答する責任をもつという原初的な相互関係と比較して、われわれはここにふたたび驚くべき逆転に出逢う。自己の欠如の応答を得るためには、子供は〈他者〉の欲望に従いつつ、己れの手本にしなければならない。〈他者〉の欲望に同一化しなくてはならないのだ。これ以降、主体は〈他者〉の欲望に応答する責任をもつ。そして主体と〈他者〉の欲望の相違は曖昧になる。すなわち、主体の欲望は〈他者〉の欲望である。

主体は、己のa(対象a)の完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母なる他者(m)other を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(ポール・バーハウ2005,Paul Verhaeghe、Sexuality in the Formation of the Subject、2005,私訳、PDF
注)これは、神経症におけるエディプスについてのより大きなラカン理論のなかで、理解されなければならない。ラカンにとって、エディプス構造は、隠喩として機能する。子供に意味される(シニフィエされる signified )最初のシニフィアンは、「母の欲望」にかかわる。それは、子供によって経験された興奮の、母の反応である。この母の欲望に応えるために、子供は、母の欲望に自らを全的に同一化したい。そのことは、自身の応答を、失敗として経験することになる。というのは、母なる他者 (m)other の不在/現前は、謎のままだから。同時に、自分自身の衝動は解決されないままだ。ここにおいて、父の名がゲームに参入する。謎めいた母の欲望への応答として。

父の名の導入は、子供が母の欲望に(あるいは逆に母が子供に)応答しなければならない状況に終止符を打つ。その意味は、解決されない欲動衝動が、ふたたび顕著になるということだ。エディプスの支配は、ファルスのシニフィアンを通して、これらの衝動を象徴化する。結果として、子供は欲望の弁証法に導かれる。ラカンにおいて強調点が置かれるのは、シニフィアンとしてのファルスが、主体による解釈に依拠するという事実である。もし、ファルスが象徴的な形で解釈されたなら、自分自身の欲望の創造が可能となる。逆に主体が想像的ポジション内部に嵌まり込んだままの場合、ファルスを持つ/ファルスになるという反応をもたらす。(同上、バーハウ2005)