2017年3月12日日曜日

超自我による集団神経症

私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです」にて、いくらか柄谷行人の最近の考え方を見た。ここでは過去の書や発言から引用してみる。

……フロイトは、ユダヤ人であろうと、ゲルマン人であろうと、彼らから共同体の宗教を奪ったのが「モーゼの一神教」だというのだ。そして、一方で、彼はそれを集団神経症として解体しようとする。だが、他方で、彼はそれを肯定しようとする。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年、第三部「世界宗教をめぐって」第二章「ユダヤ的なもの」)
……『人間モーゼと一神教』におけるフロイトは、すべての宗教を集団神経症とみるだけでなく、さらに、そのようにみる彼自身の、あるいは精神分析の立場そのものがどこからきたかを問うている。いいかえれば、「ユダヤ的であること」がどこからきたかを問うている。フロイトの考えでは、いうまでもなく、それは偶像崇拝を禁止した人間モーゼからきたのだ。(……)

フロイトはいう。《ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです》(「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)。

この「ユダヤ人」は、フロイトにとって、ユダヤ教やユダヤ人の共同体を意味していない。それは、いかなる共同体の偏見(偶像)をも拒否し、したがってそこから排斥されざるをえない在り方のことである。つまり、「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである。むろん、それを「ユダヤ的」という固有名詞で呼ばねばならないわけではない。しかし。そのような在り方が、たとえばモーゼの「偶像崇拝の禁止」において典型的に開示されたことは疑いがない。なぜなら、それはいかなる共同体の神々に即くことをも禁じているからである。フロイトが固執するモーゼは、そのようなモーゼであって、ユダヤ人に儀礼や戒律を与えたモーゼではない。あるいは、外国人(他者)としてのモーゼであって、「民族の英雄」としてのモーゼではない。フロイトはユダヤ民族のアイデンティティ(選民としての)を否定するが、ただ「ユダヤ的であること」のアイデンティティは確保しようとするのである。

しかし、フロイトがモーゼに異様にこだわったのは、「精神分析」そのものがそのような在り方であり運動だったからである。事実フロイトは、精神分析をたんに治療法としてではなく世界的な思想運動とみなしている。ある意味で、彼はモーゼのように運動を創始しモーゼのようにふるまったのである。(同上、『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」)

ーーとてもすぐれた指摘である。そしてフロイトの引用文も徹底的に美しい。

ところで、柄谷行人の「憲法九条を超自我のようなもの」とする考え方とはーー好意的にとればーー、意図的な集団神経症運動(世界共和国運動)ではないだろうか。

柄谷:「憲法の無意識」で九条をカントの平和論との結びつきで考えましたが、さらにアウグスティヌスの「神の国」を受け継ぐものです。ローマ帝国の下で諸国家が共存している。

スピノザもルソーも、近代国家を都市国家(ポリス)に基づいて考えているので平和は不可能です。(柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」2016(「文学界」7月号) 
各地の運動が国連を介することによって連動する。たとえば、日本の中で、憲法九条を実現し、軍備を放棄するように運動するとします。そして、その決定を国連で公表する。(……)そうなると、国連も変わり、各国もそれによって変わる。というふうに、一国内の対抗運動が、他の国の対抗運動から、孤立・分断させられることなしに連帯することができる。僕が「世界同時革命」というのは、そういうイメージです。(柄谷行人『「世界史の構造」を読む』2011年ーー「帝国」と「帝国主義」の相違

運動を起こそうと思えば、どんな偉大な思想家でも、集団神経症狙いになるのである・・・それはフロイトの「精神分析運動」、柄谷行人のNAM運動がそうであったように・・・

…………

次に約20年前の柄谷行人の超自我の捉え方である。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)

まず『文化への不満』(新訳名『文化の中の居心地の悪さ』から引用してみよう(以下の文は、この論文の結論箇所である)。

・ある文化時期 Kulturepoche が持っている超自我 Über-Ich は、個々の人間の超自我と似通ったものである。

・文化の超自我 Kultur-Über-Ich も個々の人間の超自我とまったく同じく、厳しい理想要求を掲げており、それを守らないと「良心の不安 Gewissensangst 」という形で懲罰が下る。

・文化の発展と個々の人間の発展のあいだにこれほど広範囲な類似が見られるとすれば、文化ないし文化時期のあるもの、場合によっては全人類が、文化努力の影響によって「神経症」になっていると診断してもよいのではないか。(フロイト『文化への不満』)

あえて黒字強調をしたが、とくに意図はない・・・

…………

なにはともあれ柄谷行人曰くの《文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったもの》とは、すこぶる正統的な見解である。

ここではまずニーチェを先に引用しておこう。

敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 P98)

そしてフロイトである。

人は通常、最初に倫理的要請があり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明のままである。実際はその反対に進行するように思われる。最初の欲動断念は、外部の力によって強制されたものであり、この欲動断念がはじめて倫理性を生み出し、それが良心というかたちで表現され、欲動断念をさらに求めるのである。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924、旧訳pp.308-309、一部変更)
超自我が持っていると考えられる攻撃エネルギーについて二つの考え方があって、それはただ優位に立つ外部の他者の懲罰エネルギーを継続し心理生活のために保存しているにすぎないという考え方に対し、他方では、それはむしろ、自分自身の攻撃エネルギーで、この自分の欲動満足を制止する優位に立つ他者に向けられたものの使用されずに終わったものだという考え方がある。(…結局)、罪責感に本質的かつ共通な点としては、それが内部へ転位した攻撃欲動であるということだけが残った。(フロイト『文化への不満』)

ところで、一神教でない日本では、超自我が機能しないという見解がある。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。(……)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)

以下のラカン文の「単一の徴」は自我理想のことでもあるが、ここでは「超自我」として読もう(参照:自我理想と超自我の相違(基本版))。

主体がおのれの基本的同一化として、 単一の徴(一の徴 le trait unaire) にだけではなく、 星座でおおわれた天空にも支えられることは、主体が「おまえ le Tu」によってしか支えられないことを説明する。「おまえ le Tu」によってというのは、 つまり、 あるゆる言表が自らのシニフィエの裡に含む礼儀作法の関係によって変化するようなすべての文法的形態のもとでのみ、主体は支持されるということである。(ラカン「リチュラテール」向井雅明訳 Lituraterre, 1971, in Autres Écrits)

※より詳しくは、 「日本社会において自我理想は正常に機能しない」を参照のこと。

実は柄谷行人もかつて似たようなことを言っているのである。

……思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統御するような権力が成立したことがなかった。それは、明治以後のドイツ化においても実は成立しなかった。戦争期のファシズムにおいてさえ、実際は、ドイツのヒットラーはいうまでもなく、今日のフランスでもミッテラン大統領がもつほどの集権的な権力が成立しなかったし、実はその必要もなかったのである。それは、ここでは、国家と社会の区別が厳密に存在しないということである。逆にいえば、社会に対するものとしての国家も、国家に対するものとしての社会も存在しない。ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。

ところで、それは、もし「国家」を構築的なもの、「社会」を生成的なものとして区別するならば、この国では、構築と生成の区別が厳密に存在しないということを意味する。あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。国学者の本居宣長が、中国的な思考に対して、日本の原理としてとりだしたのは、そうした生成である。しかし、それはニーチェがいうような生成ではない。また、構築のないところで、生成を唱えることには大して意味はない。

日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。フーコーは、精神分析の「抑圧」という概念に反対した。その意味では、日本には「抑圧」とそれが生み出す「主体」はない。しかし、ラカン的にいえば、「排除」があるというべきだろう。すなわち、それは原抑圧の失敗であり、去勢の否認である。日本の言説空間は、外からの原理による去勢を排除してしまった分裂病的な空間であるといえるかもしれない。見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 『ヒューモアとしての唯物論』所収)

※この文は、厳密に言えば、用語遣いの混乱がある。「否認」、「排除」、「分裂病的」等。だが日本の権力構造が、家父長主義 (patriarchalism) ではないーーすなわち自我理想≒超自我は(正常には)機能しないーーという核心は外していない。

さて、この超自我が、すくなくとも正常には機能しがたい日本という国で、なぜ平和憲法が超自我として機能するのだろう。これはわたくしには謎である。

もし解決方法があるなら、自我理想と超自我の相違を吟味するほかない。

ここでは世界的に、超自我は機能しなくなっているというラカン派の見解ーー「20世紀の神経症の時代から21世紀のふつうの精神病の時代へ」(ジャック=アラン・ミレール)ーーがあることのみを示しておこう。これはラカンの「主人の言説から資本家の言説へ」と相同的な観点である(参照:器官なき身体と資本家の言説)。