2017年3月10日金曜日

「私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです」(柄谷行人)

ある意味前回に引き続くが、ここでは直近の柄谷行人の悪評高い「憲法の無意識」をめぐる、おおむね「資料編」である。

まず三つの文を掲げる。

柄谷行人「憲法9条の今日的意義」、2016年1月23日講演
無意識というと一般に、意識されていないという程度の意味で理解されています。あるいは潜在意識と同一視されています。たとえば宣伝などで無意識、潜在意識に働きかけるサブリミナル効果を狙うことがあります。先ほどもいわれたように何べんも繰り返していると人はだんだんと受けとるようになるんだとかそういう意味です。しかし、フロイトはそのようなものを前意識と呼んで、無意識とは区別したんです。ただフロイトがいう無意識にも二つの種類があります。一つはエスというもので、「それ」ということで、名づけようのないものを指しているわけです。もう一つは超自我です。私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです。このような無意識の超自我は、意識とは異なって、説得や宣伝によって操作することができないものです。現に保守派の60年以上にわたる努力は徒労に終わっています。いくら彼らが9条は非現実的な理想主義であると訴えたところで無駄です。9条は無意識の次元に根ざすものだから、説得不可能なんです。意識的な次元であれば説得はできますけど。ただし、このことを理解していないのは護憲派も同様です。憲法9条は、護憲派が啓蒙することによって続いてきたのではありません。9条は護憲派によって守られているのではない。その逆に護憲派こそ憲法9条によって守られている。私はそれを皮肉でいっているわけではありません。ただたんに安心してよいといっているんです。そしてその上で何をすべきか、何をなしうるかを考え直してほしいのです。


9条の根源~哲学者・柄谷行人さん、2016.6.14、朝日新聞
◆-3 なぜ9条は変えられないといえるのですか。

 ◇-3 「9条は日本人の意識の問題ではなく,無意識の問題だからです。無意識というと通常は潜在意識のようなものと混同されます。潜在意識は単に意識されないものであり,宣伝その他の操作によって変えることができます」。

 「それに対して,私がいう無意識はフロイトが『超自我』と呼ぶものですが,それは状況の変化によって変わることはないし,宣伝や教育その他の意識的な操作によって変えることもできません。フロイトは超自我について,外に向けられた攻撃性が内に向けられたときに生じるといっています」。

 「超自我は,内にある死の欲動が,外に向けられて攻撃欲動に転じたあと,さらに内に向けられたときに生じる。つまり,外から来たようにみえるけれども,内から来るのです。その意味で,日本人の超自我は,戦争の後,憲法9条として形成されたといえます」。


◆インタビュー・柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」2016(「文学界」7月号) 
編集部:「憲法の無意識」で驚いたのは、憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示されたことです。

 柄谷:マッカーサーは天皇制の維持を重視していたが、ソ連や連合国だけでなくアメリカ国内でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。彼らを説得する切り札として戦争放棄条項を必要とした。

今は(国民の無意識に根を下ろしている)九条の方が重要であるが、その有力な後援者が一条の(今上)天皇・皇后である。

 編集部:・・・つまり、天皇が国民の無意識を代弁している・・・。
 柄谷:現行憲法の先行形態を明治憲法とすることが多いが、むしろ徳川体制と考えるべき。・・・それを一言で「徳川の平和」と呼んでよい。

編集部:徳川の体制とは、非軍事化(大阪の陣後の元和偃武)と象徴天皇制ですね。天皇をそのまま祭り上げて(象徴に限定した)。
柄谷:徳川体制は戦国時代に事実上消滅していた身分制を復活させた反動ではあったが、明治のような開国なら、徳川の鎖国の方がましです。

丸山真男は戦後を第二の開国と言いましたが、鎖国の回復が入らないと真の開国にはならない。第三の開国が必要で、それは憲法九条を実行することです。
柄谷:九条があるだけでは意味がない。文字通り実行するべきである。国連の常任理事国になりたければ、国連総会で九条を実行すると宣言すればよい。常任理事国が反対しても国連総会で承認されるでしょう。
柄谷:「憲法の無意識」で九条をカントの平和論との結びつきで考えましたが、さらにアウグスティヌスの「神の国」を受け継ぐものです。ローマ帝国の下で諸国家が共存している。

スピノザもルソーも、近代国家を都市国家(ポリス)に基づいて考えているので平和は不可能です。

…………

冒頭に「悪評高い」とは、たとえば次のような見解があり、多くの、いわゆるインテリが似たような感慨を抱いているように見受けられるからである。

東浩紀@hazuma

「憲法の無意識」とか、かなりまずい内容だよ。まあぼくもいままで言っていなかったけど。(2016年10月02日)
小谷野敦2016年5月14日

蓮實重彦や浅田彰と違って、岩波=朝日文化人に堕落した柄谷が、九条護憲論を語っているように見える。  ところで柄谷はかつて、岸田秀を「インチキ精神分析」と読んだが、ここで柄谷自身が胡乱な精神分析を語っている。フロイトを持ち出してはいるが、「集合的無意識」を語る点で、「黒船による強姦」説を唱えた岸田と同じ、ユングになってしまっているのだ。  

九条と一条が結び付いているという指摘だけはかろうじて柄谷らしいところだが、「徳川の平和」(芳賀徹)を持ち出したりするのでは、岸田秀と同じではないか。さらに、九条改憲を言いだせばその政党は選挙で負けると言うが、それは具体的事例がない。むしろ改憲を党是とする自民党が相対的に勝ち続けて来た。改憲がなされなかったのは、それが衆参両院で三分の二以上の議員による発議を必要とし、かつ国民投票が必要だというハードルの高さゆえであり、国民の間の、自身や家族が兵隊にとられるという恐怖心のゆえであろう。そして柄谷は、梅原猛に似て来たようにも見える。 この論法で言えば、天皇制が廃止されないのも国民の無意識で、象徴天皇制は徳川時代の天皇と似ているという話にすらなるのである。

ここで、小谷野敦氏の「集合的無意識」をめぐる見解のみを吟味するための文献を提示する。

小谷野氏はフロイトもまともに読まずーーたとえば彼が、フロイトの代表作のひとつ、『集団心理学と自我の分析』を読んでいればこのような「寝言」をいうはずはないーー、もちろんラカン的観点はまったく知らずに、上のように批判しているように見える。しかもすこし前の柄谷の言明さえも読んでいないか忘却しているかだろう。

もちろん、これは小谷野氏には限らない、ほどよく聡明な=凡庸な書き手が席捲している現在の批評とはおおむねこんなものである、《まぁ、 世界というのはその程度のものだと思います》(蓮實重彦)。とくに自らの専門分野外に口出ししようとすると覿面にそうなる。

ここでジジェクによる珍しい罵倒(彼はおおむね巷間の凡庸な批判を無視しているのだが)、ジョン・グレイ批判を掲げよう。現在の批評とはこの程度のものだということを示すために。

あなたは、あなたが批評しているところの著作がどのようなものであるかを全く無視している。あなたは論争の道筋を再構成する試みを全く放棄している。その代わりに、曖昧模糊とした教科書的な通則やら、著者の立場の粗雑な歪曲、漠然とした類推、その他諸々を一緒くたにして放り投げ、そして自身の個人的な従事を論証するために、そのような深遠に見せかけた挑発的な気の利いたジョークのガラクタに、道義的な義憤というスパイスを加えているのだ(「見ろ!あの著者は新たなホロコーストを主張しているみたいだぞ!」といったように)。真実など、ここでは重要ではない。重要なのは影響力である。これこそ今日のファストフード的な知的消費者が望んでいたものだ。道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式である。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせるのだ。(スラヴォイ・ジジェク:彼の批判に応答して)

ーーこれはジョン・グレイの『LESS THAN NOTHING』 (ジジェク 2012)『Living in the End Times』(同)の書評「The Violent Visions of Slavoj Žižek」(John Gray)に対するジジェクの反論の断片である。

ジョン・グレイ(1948~)は、イギリスの政治哲学者であり、オックスフォード大学教授を経て、現在、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス名誉教授。1949年生れのジジェクと同世代ということになる。

グレイの著作は、バラードなどにも賞賛されたことがある。

《Gray’s work has been praised by, amongst others, the novelists J. G. Ballard, Will Self and John Banville,etc》(Wikepedia)

だがジジェクの反論は明らかに正しい。このそれなりに名高い政治哲学者のジジェク批判は、ジジェクの著書をまともに読んでさえいなくて書かれており、まさに「ファストフード的な知的消費者」向けのものである。

そして、いま日本のネット界に流通する「批評」などというものはーーほんの僅かの例外を除いて、と一応留保しておこうーーさらにいっそう、ファストフード的な知的消費者が望んでいるもの、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》ものでしかない(書いている本人はそのつもりがなくても)。

なにはともあれ、柄谷行人の言っている集合的無意識は、ユング的なものというより、フロイト、ラカン的なものである。すくなくともある時期の柄谷は間違いなくそうだった。

柄谷行人、日本精神分析再考(講演)(2008)
実際、丸山は『日本の思想』のあと、1972年に「歴史意識の古層」という論文を発表しています。これは『日本の思想』の今あげたような問題、神道とか思想の座標軸がないといった話を、古代に遡行して考えようとしたものです。彼はそれを『古事記』の分析を通して行ないました。そのとき、彼が「古層」に見出したのは、意識的な作為・制作に対して自然的な生成を優位におく思考です。古層とは、一種の集合的な無意識です。しかし、彼は「歴史意識の古層」という概念を、それ以上理論的に裏づけようとしていません。

 一方、その当時流行っていたのは河合隼雄の日本文化論ですね。「母性社会日本の病理」といった本がそうなのですが、この人はユング派ですから、当然集合無意識みたいなものを実在しているかのごとく扱います。そして、このようにいう。《西洋人の場合は、意識の中心に自我が存在し、それによって整合性をもつが、それが心の底にある自己とつながりをもつ。これに対して、日本人のほうは、意識と無意識の境界も定かではなく、意識の構造も、むしろ無意識内に存在する自己を中心として形成されるので、それ自身、中心をもつのかどうかも疑わしいのである》(『母性社会日本の病理』)。

 しかし、私はこのように集合的無意識を何か実在のように扱うことを、疑わしく思います。ある日本人の個人を精神分析することはできますが、「日本人の精神分析」は可能だろうか。可能だとしたら、いかにしてか。ユングの場合、集合無意識という概念をもってくるから、それは可能です。では、フロイトはどうか。彼は集団心理学と個人心理学の関係について非常に慎重に考えています。彼の考えでは個人心理なんてものはない、それはすでにある意味で集団心理だから。彼はまた、個人心理と別に想定されるような集団心理(ル・ボン)のようなものを否定する。では、個人において集団的なものがどのように伝わるのか。それに関しては、どうもはっきりしないのです。例えば、個体発生は系統発生を繰り返すという説をもってきたり、過去の人類の経験が祭式などを通して伝えられる、とか、いろんなことをいうのですが、はっきりしない。

 ところが、ラカンはそのような問題をクリアしたと思います。それは彼が無意識の問題を根本的に言語から考えようとしたからです。言語は集団的なものです。だから、個人は言語の習得を通して、集団的な経験を継承するということができる。つまり、言語の経験から出発すれば、集団心理学と個人心理学の関係という厄介な問題を免れるのです。ラカンは、人が言語を習得することを、ある決定的な飛躍として、つまり、「象徴界」に入ることとしてとらえました。その場合、言語が集団的な経験であり、過去から連綿と受け継がれているとすれば、個人に、集団的なものが存在するということができます。

 このことは、たとえば、日本人あるいは日本文化の特性を見ようとする場合、それを意識あるいは観念のレベルではなく、言語的なレベルで見ればよい、ということを示唆します。もちろん、言語といっても、つぎの点に注意すべきです。たとえば、日本人・日本文化の特徴を、日本語の文法的性格に求める人がいます。日本語には主語がない、だから、日本人には主体がない、というような。しかし、それなら、同じアルタイ系言語である言語をもち、同じ中国の周辺国家である韓国ではどうなのか。不思議なことに、日本文化を言語から考察する論者は、誰もそれを問題にしないのです。

ここで柄谷行人の最後に言っていることをめぐるラカン的観点については、「日本社会において自我理想は正常に機能しない」にいくらかの吟味がある。

柄谷行人の「憲法の無意識」の第一の問題は、超自我と自我理想の機能を混在させていることであるとわたくしは考えているが、それについては今は(長くなるので)触れない(当面のいくらかの参照としては、「「自我理想‐超自我」混淆」を見よ)。

柄谷行人自身、以前は次のように言っている。

憲法九条は、アメリカの占領軍によって強制された。この場合、日本の軍事的復活を抑えるという目的だけでなく、そこにカント以来の[恒久平和の]理念が入っていたことを否定できません。草案を作った人たち(すべてではないとしても)が自国の憲法にそう書き込みたかったものを、日本の憲法に書き込んだのです。(…)日本人はそのような憲法が発布されるとは夢にも思わなかった。日本人が「自発的」に憲法を作っていたなら、九条がないのみならず、多くの点で、明治憲法とあまり変わらないものとなったでしょう。(…)しかし、まさに当時の日本の権力にとって「強制」でしかなかったこの条項は、 その後、日本が独立し、簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです。しかし、死者たちは語りません。この条項が語るのです。それは死者や生き残った日本人の「意志」を超えています。もしそうでなければ(…)こんな条項はとうに廃棄されているはずです。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年)

柄谷は《死者たちは語りません》としている。これはフロイトの「死んだ父」を想起させる。

だがフロイト神話の《死んだ父 père mort》 とは、ラカンによる形式化観点からみれば(S17, 18 Mars 1970)、《構造的作動因子 opérateur structural 》としての《父の機能 la fonction du père》(縫合機能) にかかわり、それは超自我というよりも、よりいっそう「一の徴 trait unaire」(「自我理想」)、あるいは後期ラカン概念「サントーム」にかかわる(参照:「「帝国」と「帝国主義」の相違(柄谷行人、ラカン)」)。

ラカン的ジャーゴンの臭気を我慢するなら、この記事の表題とした「私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです」とは、「私の考えでは、憲法9条はサントームのようなものです」とすれば、問題は少なくなる。

上に柄谷の問題は、超自我と自我理想の区別ができていないこととしたが、フロイト自身、自我理想と超自我を区別しておらず、ラカンというフロイトの最大の解釈者に依拠することがそれほど多いようには見えない柄谷が、その区別ができていなくてもある意味やむえない(精神科医の中井久夫さえその区別をしていない)。

そもそもラカン主流派の首領ジャック=アラン・ミレールでさえ、かつては次のように言っていたのだから。

ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF

ここで自我理想(かつ理想自我)ー超自我ー父の名をめぐる比較的新しい見解を列挙しておく。

フロイトは、主体を倫理的行動に駆り立てる媒体を指すのに、三つの異なる術語を用いている。理想自我 Idealich、自我理想 Ich-Ideal、超自我 Ueberichである。フロイトはこの三つを同一視しがちであり、しばしば「自我理想あるいは理想自我 Ichideal oder Idealich」といった表現を用いているし、『自我とエス』第三章のタイトルは「自我と超自我(自我理想)Das Ich und das Über-Ich (Ichideal」となっている。だがラカンはこの三つを厳密に区別した。(ジジェク『ラカンはこう読め』ーー自我理想と超自我の相違(基本版)) 
ラカンの見解では、超自我 surmoi は自我理想 idéal du moi とはっきりと差別化される必要があるとはいえ、超自我と自我理想は本質的に互いに関連しており、コインの裏表として機能する。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR、Stijn Vanheule,&Paul Verhaeghe ポール・バーハウ, ,2005、PDF)
ラカンは、父の名と超自我はコインの表裏であると教示した。(ジャック=アラン・ミレール2000、The Turin Theory of the subject of the School
一般的には、理想自我は、自我の理想イメージの外部の世界(人間や動物、物)への投影 projection であり、自我理想は、彼の精神に新たな(脱)形成を与える効果をもった別の外部のイメージの取り込み introjection である。言い換えれば、自我理想は、主体に第二次の同一化を提供する新しい地層を自我につけ加える。(……)

注意しなければならないのは、自我理想は、必然的に、理想自我のさらなる投影を作り変えることだ。すなわち、一方で理想自我は論理的には自我理想に先行するが、他方でそれは避けがたく自我理想によって改造される。これがラカンが、フロイトに従って、次のように言った理由である。すなわち、自我理想は理想自我に「形式」を提供すると(セミネールⅠ)。 (ロレンツォ・キエーザ Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness、2007)

これらの見解から、柄谷の「私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです」とは、「私の考えでは、憲法9条は父の名のようなものです」としてもよいかもしれない(だがこれではいっそうラカン的悪臭芬々である・・・)。

ある時期まで、ラカンはフロイトのエディプス理論を立証し増幅あるいは拡張した。彼は、父性隠喩の公式とともに構造主義的用語を以て、子どもが母から解放されるメカニズムを描いたのだが、それは父自身の介入ではなく彼が「父の名 le‐Nom‐du‐Père」と呼ぶところのものによってである。

この概念の宗教的含意(コノテーション)は、大文字の使用によって強調されているようにひどく鮮明であり、ほとんど自動的な嫌悪感をもたらしうる。ラカンの反-母性的見解は、その家父長制の密かな神格化と相俟って実にきわめてカトリック教義を連想させる (Tort, 2000)。もし人がこの嫌悪感をなんとかやり過ごすのなら、この公式にフロイト理論との二つの主要な相違を見出すだろう。…… → 続き.(ポール・バーハウ2009,PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex)

上に敢えて、「憲法9条はサントームのようなもの」としたのは、バーハウのいう意味もあるが、主に次の観点からである。

父の名は単にサントームのひとつの形式にすぎない。父の名は、単に特別安定した結び目の形式にすぎないのだ。(Thomas Svolos、Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant、2008

柄谷行人の『〈戦前〉の思考』(1994年)にはまた、《簡単に変えることができたにもかかわらず、変えられませんでした。それは、大多数の国民の間にあの戦争体験が生きていたからです》ともあった。戦争体験が生きていない世代が大半を占めれば、第九条は変わりうる、と柄谷行人は(1994年時点では)考えていたと捉えうる。

わたくしは第九条護憲派ではあるが(参照:資料:憲法の本音と建て前)。