ただし御覧の通り、基本版であり、柄谷行人の超自我=憲法論を吟味ーーあるいは罵倒ーーするためにはいささか足りないところがある。そんなに急くなよ、そのうちやるから待っておれ! たぶん一年後ぐらいにな。
ジジェクは、自我理想/超自我を、象徴界の審級/現実界の審級のものと区別しているが、ラカンが明瞭にそう語っているわけではない(痕跡はあるが)。
晩年のラカンは次のようなジョークを言っているぐらいである。
私がいまだかつて扱ったことのない唯一のもの、それは超自我だ(笑)
la seule chose dont je n'ai jamais traité, c'est du surmoi [ Rires ] (Lacan、le séminaire XVIII. 10 Mars 1971)
私に教えを促す魔性の力…それは超自我だ。
Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi. (le séminaire XXⅣ 08 Février 1977)
めぼしいラカン注釈者のなかに自我理想/超自我の区別を明瞭に語っている人がいるわけではない(わたくしの知る限り)。
それは主流ラカン派の首領ミレールの次の言葉が表している。
ラカンの教えにおいて「超自我」は謎である。「自我」の批評はとてもよく知られた核心がある一方で、「超自我」の機能についての教えには同等のものは何もない。(ジャック=アラン・ミレールーーTHE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO by Leonardo S. Rodriguez, 1996、PDF)
たとえば相対的にはバカ度が低い柄谷行人が、フロイトのみに依拠して「超自我=憲法九条」についておバカなこと言っても、人は違和を覚えるだけで誰も理論的に反論できない。このように世界はバカ度の高低差のみで構成されていて、それなりの「平和」を保っている。
これがラカンの「大他者の大他者はない」の究極の教えである。たとえばラカン理論という大他者を支える大他者はない。世界はレトリックの華であり、真理などというものはない。柄谷行人が程度の低いレトリックを言っても、とくに問題はない。あれは理論的仮装をした気合い系の話であり、その気合いにわたくしはそれなりに敬意を表している。それが「超自我による集団神経症」で記したことの一側面である。憲法九条を守るために集団神経症戦略に出て何がわるい? 問題は現在の土人の国の民はなかなか集団神経症にならないことである。逆効果になったらタチが悪いということである・・・
オマエさん、相対的バカ度が低いつもりらしいから、自分でやったらどうだい?
いずれにせよこのブログの架空の登場人物「蚊居肢散人」は、いくらか啓蒙されすぎているので、啓蒙の衣装を脱ぎ去るのにかなり手間がかかるのである。
私は相対的にはタワケ débile mental だよ…言わせてもらえば、全世界の連中と同様にタワケだな。というのは、たぶん私は、いささか啓蒙されている une petite lumière からな(ラカン、S.24,17 Mai 1977)