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2017年2月23日木曜日

S(Ⱥ) =サントーム Σ= 原抑圧=Y'a d'l'Un

【S(Ⱥ) =サントーム】
サントーム(症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
我々が……ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


【サントーム=原抑圧】
四番目の用語(サントーム)にはどんな根源的還元もない、それは分析自体においてさえである。というのは、フロイトが…どんな方法でかは知られていないが…言い得たから。すなわち原抑圧 Urverdrängung があると。決して取り消せない抑圧である。この穴を包含しているのがまさに象徴界の特性である。そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。

Il n'y a aucune réduction radicale du quatrième terme. C'est-à-dire que même l'analyse, puisque FREUD… on ne sait pas par quelle voie …a pu l'énoncer : il y a une Urverdrängung, il y a un refoulement qui n'est jamais annulé. Il est de la nature même du Symbolique de comporter ce trou, et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
「一」と「享楽」との関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

Je le suppose, c'est que cette connexion du Un et de la jouissance est fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Cours)

ここでミレールが「固着」と呼んでいるものは、原固着、すなわち原抑圧のことである。

原抑圧 Urverdrängung は、まず何よりもまず「原固着Urfixierung」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。 それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。これに基づいて、フロイトは、システム無意識 System Unbewußt (Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して引力を行使する。(ポール・バーハウ、2001、Beyond Gender. From Subject to Drive
れわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり欲動の心理的(表象的)な代理 (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識の中に入り込むのを拒否するという、第一期の抑圧を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixierung が行われる。というのは、その代表はそれ以後不変のまま存続し、これに欲動が結びつくのである。(フロイト『抑圧』1915)


【サントーム= Y'a d'l'Un】
サントーム……それはYadlunと等価である。

Si je veux inscrire le Sinthome comme un point d'arrivée de la clinique de Lacan, je l'ai déjà identifié à ce titre, une fois que Lacan a émis son Yadlun, .(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Coursーー「一の徴」日記⑤)
ラカンがセミネールXX (Encore)で展開した Y a d'l'Un の「一」 l'Un(「一」のような何かがある)は、一連の「一」の諸シニフィアンといかに関係があるのか。それは、ファルス的主人のシニフィアンphallic Master‐Signifierを通しての統一化に先行しているものだ。ーーS1 (S1 (S1 (S1…)))という一連の無限的自己分割(……)。

どうだろう、ラカンの Y a d'l'Un を、(いくつかの「一」の上に)欲動を構成する最低限のリビドー的固着の式として読むのなら? プレ出来事的な「一」のない多数性から欲動の出現の瞬間として、である。そうであるなら、この「一」は、サントーム、「享楽の原子atom of enjoyment」、言語と享楽の最低限の統合である。享楽に浸透された記号の一単位(我々が強迫的に反復するチック〔痙攣〕のようなもの)である。そのような「一」は、享楽の微粒子、最も微細で本源的な袋 packages ではないか?(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

(ラカン、S20,26 Juin 1973)


【原抑圧=S(Ⱥ)】
原抑圧は、S(Ⱥ)にかかわる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
原抑圧とは、現実界のなかに〈女〉を置き残すことと理解されうる。

原防衛は、穴 Ⱥ を覆い隠すこと・裂け目を埋め合わせることを目指す。この防衛・原抑圧はまずなによりも境界構造、欠如の縁に位置する表象によって実現される。

この表象は、《抑圧された素材の最初のシンボル》(Freud,Draft K)となる。そして最初の代替シニフィアンS(Ⱥ)によって覆われる。(PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973ーー神と女をめぐる「思索」)

…………

こうして次の二図の相同性が判然とする。


(PAUL VERHAEGHE、1999)



ラカンは「一の徴 trait unaire」を熟慮した後、S1(主人のシニフィアン)というマテームを発明した。S1 は「一の徴」よりも一般的なマテームである。しかし疑いなく、S1 の価値のひとつは「一の徴」である。(Jacques-Alain Miller、The Axiom of the Fantasmーー「一の徴」日記⑤)
「一の徴 trait unaire」は「Y a d'l'Un」とは関係がない。…「一の徴」は反復自体の徴である。(ラカン、S.19、10 Mai 1972)

ようするにラカンの上の図、S1 (S1 (S1 (S1…)))の最初の(左端の)S1とは、Y a d'l'Un、あるいは S(Ⱥ)である。二番目以降のS1が「一の徴 trait unaire」、穴埋めとしてのフェティッシュ等々であり、右端のS1→S2におけるS1はファルスである。

そしてポール・バーハウの図の左端にある現実界的トラウマ、Ⱥは穴である。

Ⱥの最も重要な価値は、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場における穴、組み合わせ規則の消滅である。 (ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ブラックホールについてはこのところ何度も引用しているが、ラカンの自身の言葉は、「「神さん」という原超自我」を参照してもらうことにして、ここではポール・バーハウのとてもわかりやすい叙述を掲げておく。

…この過程の出発点において、フロイトが「能動的」対「受動的」と呼んだ二つの傾向のあいだの対立がある。我々の観点では、これはS1(主人のシニフィアン)とS(Ⱥ) とのあいだの対立となる。S(Ⱥ) 、すなわち女にとって男のシニフィアンの等価物の不在ということである。この点において、正規の抑圧に関してフロイトによってなされた区別を次のように認知できる。

引力:抑圧されねばならない素材のうえに無意識によって行使された引力。それはS(Ⱥ) の効果である。あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) の効果。

斥力:すべての非共存的内容を拒絶するファルス Φ のシニフィアン S1 から生じる斥力。

この関係は容易に反転しうる。すなわちすべての共存的素材を引き込むファルスのシニフィアンと、他方でその種の素材をまさに排斥するS(Ⱥ)。

(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999、,PDF


現実界的トラウマについてはフロイトの次の文を掲げておこう。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我に分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

とはいえここで逃してならないのは、遡及性概念である。

《潜在的リアルは象徴界に先立つ。しかしそれは象徴界によってのみ現勢化されうる。》(ロレンツォ・キエーザ、2007、Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

次のように言うことーー、「エネルギーは、河川の流れのなかに潜在態として、なんらかの形で既にそこにある l'énergie était en quelque sorte déjà là à l'état virtuel dans le courant du fleuve」--それは(精神分析にとって)何も意味していない。

なぜなら、我々に興味をもたせ始めるのは、エネルギーが蓄積された瞬間 moment où elle est accumulée からのみであるから。そして機械(水力発電所 usine hydroélectrique)が作動し始めた瞬間 moment où les machines se sont mises à s'exercer からエネルギーは蓄積される。(ラカン、セミネール4、1956)

ようするに S(Ⱥ)、つまり原抑圧が介入した後、はじめて潜在的リアルとしてのȺが顕在化する。

これがラカンが後に、「原初 primaire は最初premier のことではない」(『アンコール』)と言った意味である。すなわち原初のトラウマは原抑圧により遡及的 rétroactivement に構成される。

これはそれぞれの段階 S1 (S1 (S1 (S1…)))での残滓があるという意味でもあり、フロイトの残存現象という概念はそのことを示している。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり以前の段階の現象が部分的に進歩から取り残されて存続するという事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な様子を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまた男根性器 phallisch-genitalen Platz 期にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残りが保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残りが存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

我々には「原始時代のドラゴン」ーーすなわち最初期のトラウマ的状況・無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeit、そしてそれにかかわる攻撃欲動Aggressionstriebーーがどこかに居残っているのである。

攻撃欲動の起源とはーーここでは簡略して記すがーー《原初に「受動的あるいは女性的立場 passive oder feminine Einstellung」をとらされることに対する反抗》(フロイト、1937)である。

ーー以上、またいささか断定的に記してしまったが、ここでの記述もーーわたくしがいくらかラカン派の論を読んできたなかでのーー「仮想定」である。そしてサントームは上に記した以外の意味もある(参照:フロイト引用集、あるいはラカンのサントーム)。

…………

※付記

以下の文は上に出現した多くの用語が詰まっているとても参考になる記述である。

…これは我々に「原 Ur」の時代、フロイトの「原抑圧 Urverdrängung」の時代をもたらす。Anne Lysy は、ミレールがなした原初の「身体の出来事un événement de corps」とフロイトが「固着 Fixierung」と呼ぶものとの連携を繰り返し強調している。フロイトにとって固着は抑圧の根(欲動の根Triebwurzel)である。それはトラウマの記銘ーー心理装置における過剰なエネルギーの(刻印の)瞬間--である。この原トラウマは、どんな内容も欠けた純粋に経済的瞬間なのである。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom"Tel Aviv, 27 January, 2012

※参照:二種類の原抑圧