レヴィナスとラカンはまったくことなるのはよく知ってるさ、
他者の「顔」ってやつだろ?
でもレヴィナスは掠め読んだことしかないから、なんたら言うつもりはないね
それに彼はひどいシオニストらしいが、批判しにくい対象なんだよな
第二次大戦中は開戦後すぐにフランス軍に応召し、1940年、ドイツ軍の捕虜となって、ドイツで抑留生活を送る。その間、フランス在住の妻や長女はかくまわれてホロコーストをのがれたが、義母は行方不明となった。父や兄弟など在リトアニアの彼の親族たちはほぼ全員、親衛隊 (ナチス)によって殺害された。(wiki)
ーーってわけでね。
ジジェクは遠慮会釈なしに批判しているけれど。
たぶんジジェクのトラウマの起源のひとつは次の文に現れているはず。
耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)
だから次のような発言が生まれる。
……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物 das Ding〉という用語をあてはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006,鈴木晶訳)
この文のより詳しい説明は、次の文がいいだろう。
想い起こしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十全に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。
だが同時に、彼らは「非合理的な」罪の意識にとり憑かれるている(いや単にそれだけではなくそれ以上のものがある)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやる。これは最も純粋な超自我の審級を露顕させている。猥褻な審級、それが我々を操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。
超自我の機能は、まさに我々の人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を混乱させる。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。超自我とは、現実界のトラウマ的中核から昇華によって我々を保護してくれるものどころか、超自我自体が現実界を仕切っている仮面なのである。
レヴィナスにとって、主体を脱中心化する根源的に異質な「現実界的モノ das Ding」のトラウマ的侵入は、倫理的な「善の呼びかけ」と同じものだ。他方ラカンにとっては逆に、その侵入は原初の「邪悪なモノ das Ding」であり、「善」のヴァージョンには決して昇華されえない何ものか、永遠に動揺をもたらす裂目のままの何ものかなのである。そこには、倫理的呼びかけの源泉としての「隣人」の飼い馴らしに対して「悪」の報復がある。すなわち、倫理的呼びかけ自体の超自我的歪曲の偽装のなかに「抑圧された悪」が回帰する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)
ジジェクは上の文に引き続いて、レヴィナスの他者の顔の議論を徹底的に叩いているのだけれどーー《ラカンにとって「顔」は、イマジネールな囮として機能する》等々ーーま、それはいいさ、わからんね、わたくしには。
でも一般に、人はトラウマ的経験を経たら、攻撃的になるのさ
でも一般に、人はトラウマ的経験を経たら、攻撃的になるのさ
治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による))
「侵入」をこうむった人物は、「侵入的」になるのさ、これは抗いがたい事実であり、その他者への侵入を抑圧すれば、自己破壊的になるわけでね。
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(中井久夫)
たとえば次のジジェクによるレヴィナス批判にかかわる文にあるレヴィナスの発言は、彼の攻撃性が発露していると読めるね。
想い出してみよう、よく知られたレヴィナスの滑稽な大失態 fiascoを。それは、ベイルートにおけるサブラー・シャティーラ事件(1982年9月16日から18日)大虐殺の一週間後に、彼がラジオ放送番組に、ショーロモ・マルカ Shlomo MaIka とアラン・フィンケルクロートAlain Finkelkrautとともに参加したときのことだ。
ショーロモ・マルカがエマニュエル・レヴィナスに明らかに「レヴィナス的な」質問をした。「エマニュエル・レヴィナス、あなたは「他者」の哲学者です。歴史とは、あるいは政治とは、まさに「他者」との出会いの場であり、またイスラエル人にとって「他者」とは何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。
レヴィナスは次のように答えた。
《他者についての定義はまったく異なっています。他者は、必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人をも受け容れていることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? そのとき、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が間違っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。》(エマニュエル・レヴィナス)
この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から俗悪な常識的感想への思いがけないシフトである。レヴィナスが基本的に言っていることは、原則としては、他者性への敬意-顧慮は無条件のものでありながら、具体的な他者に遭遇すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。要するに、実践的な政治では、他者性への敬意-顧慮は厳密には何も意味していないのである。(Slavoj Zizek. Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!)
ーーこの文は、《かつてユダヤ人が独占していた「絶対的犠牲者」というステイタスをいまやパレスチナ人が奪いとった》(フィンケルクロート)とともに読むべきだろう。
ところが、レヴィナスにとってはパレスチナ人への顧慮・敬意なんてありはしないと読める。彼は他者性への敬意-顧慮は実際はひどく苦手だったんじゃないか(くり返せば、トラウマ経験のために)。いわば、他者性への敬意-顧慮の「天性(?)」が少なかったんじゃないか? そうとでも読まないと、上の発言は情状酌量しがたいね。
…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)
といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )
ーーということぐらいだな、わたくしが言いたいのは。