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2017年2月22日水曜日

レヴィナスというシオニストの他者への敬意・顧慮

やあ、《他者の他者性 l'altérité de l'Autre》かい?

レヴィナスとラカンはまったくことなるのはよく知ってるさ、
他者の「顔」ってやつだろ?

でもレヴィナスは掠め読んだことしかないから、なんたら言うつもりはないね
それに彼はひどいシオニストらしいが、批判しにくい対象なんだよな

第二次大戦中は開戦後すぐにフランス軍に応召し、1940年、ドイツ軍の捕虜となって、ドイツで抑留生活を送る。その間、フランス在住の妻や長女はかくまわれてホロコーストをのがれたが、義母は行方不明となった。父や兄弟など在リトアニアの彼の親族たちはほぼ全員、親衛隊 (ナチス)によって殺害された。(wiki)

ーーってわけでね。

ジジェクは遠慮会釈なしに批判しているけれど。

たぶんジジェクのトラウマの起源のひとつは次の文に現れているはず。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)

だから次のような発言が生まれる。

……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物 das Ding〉という用語をあてはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』2006,鈴木晶訳)

この文のより詳しい説明は、次の文がいいだろう。

想い起こしてみよう、奇妙な事実を。プリーモ・レーヴィや他のホロコーストの生存者たちによって定期的に引き起こされることをだ。生き残ったことについての彼らの内密な反応は、いかに深刻な分裂によって刻印されているかについて。意識的には彼らは十全に気づいている、彼らの生存は無意味なめぐり合わせの結果であることを。彼らが生き残ったことについて何の罪もない、ひたすら責めをおうべき加害者はナチの拷問者たちであると。

だが同時に、彼らは「非合理的な」罪の意識にとり憑かれるている(いや単にそれだけではなくそれ以上のものがある)。まるで彼らは他者たちの犠牲によって生き残ったかのように、そしていくらかは他者たちの死に責任があるかのようにして。――よく知られているように、この耐えがたい罪の意識が生き残り者の多くを自殺に追いやる。これは最も純粋な超自我の審級を露顕させている。猥褻な審級、それが我々を操り、自己破壊の渦巻く奈落へと導く。

超自我の機能は、まさに我々の人間存在を構成する恐怖の動因、人間存在の非人間的な核を混乱させる。この次元とは、ドイツの観念論者が否定性と呼んだものであり、そしてまたフロイトが死の欲動と呼んだものである。超自我とは、現実界のトラウマ的中核から昇華によって我々を保護してくれるものどころか、超自我自体が現実界を仕切っている仮面なのである。

レヴィナスにとって、主体を脱中心化する根源的に異質な「現実界的モノ das Ding」のトラウマ的侵入は、倫理的な「善の呼びかけ」と同じものだ。他方ラカンにとっては逆に、その侵入は原初の「邪悪なモノ das Ding」であり、「善」のヴァージョンには決して昇華されえない何ものか、永遠に動揺をもたらす裂目のままの何ものかなのである。そこには、倫理的呼びかけの源泉としての「隣人」の飼い馴らしに対して「悪」の報復がある。すなわち、倫理的呼びかけ自体の超自我的歪曲の偽装のなかに「抑圧された悪」が回帰する。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

ジジェクは上の文に引き続いて、レヴィナスの他者の顔の議論を徹底的に叩いているのだけれどーー《ラカンにとって「顔」は、イマジネールな囮として機能する》等々ーーま、それはいいさ、わからんね、わたくしには。

でも一般に、人はトラウマ的経験を経たら、攻撃的になるのさ

治療における患者の特性であるが、統合失調症患者を診なれてきた私は、統合失調症患者に比べて、外傷系の患者は、治療者に対して多少とも「侵入的」であると感じる。この侵入性はヒントの一つである。それは深夜の電話のこともあり、多数の手紙(一日数回に及ぶ!)のこともあり、私生活への関心、当惑させるような打ち明け話であることもある。たいていは無邪気な範囲のことであるが、意図的妨害と受け取られる程度になることもある。彼/彼女らが「侵入」をこうむったからには、多少「侵入的」となるのも当然であろうか。世話になった友人に対してストーキング的な電話をかけつづける例もあった。(中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

「侵入」をこうむった人物は、「侵入的」になるのさ、これは抗いがたい事実であり、その他者への侵入を抑圧すれば、自己破壊的になるわけでね。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。(中井久夫)

たとえば次のジジェクによるレヴィナス批判にかかわる文にあるレヴィナスの発言は、彼の攻撃性が発露していると読めるね。

想い出してみよう、よく知られたレヴィナスの滑稽な大失態 fiascoを。それは、ベイルートにおけるサブラー・シャティーラ事件(1982年9月16日から18日)大虐殺の一週間後に、彼がラジオ放送番組に、ショーロモ・マルカ Shlomo MaIka とアラン・フィンケルクロートAlain Finkelkrautとともに参加したときのことだ。

ショーロモ・マルカがエマニュエル・レヴィナスに明らかに「レヴィナス的な」質問をした。「エマニュエル・レヴィナス、あなたは「他者」の哲学者です。歴史とは、あるいは政治とは、まさに「他者」との出会いの場であり、またイスラエル人にとって「他者」とは何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。

レヴィナスは次のように答えた。

《他者についての定義はまったく異なっています。他者は、必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人をも受け容れていることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? そのとき、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が間違っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。》(エマニュエル・レヴィナス)

この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から俗悪な常識的感想への思いがけないシフトである。レヴィナスが基本的に言っていることは、原則としては、他者性への敬意-顧慮は無条件のものでありながら、具体的な他者に遭遇すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。要するに、実践的な政治では、他者性への敬意-顧慮は厳密には何も意味していないのである。(Slavoj Zizek. Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!)

ーーこの文は、《かつてユダヤ人が独占していた「絶対的犠牲者」というステイタスをいまやパレスチナ人が奪いとった》(フィンケルクロート)とともに読むべきだろう。

ところが、レヴィナスにとってはパレスチナ人への顧慮・敬意なんてありはしないと読める。彼は他者性への敬意-顧慮は実際はひどく苦手だったんじゃないか(くり返せば、トラウマ経験のために)。いわば、他者性への敬意-顧慮の「天性(?)」が少なかったんじゃないか? そうとでも読まないと、上の発言は情状酌量しがたいね。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

ーーということぐらいだな、わたくしが言いたいのは。


2015年2月2日月曜日

レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)

(31 Years on Sabra-Shatila Massacre: Justice Delayed but Gaining Ground)

※参照:サブラー・シャティーラ事件(Wikipedia)


◆.「PHILOSOPHY .........Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!........Slavoj Zizek」より私訳(とはいえ、この文は、『身体なき器官』にも同様な文があり、インターネット上でその「引用」が拾える箇所は、その文を転写した)。

想い出してみよう、よく知られたレヴィナスの滑稽な大失態fiascoを。それは、ベイルートにおけるサブラー・シャティーラ事件(1982年9月16日から18日)大虐殺の一週間後に、彼がラジオ放送番組に、ショーロモ・マルカ Shlomo MaIka とアラン・フィンケルクロートAlain Finkelkrautとともに参加したときのことだ。ショーロモ・マルカがエマニュエル・レヴィナスに明らかに“レヴィナス的な”質問をした。「エマニュエル・レヴィナス、あなたは「他者」の哲学者です。歴史とは、あるいは政治とは、まさに「他者」との出会いの場であり、またイスラエル人にとっ「他者」とは何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。

Recall the well-known fiasco of Levinas when, a week after the Sabra and Shatila massacres in Beirut, he participated in a radio broadcast with Shlomo MaIka and Alain Finkelkraut. MaIka asked him the obvious "Levinasian" question: "Emmanuel Levinas, you are the philosopher of the 'other.' Isn't history, isn't politics the very site of the encounter with the 'other; and for the Israeli, isn't the 'other' above all the Palestinian?" To this, Levinas answered:
《他者についての定義はまったく異なっています。他者は必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人をも受け容れていることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? とすれば、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が間違っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。》(エマニュエル・レヴィナス)

My definition of the other is completely different. The other is the neighbor, who is not necessary kin, but who can be. And in that sense, if you're for the other, you're for the neighbor. But if your neighbor attacks another neighbor or treats him unjustly, what can you do? Then alterity takes on another character, in alterity we can find an enemy, or at least then we are faced with the problem of knowing who is right and who is wrong, who is just and who is unjust. There are people who are wrong
この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から俗悪な常識的反省への思いがけないシフトである。レヴィナスが基本的に言っていることは、原則としては、他性への敬意-顧慮は無条件のものでありながら、具体的な他者に遭遇すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。要するに、実践的な政治では、他性への敬意-顧慮は厳密には何も意味していないのである。

The problem with these lines is not their potential Zionist anti-Palestinian attitude, but, quite on the contrary, the unexpected shift from high theory to vulgar commonsensical reflections - what Levinas is basically saying is that, as a principle, respect for alterity is unconditional, the highest one, but, when faced with a concrete other, one should nonetheless see if he is a friend or an enemy... in short, in practical politics, the respect for alterity strictly means nothing.


Never Forget The Massacres at Sabra & Shatila


レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"2012 私訳ーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」)
……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81)


「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(『NAM生成』所収)より

浅田彰)いまの論調の支配的な流れの一つは、デリダからレヴィナスへの回帰ですよね。ポジティヴな絶対的神はない、しかしネガティヴな絶対的他者がその不在においてわれわれに呼びかけている、それに向かってわれわれは無限の応答責任(レスポンサビリテ)を負う、と。これはニーチェ的にいうと最悪のモラリズムになりかねないでしょう。さらに問題なのは、そういう擬似宗教的な他者論がしばしば政治的な文脈にダイレクトに導入されることです。いわゆる「従軍慰安婦」の問題にしても、まずは、国家が謝罪し補償するという近代の原理で行けるところまで行くのが先決だと思う。そこで、われわれは他者の顔の前に恥を持って立たねばならないとか何とかいっても、あまり実効性がないばかりか、いたずらにマジョリティの反発を招くことにさえなりかねない。結局、そういう擬似宗教的なモラリズムは、一種の麻痺――すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなるという、最近よくあるポリティカリー・コレクトな態度を招きよせるだけではないか。そのような脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるそ、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないんだというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思うんですが。


《マルクスはイデオロギー批判において、ひとが自分をどう考えているかではなく、現実に何をしているかが問題だという言い方を幾度もしている》(柄谷行人『探求Ⅱ』「第三部 世界宗教をめぐって」 p208)



…………

※附記

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです。(fフロイト「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)
……すでにのべたように、フロイトは、ユダヤ教の“実質”を与えたとされるモーゼに関心をもっていない。つまり、律法、供犠、儀礼についてこと細かに指示したモーゼに。それらは、モーゼの名によって語られているけれども、もともとの部族的な律法や儀礼にすぎないからだ。モーゼの禁止(戒律)のなかで重要なのは、偶像崇拝の禁止だけである。

このことは、ユダヤ人に対するフロイトの姿勢の二重化をも示している。一方で、彼は伝統的な戒律や教義のなかに閉じこめられているユダヤ民族共同体に対して否定的であり、したがってシオニズムを拒否する。他方で、あらゆる偏見に対して知的に自由であることの根拠を「ユダヤ的であること」のなかに見出す。それらが、モーゼの両義性――律法による神経症的拘束を与えた者であり、同時に偶像崇拝の禁止によって知的・精神的解放を与えた者であるーーに示されている。そして、「ユダヤ的であること」の特質は、モーゼによる偶像崇拝の禁止に集約されている。

……ただ私がつけ加えておきたいことは、ユダヤ的本質のこの特徴ある発展は、目に見える姿をした神を崇拝することに対するモーゼの禁止によってはじめられたということだけである。約二千年のユダヤ民族の生活における精神的努力によって身につけられたある優位はもちろんその効果をあらわした。つまりそれは、筋肉力の発展が民族の理想であるばあいによく生じる粗野と暴力的傾向を防止するのに役立つのである。ギリシャ民族がなしとげたような、精神的活動と肉体的活動との完成に見られる調和というものはユダヤ人に対しては拒まれたままであった。そのうちのどちらかという場合には、彼らは少なくともより高い価値のあるものを選ぶ決断をしたのであった。(『モーセと一神教』)(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」pp223-224)
レヴィナスはつぎのようにいっている。

異教とは神の息吹の否定でもなければ、唯一神を知らないことでもない。ユダヤ教の使命が大地の諸民族に一神教を伝授することでしかないとすると、この使命は取るに足らぬものである。それは釈迦に説法というものである。異教とは世界の外に出る能力を欠くことなのである。それは、聖霊や神々を否定することではなく、聖霊や神々を世界内に定位することなのである。たしかにアリストテレスは第一動者を宇宙から分離した。しかし、第一動者がその高みにまで携えていったのは、創造された諸事物の貧弱な完全性でしかなかった。異教徒の道徳は、世界の境界を侵犯する能力の根本的欠如の帰結にほかならない。自足し自閉した世界のなかに、異教徒は閉じこめられている。(「マイモニデスの現代性」)

レヴィナスが語っている「ユダヤ教」も、実際は、「ユダヤ的なもの」のことである。「異教」もまた、けっして多神教のことを意味していない。それはただ、世界(=共同体)の内に閉じこめられた思想を意味する。つまり、それが偶像崇拝なのである。だが、レヴィナスがやはり「ユダヤ教」の文脈のなかで語っているのに対して、フロイトはそのことを拒んでいる。また、レヴィナスが結局イスラエル国家を支持したのに対して、フロイトはシオニズムをまったく認めなかった。国家とは“偶像”だからだ。この徹底性はすさまじい。(同上 pp.224-225)