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2015年2月2日月曜日

レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)

(31 Years on Sabra-Shatila Massacre: Justice Delayed but Gaining Ground)

※参照:サブラー・シャティーラ事件(Wikipedia)


◆.「PHILOSOPHY .........Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou!........Slavoj Zizek」より私訳(とはいえ、この文は、『身体なき器官』にも同様な文があり、インターネット上でその「引用」が拾える箇所は、その文を転写した)。

想い出してみよう、よく知られたレヴィナスの滑稽な大失態fiascoを。それは、ベイルートにおけるサブラー・シャティーラ事件(1982年9月16日から18日)大虐殺の一週間後に、彼がラジオ放送番組に、ショーロモ・マルカ Shlomo MaIka とアラン・フィンケルクロートAlain Finkelkrautとともに参加したときのことだ。ショーロモ・マルカがエマニュエル・レヴィナスに明らかに“レヴィナス的な”質問をした。「エマニュエル・レヴィナス、あなたは「他者」の哲学者です。歴史とは、あるいは政治とは、まさに「他者」との出会いの場であり、またイスラエル人にとっ「他者」とは何よりもまずパレスチナ人ではありませんか?」と。

Recall the well-known fiasco of Levinas when, a week after the Sabra and Shatila massacres in Beirut, he participated in a radio broadcast with Shlomo MaIka and Alain Finkelkraut. MaIka asked him the obvious "Levinasian" question: "Emmanuel Levinas, you are the philosopher of the 'other.' Isn't history, isn't politics the very site of the encounter with the 'other; and for the Israeli, isn't the 'other' above all the Palestinian?" To this, Levinas answered:
《他者についての定義はまったく異なっています。他者は必須の親族ではありませんが、そうなる可能性がある隣人です。またこの意味で、あなたが他者を受け容れれば、隣人をも受け容れていることになるのです。しかしあなたの隣人が他の隣人を攻撃する、あるいは彼を不当に扱えば、あなたには何ができるでしょう? とすれば、他性が別なる特徴を帯び、他性に敵を見出す可能性があるか、少なくとも誰が正しく誰が間違っているのか、誰が正義で誰が不正義なのかを知るという問題に直面することになります。誤っている人びとが存在するのです。》(エマニュエル・レヴィナス)

My definition of the other is completely different. The other is the neighbor, who is not necessary kin, but who can be. And in that sense, if you're for the other, you're for the neighbor. But if your neighbor attacks another neighbor or treats him unjustly, what can you do? Then alterity takes on another character, in alterity we can find an enemy, or at least then we are faced with the problem of knowing who is right and who is wrong, who is just and who is unjust. There are people who are wrong
この発言に潜む問題は、潜在的にシオニスト的で反パレスチナ的なその態度にではなく、その反対に、高度な理論から俗悪な常識的反省への思いがけないシフトである。レヴィナスが基本的に言っていることは、原則としては、他性への敬意-顧慮は無条件のものでありながら、具体的な他者に遭遇すれば、それにもかかわらず、ひとは彼が友人か敵かを判断せねばならないということにすぎない。要するに、実践的な政治では、他性への敬意-顧慮は厳密には何も意味していないのである。

The problem with these lines is not their potential Zionist anti-Palestinian attitude, but, quite on the contrary, the unexpected shift from high theory to vulgar commonsensical reflections - what Levinas is basically saying is that, as a principle, respect for alterity is unconditional, the highest one, but, when faced with a concrete other, one should nonetheless see if he is a friend or an enemy... in short, in practical politics, the respect for alterity strictly means nothing.


Never Forget The Massacres at Sabra & Shatila


レヴィナスにとって、主体を非中心化する根源的に異質な現実界的〈モノ〉のトラウマ的侵入は、倫理的な〈善〉の〈呼びかけ〉と同じものだ。他方、ラカンにとっては、逆に、原初の“邪悪な〈もの〉”であり、〈善〉のヴァージョンには決して昇華されえない何か、永遠に不安にさせる切り傷のままの何かなのである。こういったわけで、倫理的な呼びかけの出処としての〈隣人〉の飼い馴らしには、〈悪〉の復讐が横たわっている。“抑圧された〈悪〉”は、倫理的呼びかけ自体の超自我の歪曲の見せかけとして回帰する。 (ZIZEK"LESS THAN NOTHING"2012 私訳ーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」)
……隣人を倫理的に飼い慣らしてしまうという誘惑に負けてはならない。たとえばエマニュエル・レヴィナスはその誘惑に負けて、隣人とは倫理的責任への呼びかけが発してくる深遠な点だと考えた。レヴィナスが曖昧にしているのは、隣人は怪物みたいなものだということである。この怪物性ゆえに、ラカンは隣人に〈物das Ding〉という用語をあたはめた。フロイトはこの語を、堪えがたいほど強烈で不可解な、われわれの欲望の究極の対象を指す語として用いた。(……)隣人とは、人間のおだやかな顔のすべてから潜在的に垣間見える(邪悪な)〈物〉である。(ジジェク『ラカンはこう読め』p81)


「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」(『NAM生成』所収)より

浅田彰)いまの論調の支配的な流れの一つは、デリダからレヴィナスへの回帰ですよね。ポジティヴな絶対的神はない、しかしネガティヴな絶対的他者がその不在においてわれわれに呼びかけている、それに向かってわれわれは無限の応答責任(レスポンサビリテ)を負う、と。これはニーチェ的にいうと最悪のモラリズムになりかねないでしょう。さらに問題なのは、そういう擬似宗教的な他者論がしばしば政治的な文脈にダイレクトに導入されることです。いわゆる「従軍慰安婦」の問題にしても、まずは、国家が謝罪し補償するという近代の原理で行けるところまで行くのが先決だと思う。そこで、われわれは他者の顔の前に恥を持って立たねばならないとか何とかいっても、あまり実効性がないばかりか、いたずらにマジョリティの反発を招くことにさえなりかねない。結局、そういう擬似宗教的なモラリズムは、一種の麻痺――すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて積極的なことは何もできなくなるという、最近よくあるポリティカリー・コレクトな態度を招きよせるだけではないか。そのような脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるそ、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないんだというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思うんですが。


《マルクスはイデオロギー批判において、ひとが自分をどう考えているかではなく、現実に何をしているかが問題だという言い方を幾度もしている》(柄谷行人『探求Ⅱ』「第三部 世界宗教をめぐって」 p208)



…………

※附記

ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりました。固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのです。(fフロイト「ブナイ・ブリース協会会員への挨拶」)
……すでにのべたように、フロイトは、ユダヤ教の“実質”を与えたとされるモーゼに関心をもっていない。つまり、律法、供犠、儀礼についてこと細かに指示したモーゼに。それらは、モーゼの名によって語られているけれども、もともとの部族的な律法や儀礼にすぎないからだ。モーゼの禁止(戒律)のなかで重要なのは、偶像崇拝の禁止だけである。

このことは、ユダヤ人に対するフロイトの姿勢の二重化をも示している。一方で、彼は伝統的な戒律や教義のなかに閉じこめられているユダヤ民族共同体に対して否定的であり、したがってシオニズムを拒否する。他方で、あらゆる偏見に対して知的に自由であることの根拠を「ユダヤ的であること」のなかに見出す。それらが、モーゼの両義性――律法による神経症的拘束を与えた者であり、同時に偶像崇拝の禁止によって知的・精神的解放を与えた者であるーーに示されている。そして、「ユダヤ的であること」の特質は、モーゼによる偶像崇拝の禁止に集約されている。

……ただ私がつけ加えておきたいことは、ユダヤ的本質のこの特徴ある発展は、目に見える姿をした神を崇拝することに対するモーゼの禁止によってはじめられたということだけである。約二千年のユダヤ民族の生活における精神的努力によって身につけられたある優位はもちろんその効果をあらわした。つまりそれは、筋肉力の発展が民族の理想であるばあいによく生じる粗野と暴力的傾向を防止するのに役立つのである。ギリシャ民族がなしとげたような、精神的活動と肉体的活動との完成に見られる調和というものはユダヤ人に対しては拒まれたままであった。そのうちのどちらかという場合には、彼らは少なくともより高い価値のあるものを選ぶ決断をしたのであった。(『モーセと一神教』)(柄谷行人『探求Ⅱ』「ユダヤ的なもの」pp223-224)
レヴィナスはつぎのようにいっている。

異教とは神の息吹の否定でもなければ、唯一神を知らないことでもない。ユダヤ教の使命が大地の諸民族に一神教を伝授することでしかないとすると、この使命は取るに足らぬものである。それは釈迦に説法というものである。異教とは世界の外に出る能力を欠くことなのである。それは、聖霊や神々を否定することではなく、聖霊や神々を世界内に定位することなのである。たしかにアリストテレスは第一動者を宇宙から分離した。しかし、第一動者がその高みにまで携えていったのは、創造された諸事物の貧弱な完全性でしかなかった。異教徒の道徳は、世界の境界を侵犯する能力の根本的欠如の帰結にほかならない。自足し自閉した世界のなかに、異教徒は閉じこめられている。(「マイモニデスの現代性」)

レヴィナスが語っている「ユダヤ教」も、実際は、「ユダヤ的なもの」のことである。「異教」もまた、けっして多神教のことを意味していない。それはただ、世界(=共同体)の内に閉じこめられた思想を意味する。つまり、それが偶像崇拝なのである。だが、レヴィナスがやはり「ユダヤ教」の文脈のなかで語っているのに対して、フロイトはそのことを拒んでいる。また、レヴィナスが結局イスラエル国家を支持したのに対して、フロイトはシオニズムをまったく認めなかった。国家とは“偶像”だからだ。この徹底性はすさまじい。(同上 pp.224-225)