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2015年2月3日火曜日

「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン)

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

 この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

《2001911日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。》(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)


(Fallujah is the cemetery for Americans)


いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)





蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかはないが、このことも写真は語らない。
その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蠅の群……ところが、死体の側に身をかがめるなり、腕か指を動かすなり、死体に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端にそれは非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。(ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』)

The Sabra and Shatila massacres


※別のシャティーラの画像は、「レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)」を見よ。


……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(……)

――序でに言うが、このような思想でもって、私はわが厭世家諸君のぎしぎしと調子はずれな音を立てている厭世の水車に新しい水を引いてやる気は毛頭ない。私は却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。倦み疲れた悲劇的な眼差し、人生の謎に対する不信、生活嫌悪の氷のように冷たい否定――これらは人類の最悪時代の標徴ではない。それらはむしろ、沼地の植物として、その生育に必要な沼地が出来るとき初めて日の光を見るのだ。――私の言っているのは、「人間」獣をしてついにそのすべての本能を恥じることを学ばしめたあの病的な柔弱化と道徳化のことなのだ。「天使」(ここではこれ以上に酷い言葉は用いないでおこう)になる途中で人間はあのように胃を悪くし、舌に苔を出かしたために、ただに動物の歓びや無邪気さを味わえなくなったばかりか、生そのものをも味気ないものにしてしまった。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p73-76)

さあて、この「わたくし」はこうやって引用して何が言いたいというのか。《今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られ》たではないか? 今年になって起こったふたつのムスリムによる事件により。

そして、ドゥルーズがある種の「知識人」にひどく激怒をしたように、ーー「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる、あるいは「屍体を食い物にしている」とーー、あの事件を餌にもっともらしく「正義」を語る評論家連中よりは、無邪気に興奮して「無意識的に」祝祭気分になっている公衆のほうが天真爛漫で好感がもてるということはないか。まず「出発」はここからだ。よおく考えてみよう。「似非知識人」のルソー派たちよ、→「ルソー派とニーチェ派

ーー《とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。》(ランボー)

…………

2004年の浅田彰による発言「イラク人質問題をめぐる緊急発言」(憂国呆談)は、リンク切れになっているが(http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/20040416/index.html)、その「コピペ」に行き当たったので、ここに貼り付けておこう。



Photos from Fallujah, March 31, 2004

イラクで日本の民間人3人がイスラム過激派と見られる連中に拘束され、3日以内に日本政府が自衛隊を撤退させなければファルージャで黒焦げの死体を吊るされた4人のアメリカ人よりひどいやりかたで生きたまま焼き殺すっていう脅迫状とともにヴィデオが送りつけられてきた。最悪の事態になっちゃったね。ただ、自衛隊派兵の時点でこういうことが起こることは当然予想されたわけで、いまこの事件に衝撃を受けるなんて言ってるやつがいることに衝撃を受ける。イラクの人々を助けるためと称し、実はブッシュ政権に従う姿勢を示すために自衛隊を派遣して、現実にイラクの人々を助けるために行動してた民間人なんかの命を危険にさらす結果になっちゃったわけだから、本当に最低だと思うよ。前に「自衛隊」は小泉"X-JAPAN"純一郎が玩具として振り回す「J隊」だって言ったけど、これではむしろアメリカのための「他衛隊」じゃない? いや、自分たちだけを守るために基地にひきこもりを決め込んでるんだからこれこそまさに「自衛隊」というべきか「自閉隊」というべきか。

 ところが、政府は最初から、テロリストに屈することはない、ここで引いたらテロリストの思う壺だから自衛隊は撤退しない、と言い切って、アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官やディック・チェイニー副大統領からさっそくお褒めの言葉にあずかってる。要するに、日本政府は日本国民を守るよりアメリカ政府の歓心を買うために行動するってことがはっきりしたわけだ。そもそも断固としてテロリストと戦うと称してアメリカがイラクに攻め込んだために、それこそオサマ・ビンラディンの思う壺で、かえってイラクがテロリストの巣窟と化しちゃったわけでしょ。そのアメリカのお先棒を担ぐことで、誘拐犯の脅迫状にもある通りもともと親日的だったアラブ人を敵に回したちゃったんだから、愚かと言うほかない。

 その意味でもともと自衛隊派兵は大間違いだし、われわれは一貫して反対してきたわけだけど、今からでも遅くはないんで、むしろ今度の人質事件をきっかけに撤退する勇気をもつべきじゃないか。1977年にダッカで日本赤軍のハイジャック事件が起きたとき首相だった福田赳夫は「人命は地球より重い」っていう「迷言」を吐いて超法規的にテロリストの要求を呑んだわけだけど、実はあれはなかなかの「名言」でもあるんで、アメリカやイスラエルをはじめとする各国の批判と軽蔑を浴びつつあそこまで踏み切ったのは大したものだとも言える。ところが、その息子である現・官房長官の福田康夫は、ブッシュ・ジュニアがサダム・フセインを倒せなかったブッシュ・シニアを乗り越えようとしてイラク戦争に突入したように、ダッカ事件のトラウマを埋めようとするかのごとく従米強硬路線一本やり。小泉も前言を訂正したり撤回したりする勇気のないナルシシストだから福田と同じだし、川口順子なんてのは外相って言ったって北朝鮮拉致被害者の面倒を見てる中山恭子内閣官房参与程度のお飾りでしかないしね。

 だいたい、今回は超法規的どころか、完全に合法的に撤退できる──というか、撤退すべきなの。幸か不幸か人質事件の起きる直前にサマーワの自衛隊の野営地が砲撃された。本格的な攻撃じゃなく、被害もなかったとはいえ、これで明らかにサマーワは(実はイラク全土が)戦闘地域になり、「非戦闘地域」というイラク特別措置法の要件を満たさなくなった。だから、法律に従って一時的に撤退する。で、防衛庁としては、これは人質事件とは別問題なんで脅迫に屈したんじゃない、人質事件についてはわれわれは直接関知しない、二つがリンクしていると見るのは勝手だけれど、われわれはたんに法律に基づいて粛々と行動しているだけだ、とか何とか、むりやり強弁しとけばいいわけよ。それも、自衛隊をすぐ帰国させるんじゃなく、クウェートあたりで半月ほど待機し、再び「非戦闘地域」という条件が満たされればただちにサマーワに復帰する、とか何とか、適当に恰好をつけとけばいい。いや、もちろんわれわれはもともと派兵反対だけど、最低いまの政権でもその程度のことは言えるんじゃないの?

 もちろん、いちばん悪いのは民間人を人質にとる武装集団だよ。だけど、妥協なしにテロと戦うっていうだけでは、問題は解決しない。だいたい、アメリカの始めた「テロとの戦争」に加担した日本政府が、アメリカに義理立てするため結果的に日本国民を見殺しにしちゃうんだとすれば、自国民の保護っていう最大の目的を放棄したに等しい。いやまあ、国家なんてものはもともとそういう怪物なんだけどさ。

 ……っていう話をしてから一週間たったところで、イラクのイスラム聖職者(法学者)協会の仲介が効を奏して、日本人の人質3人が解放されたし、彼らの後で拘束された日本人2人も解放された。本当によかったと思うよ。ただ、各国の人質を合わせると何十人にもなって、とくにイタリア人の人質は4人のうちまず1人殺されてるから、状況はまだまだ厳しい。とにかく、アメリカの占領政策が完全に失敗して事態が泥沼化する一方なのに、まだ力で押さえ込めると思ってるところが救い難いよ。

 そもそも、今回の危機の発端は、ファルージャでアメリカ人4人(イタリア人の4人の人質同様、民間人といっても警備担当者で、いわばセキュリティ関係のアウトソーシングが進んでる証しだけど)が殺され、黒焦げの死体が引き回されて橋から吊るされた事件だった。ソマリアのモガディシオで同じように米兵の死体が引き回されたときは、世論が耐えられなくなってクリントン政権はアメリカ軍を引き上げたわけだけど、それよりひどい事態になり、しかもソマリアからおめおめと逃げ帰ったトラウマは繰り返せないってんで、ブッシュ政権はヒステリックな報復攻撃に出て、ファルージャを包囲し、一説では600人もの死者を出す「ファルージャの虐殺」を引き起こしちゃったわけね。モスクまでミサイルで攻撃しちゃって、その結果、犬猿の仲だったスンニ派とシーア派を反米の一点で結束させる始末。イスラエルがハマスの指導者のアハマド・ヤシン師を殺したのもえげつないけど、あのときでさえモスクは攻撃してない。ヤシン師がモスクから出てクルマか何かで移動中にミサイルを撃ち込んだ。後継者のアブドルアジズ・ランティシ師をさっそく殺した手口もそれと同じ。モスクを攻撃するのは、いたずらに宗教的反感を煽るし、そもそも個人をヒットするには精度が低すぎる、と。それと比べてもアメリカのやりかたは乱暴で粗雑としか言いようがない。この件も含め、ブッシュ政権は軍の増派で反対派を押さえ込み、スケジュール通りにイラク人への政権移譲を進めようとしてるけど、そう簡単にはいかない。むしろ、短期的には「ヴェトナム化」とさえ言われる泥沼化の様相が強まる一方じゃない? さすがになりふりかまわず国連にすがることになり、自分たちが勝手に選んだ統治評議会じゃなく国連が主体となって選ぶ暫定政府が来年1月の選挙まで政権を担当するっていうブラヒミ提案を呑んだけど、それでさえうまくいくかどうかはまだわかんないよ。

 そういう意味では、日本がアメリカの尻馬に乗ってイラク軍事占領の片棒をかつぐんじゃなくあくまで人道支援に徹するんだってことを明確にし、まずイラク国民から支持されることがいちばん大事でしょう。そのためにもやっぱり「非戦闘地域」という要件が満たされなくなったサマーワから自衛隊を少なくとも一時的に撤退させるのがいいんだけどな。撤退要求をしてた誘拐犯が人質を解放したんだから、要求に屈するのではなく法的要件が満たされなくなったので撤退するっていう詭弁が通じやすくなったわけだしさ。でもまあ、来日したチェイニーに釘をさされただろうし、小泉は相手の要求に屈しないまま人質解放を勝ち取ったつもりで舞い上がってるだろうから、とてもそんなことはしないだろうけど。