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2015年2月4日水曜日

あなた方にききたいのだが、--挑発の色調をこめて

ところで、あなた方にききたいのだが、――あなた方? もちろんこの「あなた方」には、この「私」も含まれるーー、なぜ日本人が人質になったときだけ大騒ぎするのだろう? ――などという問いは、かねてからもっともらしい連中がいくどもくり返してきた捏造された問いにすぎないのかもしれない、それらに比べていささかの「挑発」の色調があるかもしれぬが。「日本人」とは「私」のことだ。私の同類のことだ。その「私」が危険にさらされれば大騒ぎするのはアタリマエであるだろう。

あなた方は、誰よりも自分を、そして自分の愛する者の危険に心を配る。

まず第一に、無差別の愛などは、相手を侮辱するもので、愛の本質的価値の一部を失っている。しかも第二に、すべての人間が愛に値するなどということはありえない(フロイト『文化への不満』)

いや自己愛が先ではないとさえ言う人もいる、《その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない》(サリバン)。

あなた方の一員であるつもりの「私」は、だが長年の海外生活を経て、標準的な日本人よりは外国人と接触する機会も多くーー当地の人たちだけでなく、韓国人、中国人や台湾人としばしばテニスをするし、当地に来た当初の二十年前からの飲み友達は、香港籍の英人や、当時わたくしと同じく当地人と結婚したオーストラリア人だーー、なぜ「日本人」は「日本人」の危険をのみ大げさに騒ぐのだろう、といささかひねくれた問いを発してみただけかもしれない。とはいえ、私はこうやって「日本語」で今書いているわけだ。その意味で、あなた方の一員であり続けるだろう。

「憐れみ」の思想家ルソーは、《人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ》(『エミール』)としたが、米国人や仏人、英人などが人質になっても、あなた方は自分がまぬがれていると考えるのだろうから、たいして憐れまない。

もちろんそれ以外にも、日本人が人質になれば大きなニュースになる。想像力の欠けた連中でさえいやおうなく危機感を煽られる。飛行機墜落事故が大きなニュースになって自動車事故はニュースにならないのと同じように、大きなニュースによって示された危険性のほうばかりが注目される。「日本人」の人質事件は「飛行機事故」である。あるいは「三原山投身者」である。


寺田寅彦氏はジャアナリズムの魔術についてうまい事を言っていた、「三原山投身者が大都市の新聞で奨励されると諸国の投身志望者が三原山に雲集するようなものである。ゆっくりオリジナルな投身地を考えている余裕はないのみならず、三原山時代に浅間へ行ったのでは『新聞に出ない』のである。このように、新聞はその記事の威力によって世界の現象自身を類型化すると同時に、その類型の幻像を天下に撒き拡げ、あたかも世界中がその類型で充ち満ちているかの如き錯覚を起させ、そうすることによって、更にその類型の伝播を益々助長するのである」。類型化と抽象化とがない処に歴史家の表現はない、ジャアナリストは歴史家の方法を迅速に粗笨に遂行しているに過ぎない。歴史家の表現にはオリジナルなものの這入り込む余地はない、とまあ言う様な事は一般常識の域を出ない。僕は進んで問いたいのだ。一体、人はオリジナルな投身地を発見する余裕がないのか、それともオリジナルな投身地なぞというものが人間の実生活にはじめから存在しないのか。君はどう思う。僕はこの単純な問いから直ちに一見異様な結論が飛び出して来るのにわれながら驚いているのだ。現実の生活にもオリジナルなものの這入り込む余地はないのだ。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収)

ニュースになりさえしない事件、しかも遠い外国の出来事、たとえばシオニストがヨルダン川西岸で、しかも殺戮でさえなく、日常的かつ「些細な」暴力、《井戸に毒を入れ、木々を焼き払い、パレスチナ人をゆっくりと南に押しやってゆく》(ジジェク)――こんなことは念頭にさえ浮ばない。

いや、安倍晋三が日本の武器商人を引きつれて、イスラエルで商談をすれば、あなた方のうちのひとりでしかない「私」でも、すこしは調べてみようとするのかもしれない。


カレイドスコープ


もちろんシオニズム国家イスラエルもガザ地区からロケット攻撃を受けているのを知らないわけではない。「イスラエルを含むどの国家も、その領土と人々がロケット攻撃に被られている時に、じっとしていることはできない」(ヒラリー・クリントン)――だから「復讐」は正当化される・ ・ ・

《しかしパレスチナ人たちは、ヨルダン川西側地区が日々彼らに奪われている時に、じっとしているべきなのだろうか? 》(ジジェク

ところで、あなた方は、なぜ日本政府が武器商人の振舞いをしたときのみ、いきり立つのだろう? なぜ日本が武器輸出国の仲間入りをして悪いのだろう? ーーとまではけっして言うまい。だが下記のような国々の連中の商売を食い止めなければ、いくら日本が輸出を取りやめても同じことではないか?





もちろんこれらの問いもいくどもくり返された凡庸な問いでしかない。しかもイスラエル(ユダヤ人)も、パレスチナ(あるいはアラブ人)も、この半世紀以上を超えてのあいだに、それぞれひどい心的外傷事件を抱えている。どうやって彼ら相互のあいだの復讐を止めうるのか、などとは誰もが思いもつかないアポリアに相違ない。




サン=フォン) もしわしが他人から悪を蒙ったら、わしはそれを他人に返す権利、いや、進んでこちらからも悪を働く幸福さえ享有するだろう。 (マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』澁澤龍彥訳ーーー「血まみれの頭ーー〈隣人〉、あるいは抑圧された〈悪〉」より)




日本は平和憲法という世界史的理念を偶然にもわがものとしてきた。《ヨーロッパのライプニッツ・カント以来の理念が憲法に書き込まれたのは、日本だけです。だから、これこそヨーロッパ精神の具現であるということになる》(柄谷行人)ーーこの理念をすこしでも世界の国に共有してもらう方法が、ひょっとして「日本人であること」の一番肝腎なことなのだろうか。それはいささか自分だけよい子になるエゴイズムに見えないでもないにもかかわらず。

エマニュエル・トッドは、「シャルリ・エブド」オフィスにおけるテロ事件後の電話インタビューで次のように語っている(「仏テロ事件後のラ・マルセイエーズによる「情緒の昂揚」」より)。

フランスは中東で戦争状態にある。オランド大統領はイラクに爆撃機を出動させ、過激派を空爆している。ただ、国民はそれを意識していない。

真の問題はフランスが文化道義的危機に陥っていることだ。誰も何も信じていない。人々は孤立している。社会に絶望する移民の若者がイスラムに回帰するのは、何かにすがろうとする試みだ。

あなた方は、あるいは「私」は、日本という国はまだここまでの振舞いをするには至っていないはずだとひそかに得心し、安堵していていいものだろうか。トッドは同時に、《フランスが今回の事態に対処したいのであれば、冷静になって社会の構造的問題を直視すべきだ》とも語っている。

またしても、「社会の構造」、あるいは「システム」の問題だ、などとは言わないでおこう。そのシステムとは、究極的には、世界資本主義のシステムであり、そこからどうやって免れるかなどとの問いは考えても無駄だなどとは。《悲劇はこういうことです。私たちが現在保持している資本-民主主義に代わる有効な形態を、私も知らないし、誰も知らないということなのです。》(ジジェクーー絶望さえも失った末人たち


世界資本主義、--それはさらに具体的には、「新自由主義」というイデオロギーであると言えるのかもしれない(参照:世界資本主義のガン/イスラム対抗ガン)。

「帝国主義的」とは、ヘゲモニー国家が衰退したが、それにとって代わるものがなく、次期のヘゲモニー国家を目指して、熾烈な競争をする時代である。一九九〇年以後はそのような時代である。いわゆる「新自由主義」は、アメリカがヘゲモニー国家として「自由主義的」であった時代(冷戦時代)が終わって、「帝国主義的」となったときに出てきた経済政策である。「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。しかし、アメリカの没落に応じて、ヨーロッパ共同体をはじめ、中国・インドなど広域国家(帝国)が各地に形成されるにいたった。(第四回長池講義 柄谷行人講義要綱

そして新自由主義のバイブルとしてアングロサクソンたちに爆発的に読まれているのは、アイン・ランドである。

お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』ーー「エンロンEnron社会」を泳がざるをえない「文化のなかの居心地の悪さ」)