2017年3月15日水曜日

前回の図




前回この図を使用したが、これは次の図を垂直にしただけである。

( Paul Verhaeghe, 1999)


だから特に目新しいものではない。もちろんこの図の正否は議論があるだろうが。

Ⱥとは何かといえば、ラカンの至高のテーゼ、《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》のことであり、それを徴示するシニフィアンが S(Ⱥ)である。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme »は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)

S(Ⱥ)とは前期ラカンの記述から、一般には《大他者のなかの欠如のシニフィアン Le signifiant du manque dans l'Autre》とされているが、これは誤謬である。だが巷間ではいまだこの定義が流通している(参照:Algèbre lacanienne)。ようはこの定義ではファルスシニフィアン Φ の定義と区別できない。

これはジジェクやポール・バーハウが1990年代からくり返し強調していることだが、フランス本元でも上の「参照」の通りなので、日本においては実に「どうしようもない」。

1971年、ラカンはある誤解に対して対応した。すなわち、S(Ⱥ) が Φ、大他者のなかの欠如している象徴的ファルスと等しいものであると思われている誤解に対して。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。そのため、ラカンは、彼がS(Ⱥ) によって理解していることを、より鋭意に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は、次の考え方にかかわるからだ。すなわち、《大他者の大他者はない il n'y a pas d 'Autre de l'Autre》ことを。(ポール・バーハウ1999、PAUL VERHAEGHE ,DOES THE WOMAN EXIST?,1999)
S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行である。S(Ⱥ) とは、大他者のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「大他者の大他者はない」という事実、大他者の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具現化する。(ジジェク1995,Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation)

この相違の決定的な点は、欠如と穴の相違である。

穴の概念は、欠如の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカンと以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、空間は残ったままだ。欠如とは、空間のなかに刻まれた不在を意味する。欠如は空間の秩序に従う。空間は、欠如によって影響を受けない。これがまさに、ある要素が欠けている場に他の諸要素が占めることが可能な理由である。その結果、人は置き換えすることができる。置き換えとは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権威 legitimate authority である。

ちょうど反対のことが穴について言える。それは、ラカンが後期の教えでこの概念を詳述したように。穴は、欠如とは反対に、空間の秩序の消滅を意味する。穴は、組み合わせ規則の空間自体の消滅である。これが、Ⱥ の最も深い特性である。Ⱥは、ここで(以前のラカンと異なって)、大他者のなかの欠如を意味しない。そうではなく、むしろ大他者の場のなかの欠如、つまり穴、組み合わせ規則の消滅である。穴との関連において、外立 ex-sistence がある。それは、残余にとっての正しい場であり、現実界の正しい場、すなわち意味の追放の正しい場である。(ジャック=アラン・ミレール,Lacan's Later Teaching、2002、私訳)
欠如とは空間的で、空間内部の空虚 void を示す。他方、穴はもっと根源的で、空間の秩序自体が崩壊する点(物理学の「ブラックホール」のように)を示す。(ミレール、2006,Jacques‐Alain Miller, “Le nom‐du‐père, s'en passer, s'en servir,”ーー偶然/遇発性(Chance/Contingency)

ーーわたくしもこの数年でようやく判然としてきただけなので、エラそうなことはいえないが、いちいちなんたら突っかかってくるな、オレは説明係じゃないんだから。どこかの馬の骨のブログの記述だよ、これは。わかるかい? バカがなんたら記していると思って無視すればいいじゃないか?

まず上のことがわかってないやつに、S1なんて説明する気はないね。

そもそもアンコールの最後のほうに次の図があるだろ。オレが言ってんのは右側のS2とコネクトしたS1だよ。これはファルスで、1959年以降のラカン、超越的父の名から超越論的父の名への移行のラカンにとっては父の名だよ。そしてこのコネクトする以前のS1は見ての通り腐るほどある。

(ラカン、S20)

でS1 とはまた、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことであり(S17)、それが父の機能(縫合機能)を持てば、どんなシニフィアンでもよい、という風になる。

c'est très précisément cette insistance du Maître, cette insistance en tant qu'elle vient à produire… et je l'ai dit : de n'importe quel signifiant, après tout …le signifiant-Maître.(ラカン、S.17)

バカ、バカと連発したが、わたくしもバカの一員であることは記しただろ?
→ 「タワケたちの「超自我」

ただ相対的バカ度がちがうだけなんだからさ、自閉症スぺクラムではなしに、バカ度スペクトラムって言い方を流行らせたほうがいいじゃないかい?

上に日本においては「どうしようもない」としたが、誰がどうとはもはや言いたくない。

いわゆるラカン派大御所たちの文をすこし調べてみたらすぐわかる。ラカン専門家でもこうなんだから、そのあたりのラカン愛好家の評論家ってのか、とてつもないバカな「現代思想愛好者」はいまだこんな図を学会で発表してんだな。




ーーいやあほんとにご苦労さんなこった。とはいえこういったことを今頃いっているバカがいるのはやむえない。だが問題は、通常はラカンが否定神学といってしまったら、息の根をとめられて引退するのが標準的な学問の掟のはずなのに、その気配がマッタクないってことだな。「まぁ、世界とはその程度のものです」(蓮實重彦)っていう言葉が最近はしみじみわかるようになったよ。

ラカンが否定神学でないのは、次のジュパンチッチのメイヤスー批判が瞭然と示している。

偶然性を唯一の必然性として絶対化するメイヤスーの仕草は、思弁ではなく、観念論に陥っている。すなわち、「すべては偶然性である、この偶然性に必然性以外は」という彼の考え方。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した支えもない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なる形で、非全体(pas-tout)概念が、目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁することができ、そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)

ま、ああいった輩が存在するのはデリダやデリダ研究者あたりのバカの影響もあるんだろうが。

ラカンによる不安の定義は厳密な意味で、「欠如の欠如」 manque du manque である。それは、情け容赦なくデリダの主張を論破する。デリダによれば、ラカンの「男根至上主義的」主体理論において、《何かがその場所から喪われている。しかし欠如(ファルス)は決してそこから喪われていない》(J. Derrida, Le facteur de la vérité)と。

デリダの問題は、ラカンの現実界の次元を全く分かっていないことだ。デリダは、欠如を、大他者の大他者を支える内-象徴的要素 intrasymbolic element として、常に考えているように見える。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa、私訳)

ラカンはリチュラテール lituraterre、1971で、デリダさんのたぐいには《勘弁していただきたいものだ Qu'on me l'épargne Dieu merci !》と言ってるけどさ。もはやどう修正の仕様もないのさ。文句をいってもはじまらないよ、でも、なんであんな途方もないバカな学者や研究者たちを税金支払って支えてんだろ?

で、何の話だっけ? 左様なら、だよ。