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2017年11月6日月曜日

ラカンの「大他者の享楽」

翻訳者なら誰でも次のような苦労をするのだろうが、ラカンはことさら厄介らしい。

最も厄介なのは「ラカンの De」だそうである。

ーーブルース・フィンク、エクリ英訳 翻訳者巻末註より

De

This is, in my experience, the most difficult word to translate in Ecrits. Among its meanings: of, from, with, by, because of, thanks to, based on, by means of, constituted by, due to, by virtue of, since, by way of, in the form of, through, regarding, about, involved in, insofar as, and as. Lacan's use of de seems to me to be highly unusual among French authors, especially in "Subversion of the Subject."

Certain uses of de are particularly open to multiple interpretations, due to its function as either a subjective genitive or an objective genitive (or intentionally designed by Lacan to suggest both). Consider, in particular, formulations like le desir de l'Autre(see below) and la jouissance de l'Autre (is it the jouissance the Other has or the subject's jouissance of the Other?). 
Le desir de l'Autre

Apart from the usual meanings, "desire for the Other" and "the Other's desire" (only the latter of which is captured by the formula "the desire of the Other," since we say "desire for" not "desire of" something), it should be kept in mind that Lacan often uses the French here as a shorthand for saying "what the Other desires" or "the object of the Other's desire." For example, in the sentence, Le desir de l'homme, c'est le desir de l'Autre, one of the obvious meanings is that man desires what the Other desires. It is also implied that, as a man, I want the Other to desire me.


大他者の享楽 la jouissance de l'Autreについては、この de だけではない。もっと厄介な点がある。ポール・バーハウによれば、次の通り。

享楽はどこから来るのか? 大他者から、とラカンは言う。大他者は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な大他者である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者(異物)である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の大他者、まさに同じ表現(《大他者の享楽 la jouissance de l'Autre》)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる大他者 the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は大他者である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、大他者の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに混淆があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての大他者を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる大他者 the (m)Otherとしての大他者があり、シニフィアンの媒介として享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一、大他者から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。(ポール・バーハウ2009, PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、私訳)

バーハウの言っていることは、たとえば次のふたつの文が裏付けていると、わたくしは判断している。

大他者、それは身体である!L'Autre, …c'est le corps ! (ラカン、S14、10 Mai 1967 )
われわれにとって異者である身体 un corps qui nous est étranger (S23、11 Mai 1976)

彼に依拠すれば、アンコールの次の文はこう訳せるか?

大他者の享楽、大他者という身体の享楽 la jouissance de l'Autre, du corps de l'Autre(S20, 21 Novembre 1972)

なにはともあれ、彼の観点が仮に正しければ、日本でいままで注釈されてきている「大他者の享楽」は、ほとんど全滅の誤読のはずである。

ところでラカンは晩年、《大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre》というとき、《身体の享楽 jouissance du corps》はないのであろうか? まさか!

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼岸 Au-delà du phallus…ファルスの彼岸にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacans20, 20 Février 1973)
非全体の起源…それは、ファルス享楽ではなく他の享楽を隠蔽している。いわゆる女性の享楽を。…… qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine …(LACAN, S19, 03 Mars 1972)

ーーラカンが《他の享楽 autre jouissance》というときは、間違いなく身体の享楽だが、《大他者の享楽 jouissance de l'Autre》というときは、身体の享楽であったりそうでなかったりする場合がある、という指摘をポール・バーハウは別の論文でしている。

たとえば次の文に「話す身体 corps parlant」とある。

現実界、それは「話す身体」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient(Lacan,S20, 15 mai 1973 )

この「話す身体 corps parlant」が身体の享楽と等価な表現とされ、現在、主流ラカン派において中心的に取り扱われている語彙である。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性関係の不在 inexistence du rapport sexuel である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant である。

象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性関係の不在という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT
言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、自ら享楽する身体corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ーーというわけだが、わたくしはほぼ常にテキトウに訳しているので、皆さん、信用しないように! とくにポール・バーハウの観点が間違っていたら、わたくしの記していることは全滅である!!

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体がひとつになりっこない qu'en aucun cas deux corps ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 le sens de l'élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)
…J(Ⱥ)は享楽にかかわる。だが大他者の享楽のことではない。というのは私は、大他者の大他者はない、つまり、大他者の場としての象徴界に相反するものは何もない、と言ったのだから。

⋯⋯ J(Ⱥ) .Il s'agit de la jouissance, de la jouissance, non pas de l'Autre, au titre de ceci que j'ai énoncé : - qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, - qu'au Symbolique - lieu de l'Autre comme tel - rien n'est opposé,

大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autre。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [Ⱥ] の意味である。

il n'y a pas de jouissance de l'Autre en ceci qu'il n'y a pas d'Autre de l'Autre, et que c'est ce que veut dire cet A barré [Ⱥ]. (Lacan,S23, 16 Décembre 1975)

次の文も並べておこう。

大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre、それを徴示するのがS(Ⱥ) である…« Lⱥ femme 斜線を引かれた女»は S(Ⱥ) と関係がある。(ラカン、S20, 13 Mars 1973)
「大他者の(ひとつの)大他者はある il y ait un Autre de l'Autre」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。

La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(S23、16 Mars 1976)

※参照:女とは「異者としての身体」のこと