さてこのところ「ヨイコのための「享楽」」シリーズを記している。女性の享楽をめぐる記述もその系列である。
だが「享楽の現実界」とラカンが言うとき、「苦痛のなかの快」が享楽だけではないはずである。《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(S22)であり、外立ex-sistenceとはハイデガー用語に起源がある。すなわちエク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)とは、魂-身体の、エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen(エクスタシー的開け)でもあるのだ。
女性の享楽の「女性」とは、生物学的女性ではない、というのは基本ではある。それはすぐれて誠実でヨイコのラカン派注釈者ブルース・フィンクが書いている通り。
だがエクスタシーが得意なのは、やはり生物学的女性ではなかろうか? エクスタシー的キチガイは解剖学的女性のほうに多いのではなかろうか?
そしてラカンが次のように言うとき、生物学的男性について言っているようにしか思えない。
もちろんマヌケ女だって世の中にはいる。
だが男はオチンチン享楽のマヌケがほとんどではなかろうか?
ヨイコでないボクやアナタは、やはり生物学的男女を考えないわけにはいかないのである!
なによりもまず肝腎なのは、ティレシアスの言葉である。あの、ギリシア神話のなかの、男女両性になったとされるティレシアスの言明である。
さらにラテン語格言(ギリシャ人医師兼哲学者Galenによる)がある。post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier、すなわち「性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる」。女は悲しくならないのである。
少し前千葉雅也氏が次のようなツイートをしていた。
これは誰もが無意識的にはわかっている筈の古典的な話である。
さらに遡って由緒正しいシェイクスピアを引用したっていい。
男はヤッテしまえば、満足して、オオムネお仕舞である。《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)
そして女性は違うラシイのである・・・一度ヤッてしまうと、男と女の感じ方のその後はハサミ状に拡大してゆくことが多いラシイのである・・・
ボクは十代のころ次の文を読んで感心したことがある。
だがアウグスティヌスも森有正も、いささかマヌケ男観点に偏っているのは否めない。
なにはともあれ、モンテニューが言っているように精力絶倫男だって一日に十人が限界である。ところが女のほうは二十五人は軽くいける。この差は「絶対的」相違である。
20世紀に入ったって、わがアントニオーニ、わがソレルスは次のように言っている。
オチンチン享楽とオメコ享楽もしくは子宮享楽という「解剖学的差異」について、人は熟慮しなければならない。
それがワルイコのつとめである。
よく知られているように(?)、人間観察上、次のことは明らかである。
フロイトもほとんど「解剖学的に」次のように言っている。
女たちは多神教時代の(一神教的超自我なき時代の)ギリシア人なのである。
あああの女たちの至福な様!
他方、ーー去勢されていない「気狂いfolle 女」に対するーー「間抜け idiot 男」とは言語によって家畜化された男ということである。
ようするに、
ーーのであり、なぜなら、
ーーであるからではなかろうか?
※参照:「ラカン派的子宮理論」
21世紀のジェンダー研究における最大の不幸は、フェミニストのおねえさんがたがおおむね、かつてニーチェや、ニーチェに依拠してデリダがいったように、言語に囚われた男(ラカン用語ではマヌケ女)であって、エクスタシー親和性のキチガイ女ではないことである。
だが「享楽の現実界」とラカンが言うとき、「苦痛のなかの快」が享楽だけではないはずである。《現実界は外立するLe Réel ex-siste》(S22)であり、外立ex-sistenceとはハイデガー用語に起源がある。すなわちエク・スターシス ek-stasis (自身の外へ出る)とは、魂-身体の、エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen(エクスタシー的開け)でもあるのだ。
女性の享楽の「女性」とは、生物学的女性ではない、というのは基本ではある。それはすぐれて誠実でヨイコのラカン派注釈者ブルース・フィンクが書いている通り。
……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)は、ラカンが性別化と呼ぶもののテーマを我々にもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク2004, Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink)
だがエクスタシーが得意なのは、やはり生物学的女性ではなかろうか? エクスタシー的キチガイは解剖学的女性のほうに多いのではなかろうか?
「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。 (コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )
そしてラカンが次のように言うとき、生物学的男性について言っているようにしか思えない。
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)
もちろんマヌケ女だって世の中にはいる。
或る女性たちは、ファルス的意味においてのみ享楽する。これはシニフィアン・象徴界に結びつけられた享楽であり、すなわち、(象徴的)去勢に結びつけられた享楽である。(Florencia Farías、Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、2010)
だが男はオチンチン享楽のマヌケがほとんどではなかろうか?
ヨイコでないボクやアナタは、やはり生物学的男女を考えないわけにはいかないのである!
なによりもまず肝腎なのは、ティレシアスの言葉である。あの、ギリシア神話のなかの、男女両性になったとされるティレシアスの言明である。
性交の喜びを10とすれば、男と女との快楽比は1:9である。(テイレシアス)
さらにラテン語格言(ギリシャ人医師兼哲学者Galenによる)がある。post coitum omne animal triste est sive gallus et mulier、すなわち「性交後、雄鶏と女を除いて、すべての動物は悲しくなる」。女は悲しくならないのである。
少し前千葉雅也氏が次のようなツイートをしていた。
@masayachiba 聞いた話では、対男性のキャバの場合は、ぎりぎりまで店外の可能性を引き延ばすのがポイントなのだが、対女性のホストの場合は、比較的早めの店外で、一回寝てしまうことが、客を継続的に育てるのに有利だという。
これは誰もが無意識的にはわかっている筈の古典的な話である。
(F・サガンの小説にからめて)その女子学生は、中年の男性と一つの申し合わせをします。「明日のない感傷のない浮気をしよう」と。つまり、一つの情事の共犯者として、限られた期間の共同生活を申し出るわけだ。
スタートは、大そう勇ましいのだが、しかし結果は女性の側にとって香ばしくないことになることが多いようである。何故なら、男性にとっては肉体関係は恋の終点を意味しているが、女性にとってはそれが恋のはじまりとなることが多いからである。
この相違は、男女の生理の相違に原因している点が多いようで、それだけ宿命的なものといえよう。肉体で割切ったあとくされのない情事というものは、女性が申し出た場合にも結局その女性を哀しみのうちに取り残して終わりになりがちである。(「移り気な恋」吉行淳之介)
さらに遡って由緒正しいシェイクスピアを引用したっていい。
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
男はヤッテしまえば、満足して、オオムネお仕舞である。《得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。》(永井荷風『歓楽』)
人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
そして女性は違うラシイのである・・・一度ヤッてしまうと、男と女の感じ方のその後はハサミ状に拡大してゆくことが多いラシイのである・・・
ボクは十代のころ次の文を読んで感心したことがある。
アウグスティヌスという、五世紀の偉大な学者が、性欲によって、人間の罪は伝わると言ったが、僕はこの言葉に非常な興味をもっている。
性欲は人間の愛の根源であるとともに、またそれに影を投げかける。それがなけれぱ、すなわち肉交がなければ、愛はどうしても最後の一物を欠くという意識をまぬがれがたいと同時に、それは同時に愛に対して致命的になる要素をもっている。肉体のことなぞ何でもないという人のことを僕は信じない。それはなぜか、肉交は二人の間の愛がどういう性質のものであったかを究極的な形で暴露してしまうからだ。つまりその意味は、肉交には、人間の精神に様々な態度があるだけそれだけ多様な形態があり、しかもそれが精神におけるように様々な解釈の余地がなく、端的にあらわれてしまうからだ。
肉交は一つの端的な表現だ。それは愛の証しにもなるし、その裏切りにもなる。二つの性の和合にもなるし、一つの性による他の性の征服にもなる。もちろん僕は簡単な言葉を用いているが、和合の形をとる征服もあるし、征服の形をとる和合もある。要はその本質の如何にある。そうするとやはり根本は態度の問題になる。肉の保証を求めないほど完全な信頼があるとすれば、アンジェリコの画はそれを表わしているだろう。「精神」というものがそこに表われている。精神というものがあるとすれば、そういうものでしかありえない。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』)
だがアウグスティヌスも森有正も、いささかマヌケ男観点に偏っているのは否めない。
なにはともあれ、モンテニューが言っているように精力絶倫男だって一日に十人が限界である。ところが女のほうは二十五人は軽くいける。この差は「絶対的」相違である。
われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝(ティトゥス)とある皇后(メッサリナ)自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ『エセー』)
20世紀に入ったって、わがアントニオーニ、わがソレルスは次のように言っている。
「男は、ひとりの女の振舞いのすべてを分別をもって理解することはできない」、とアントニオーニは言う。「私はスタンダールではないが、二つの性のあいだの関係はつねに文学の中心的課題でした…人々が別の惑星へ行って暮らすようになっても、相変らず事情は同じでしょう! 私にとって、女性は、おそらく男性の知覚よりも深いそれをもつものです。たぶんそれは次のことのよるのでしょうーーでも私の言っているのは愚かなことですーー、つまり彼女は、自分のうちに男性を迎え入れるように物事を受けとることに慣れていて、彼女の快楽はまさにそれを受け入れることにある、ということです。彼女は現実を受け入れるつもりでいる、あえて言うなら、完全に女性的な同じ姿勢のうちに。彼女は、男性以上、場合に応じて、ぴったり合った解答を見つける可能性をもっているのです」
「完璧だ!」、ぼくが言う。「言うことなし! 一等賞! オスカー! 金の棕櫚! 銀のペニス! プラチナのクリトリス! ブロンズのアヌス! 彼は目録に載せられる…総括的レジュメ!…」 (ソレルス『女たち』)
オチンチン享楽とオメコ享楽もしくは子宮享楽という「解剖学的差異」について、人は熟慮しなければならない。
それがワルイコのつとめである。
善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』初出1946年)
よく知られているように(?)、人間観察上、次のことは明らかである。
「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)
フロイトもほとんど「解剖学的に」次のように言っている。
私はーー明言を躊躇うのではあるがーー、女性が考える正常な道徳観のレベルは、男性の考えるものとは異なっていると思わざるをえない。女性の超自我は、われわれが男性に期待するほど揺るぎなく、非個人的で、情動の源の影響を受けないものには決してならない。太古の昔から、女性は正義意識が男性に比べて薄いとか、生が持つ大いなる必然に従う心構えが弱い、といったいくつかの性格上の特質のために非難を浴びてきた。これは上述した超自我形成の変態のうちに充分な根拠を見出すであろう。われわれに両性の完全な平等と等価をおしつけようとしているフェミニストたちの反対にあったからといって、このような判断に迷う者はいないであろう……(フロイト『解剖学的な性の差別の心的帰結の二、三について』1925年)
女たちは多神教時代の(一神教的超自我なき時代の)ギリシア人なのである。
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 stärksten Instinkt、権力への意志 Willen zur Macht を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 unbändigen Gewalt dieses Triebs」に戦慄するのを見てとった。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1889)
あああの女たちの至福な様!
自我によって、荒々しいwilden 飼い馴らされていない欲動の蠢きungebändigten Triebregung を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動 gezähmten Triebes を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である。(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)
他方、ーー去勢されていない「気狂いfolle 女」に対するーー「間抜け idiot 男」とは言語によって家畜化された男ということである。
ようするに、
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)
ーーのであり、なぜなら、
男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)
ーーであるからではなかろうか?
※参照:「ラカン派的子宮理論」
21世紀のジェンダー研究における最大の不幸は、フェミニストのおねえさんがたがおおむね、かつてニーチェや、ニーチェに依拠してデリダがいったように、言語に囚われた男(ラカン用語ではマヌケ女)であって、エクスタシー親和性のキチガイ女ではないことである。
完全な女は、愛する者を引き裂くのだ …… わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている …… ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! …… ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ―― 女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……(ニーチェ『この人を見よ』)