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2018年2月21日水曜日

製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」

医療・教育・宗教を「三大脅迫産業」というそうだからひとのことはいえないが、罪や来世や過去の因縁などで脅かすことは非常に困る。また、自分の偉さやパワーを証明するために患者を手段とすることは、医者も厳に自戒しなければならないが、宗教者も同じであると思う。カトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス)に陥らないことが大切である。(中井久夫「宗教と精神医学」初出1995年『精神科医がものを書くとき』所収)

⋯⋯⋯⋯

いやあ、美しき魂の貴殿! シツレイながら、わたくしは基本的には「製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」」というスタンスなんだな、 いささか挑発的な表題だけどさ。

つまり、《若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である》という考え方を支持するね。

(新自由主義の)能力主義システムは、自らを維持するため、特定のキャラクターを素早く特権化し、そうでない者たちを罰し始めている。競争心あふれるキャラクターが必須であるため、個人主義がたちまち猖獗する。

また融通性が高く望まれる。だがその代償は、皮相的で不安定なアイデンティティである。

孤独は高価な贅沢となる。孤独の場は、一時的な連帯に取って代わられる。その主な目的は、負け組から以上に連帯仲間から何かをもっと勝ち取ろうとすることである。

仲間との強い社会的絆は、実質上締め出され、仕事への感情的コミットメントはほとんど存在しない。疑いもなく、会社や組織への忠誠はない。

これに関連して、典型的な防衛メカニズムは冷笑主義である。それは本気で取り組むことの失敗あるいは拒否の反映である。個人主義・利益至上主義・オタク文化 me-culture は、擬似風土病のようになっている。…表層下には、失敗の怖れからより広い社会不安までの恐怖がある。

この精神医学のカテゴリーは最近劇的に増え、製薬産業は莫大な利益を得ている。私は、若い人たちのあいだでの自閉症の診断の増大の中にこの結果を観察する。私の見解では、若年層における自閉症の増大は伝統的な自閉症とはほとんど関係がない。それは社会的孤立増大の反映、〈他者〉によって引き起こされる脅威からの逃走の反映である。(ポール・バーハウ2012,Paul Verhaeghe, Identity and Angst: on Civilisation's New Discontent,PDF)


このスタンスをとる以外に、次の現象を説明する方法はあるんだろうかね






あるいはこれを。

Top 3 Causes of the Autism Epidemic and What We Can Do About It


もちろん穏やか系の研究者による次のような説明があるのは知ってるさ(参照:現代の流行病「自閉症」)。

自閉症やASDはどうして急増しているのだろうか。自閉症の啓発に努める非営利団体Autism Speaksで主任科学者を務めるロブ・リング氏がまず指摘するのは、自閉症の診断基準であり、長年にわたって改訂が行われているDSM(精神障害の診断と統計の手引き)の1994年版「DSM-4」で、アスペルガー症候群が自閉症に加えられたことだ(それまでは「2000~5000人に1人」とされていた自閉症が、DSM-4以降、20~40倍に増加した。なお、2013年の「DSM-5」では、アスペルガー症候群はASDに包括された)。

リング氏はさらに、「(自閉症に関する)意識が確実に高まっているため、家族が早い段階で行動を起こし、(中略)早い年齢で専門家に疑問を投げかけるようになっており、そのことも発見の可能性を高めている」と米ハフィントン・ポストに対して述べている。

ほかにも、「親の年齢が上がると、(自閉症の子供の数が)やや増える可能性のあることがわかっている」とリング氏は指摘する(40歳以上の父親から生まれた場合、30歳未満の父親の場合の約6倍、30~39歳の父親と比較すると1.5倍以上とされる)。「遺伝と環境の間で起こる興味深い相互作用が、科学によって明らかになってきている」(「自閉症の子供」が急増している理由とは?2014年04月)

だが、これだけでは説得的ではないよ、やっぱり医療という「脅迫産業」のせいが大きいよ、あの自閉症激増とは。

自閉症の領野の拡大するとき、結果として市場にとってひどく好都合な拡大が生じる。まだ他にもある。現在の 「遺伝的自閉症」の主張と助長において、DSM は新しい市場を創造する。私は確実視している、数千ユーロの費用がかかる一回の遺伝テストが同じ薬品企業からすぐに提供されるだろうことを。(Agnes Aflalo, Report on autism,2012

別の言い方をすれば、 DSMに囚われの身の精神医学界全体の「症状」さ、あの自閉症激増は。

英国心理学会( BPS)と世界保険機関(WHO)は最近、精神医学の正典的 DSM の下にある疾病パラダイムを公然と批判している。その指弾の標的である「メンタルディスオーダー」の診断分類は、支配的社会規範を基準にしているという瞭然たる事実を無視している、と。それは、科学的に「客観的」知に根ざした判断を表すことからほど遠く、その診断分類自体が、社会的・経済的要因の症状である。(Capitalism and Suffering, Bert Olivier 2015,PDF)
DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断conceptually-driven diagnosis は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(⋯⋯)

精神医学診断における想定された新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている。 (“Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy. Paul Verhaeghe、PDF

ま、もちろんこういう主張をしたら、真摯に現場で自閉症と戦っている「美しき魂」たちを怒らすだろうがね。あの経験主義者たち、経験論者たちを。

だが彼等の観察そのものがDSMに依存してんだよ、あの裸の王様に。

T.S.クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。つまり、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、とする。(柄谷行人『隠喩としての建築』)

以下略、参照「経験論者のために

いやあすまんね、ひどい「偏見」を書いちまったよ

でも21世紀は退行の時代であるのは間違いないね。

私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出)

この世紀には石器時代人がウヨウヨしてんのさ、エビデンス主義者と呼ばれる連中が。

・逆説的なことに、エビデンス主義って、まさしくポスト真理なんですね。エビデンスって、「真理という問題」を考えることの放棄だから。エビデンスエビデンス言うことっていうのは、深いことを考えたくないという無意識的な恐れの表明です。

・根源的な問いを多様に議論するのをやめ、人それぞれだからという配慮で踏み込まなくなるというのは、精神医学の領域ですでに起こった変化だ。文明全体がそういう方向に向かっていると思う。残される課題は「現実社会の苦痛にどう対処するか」だけ。そもそも苦痛とは何かという問いは悪しき迂回になる。(千葉雅也ツイート)


せめて「父なき」時代の新自由主義社会では、自閉症という人間の原症状に近づいてゆくというぐらいの初歩的説明はしなくちゃな。

自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (ミレール 、Première séance du Cours、2007、pdf)

ようはS1という父性隠喩のタガメがはずれれば、S(Ⱥ)という自閉症的核が裸になりやすいとね、これがーーたぶんありうる、だが誰も明瞭にはそういっているのを知らないーーラカン派的な解釈だろうな(参照:自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである)。




この見解をとるなら、「製薬産業ボロ儲けのための疾病区分「自閉症」」とはいささか極論すぎると言ってもいいさ、それ以外の説明はーーわたくしがわずかに知る限りでは、かつまたわたくしの偏った頭ではーー寝言にすぎないな。とはいえこれはわたくしのヒュブリスである可能性を否定するつもりはないけどな、すくなくとも21世紀の「退行」寝言派向けのヒュブリスさ。

臨床的観点からは、主人の言説から資本家への言説は、現代的精神病理の中の、ある変貌において証拠づけられている。このいわゆる現代的症状については、ラカン派のあいだで数多くの議論がなされている(例えば Miller, 1993; Loose, 2002; Verhaeghe, 2004, 2014; Voruz and Wolf, 2007; Goldman-Baldwin et al., 2011; Redmond, 2013)。

この現代的症状は、依存症、パニック障害、境界例等を含むものだが、解読されるべき隠喩的構築物ではなく、圧倒的な剰余享楽(すなわち心的に破壊的影響をもたらす身体上の緊張)に直面した主体の表出あるいは反応として捉えられている。言い換えれば、これらの症状は、もはや本質的には他者との関係における相剋や不可能性を反映しているのではなく、根本的「非関係non-rapport」との遭遇への反応における危機である。(Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis Stijn Vanheule、2016、PDF

ーーより詳しくは、参照:「父の溶解霧散」後の「文化共同体病理学」

このStijn Vanheuleの言ってる「非関係」、そのの症状とは論理的には、《「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)》という自閉症の症状だな、ラカン派的な意味のね。

穴(トラウマ)、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(ラカン、S22, 17 Décembre 1974)

この穴ȺのシニフィアンがS(Ⱥ)で、自閉症的「一者の享楽 la jouissance de l'Un」、自ら享楽する se jouit 身体のシニフィアンでもあるから(参照:自閉症とは「二」なき「一」(自己状態 αὐτός-ismos)のことである)。