や、いくらか冗談めかして引用したのはたしかだけど、マジだよ
男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)
以下、ラカンのセミネール20(アンコール)の性別化の式(左側が男性、右側が女性)
ーー吉行の言っている「子宮」を「身体」にかえれば、彼はぴったりこの式の核心部分のひとつを言っている。
……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶもののテーマにかかわる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004、私訳)
「他の享楽 autre jouissance」とは、「女性の享楽 jouissance féminine」、「身体の享楽 jouissance du corps」ことでもある。
【身体の享楽】
私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、常に私が知っていること以上のことを言う。
Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. (Lacan, S20. 15 Mai 1973)
ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (Lacan,20 Février 1973)
ひとりの女、たとえばそれは、他の身体の症状である。
Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569、1975)
【女性の享楽】
……自ずと、君たちすべては、私が神を信じている、と確信してしまうんだろう、(が)私は、女性の享楽を信じているのだ。
……naturellement vous allez être tous convaincus que je crois en Dieu :je crois à la jouissance de « L femme »(Lacan,S20 février 1973)
「大他者の(ひとつの)大他者はある」という人間のすべての必要(必然)性。人はそれを一般的に〈神〉と呼ぶ。だが、精神分析が明らかにしたのは、〈神〉とは単に〈女 〉« La femme » だということである。
La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ».(ラカン、セミネール23, 16 Mars 1976)
【女=非全体】
かつまた女性の享楽とは、ファルス享楽の非全体に外立 ex-sist する享楽でもある。
男でないすべては女だろうか? 人はそれを認めるかもしれない。だが女は非全体 pas « tout » なのだから、どうして女でないすべてが男だというのかい?
Tout ce qui n'est pas homme… est-il femme ? On tendrait à l'admettre. Mais puisque la femme n'est pas « tout », pourquoi tout ce qui n'est pas femme serait-il homme ? (S.19, 10 Mai 1972)
【ファルス享楽】
他方、ファルス享楽とは性別化の式の男性側にある享楽、シニフィアン・象徴界に結びついた享楽である。
男性は、まったく、ああ、ファルス享楽 jouissance phallique そのものなのである。
l'homme qui, lui, est « tout » hélas, il est même toute jouissance phallique [JΦ](Lacan,La troisième,1974)
…………
ここで Geneviève Morel の注釈をきいてみよう。
ーーやあちょっとこわそうなひとだけど。
◆READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality EDITED BY Suzanne Barnard, Bruce Fink、2002より
私は次のように主張する立場をとる。すなわち、ヒステリーと女性性は、ヒステリー的構造を持つとされる同じ女のなかに共存することが可能であり、したがって、ヒステリーとは常に部分的であり、女は彼女のヒステリーを超えてゆく、と。
私たちはこれを、開かれた集合としての非全体の女を表象することによって、シンプルに描写しうる。…ヒステリーは、それ自体の境界を含んだ閉ざされた「全体」として表象されうる。そして非全体の集合内部に位置づけられる。ヒステリーは「男の部分を演じる」ことによって構成される全体であり、それは「男である」こととは一致しない。(Geneviève Morel、FEMININE CONDITIONS OF JOUISSANCE)
Geneviève Morelの注釈も冒頭の吉行淳之介の文をより精緻に補ってるだけさ。
《ヒステリーは「男の部分を演じる」ことによって構成される全体であり、それは「男である」こととは一致しない》、そしてその先に「非全体」としての身体があるわけで。
女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行)
ーーぴったりだろ?
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)
本来は褒め言葉なんだけどな。
蓮實重彦)…… そうした反応が起こるのは、女流作家の方が、〈子宮感覚〉でものを考えていらっしゃるからでしょうか(笑)。
金井美恵子 むしろ、その反対ではないでしょうか。その子宮感覚というのが、ほとんど男の批評家には単に彼等が肉体的にそれを持っていないということだけではなしに、理解できないわけですし、子宮で考えるということを、ほとんどの女流作家は、非常な軽蔑的な言葉として受け取っちゃうわけで、ほとんど、頭というものがない、と言われたと感じるようですね。批評家のほうは子宮感覚というものがどういうものであるかということを理解せずに使っているわけですから、これもまた、頭がからっぽイクォール男根がない、という意味で使用いたしますね。本来だったらほめ言葉かもしれないものを、妙なところでお互いに誤解したまま使い合っているという感じがしますね。(「『文章教室』では何を習うべきか」)
《中上健次は私の家に泊っていった時、ホモの家に来たみたいだな、と言ったものですが、私はといえば、彼を、まったくこれは中上のオバだ、と思いましたし、第一、彼の書く小説は、ある意味で女性的です――そして、それが秀れた小説の特徴なのです。》(金井美恵子 『小説論』)
私は完全なヒステリーだ、……症状のないヒステリーだ[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Lacan,Le séminaire ⅩⅩⅣ、1976,12.14)