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2018年5月29日火曜日

身体は穴である

人間は彼らに最も近いものとしての自らのイマージュを愛する。すなわち身体を。単なる彼らの身体、人間はそれについて何の見当もつかない。人間はその身体を私だと信じている。誰もが身体は己自身だと思う。(だが)身体は穴である C'est un trou。

L'homme aime son image comme ce qui lui est le plus prochain, c'est-à-dire son corps. Simplement, son corps, il n'en a aucune idée. Il croit que c'est moi. Chacun croit que c'est soi. C'est un trou. (Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974, cahiers cliniques de Nice)

ラカンは上の発言とほぼ同時期に次のように言っている。

現実界 [ le réel ] は外立 [ ex-sistence ]
象徴界 [ le symbolique ] は穴 [ trou ]
想像界[ l'imaginaire ] は一貫性 [ consistance ]

(ラカン、S22、18 Février 1975) 

象徴界は、穴とは別に「非一貫性(非全体 pastout)」であるとも示されている。 そしてその非一貫的象徴界の裂け目に外立(外に出る)のが、現実界だと。

とすれば、「身体は穴」と言ったとき、「身体は象徴界だ」と言っているのだろうか。 事実、ラカンはセミネール14の段階では、大他者は身体であると言っている。《l'Autre, là, tel qu'il est là écrit, c'est le corps ! 》(S14)

だが1974年の段階では、身体のイマージュに対しての穴と言っているのだから、セミネール23に出現するボロメオ結びの図における、想像界と現実界の重なり箇所の「真の穴 VRAI TROU」を言いたいのだろうか。




結論を先に言ってしまえば、わたくしの読解では、身体は穴と言ったときの穴は、「真の穴」が相応しい。

たとえば、それは Florencia Farìas の以下の文が暗に示している。

私たちが知っていることは、言語の効果 effets du langage のひとつは、主体を身体から引き離すことである。主体と身体とのあいだの分裂scission・分離séparationの効果は、言語の介入によってのみ可能である。ゆえに身体は構築されなければならない。人はひとつの身体にては生まれない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。すなわち、身体は言葉の効果 effet de la paroleである。

忘れないでおこう、ラカンは鏡像段階の研究を通して、主体は自らを全体として・統合された身体として認識するために、他者が必要だと論証したことを。幼児が自分の身体のイマージュを獲得するのは、他者のイマージュとの同一化 identification à l'image de l'autre を通してのみである。

しかしながら、言語の構造、つまり象徴秩序へのアクセスが、想像的同一化の必要不可欠な条件である。したがって、身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である l'image du corps est donc un effet qui vient du symbolique。
ヒステリーの女性は、身体のイマージュによって、女として自らを任命しようse nommer comme femme と試みる。彼女は身体のイマージュをもって、女性性 la féminité についての問いを解明しようとする。

これは、女性性の場にある名付けえないものを名付ける nommer l'innommable à la place du féminin ための方法である。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

ラカンのボロメオ結びの基本的な読み方は次の通りである。

①緑の環(象徴界)は赤の環(想像界)を覆っている(支配しようとする)。
②赤の環(想像界)は青の環(現実界)を覆っている。
③青の環(現実界)は緑の環(象徴界)を覆っている。


ここでの文脈では、つまり Florencia Farìasの云う《身体のイマージュの構成は象徴界から来る効果である》という前提のもとで言えば、

①「形式・機能としての身体」(象徴的身体)は、「身体のイマージュ」(想像的身体)を支配している。

②想像界としての「身体のイマージュ」は、現実界としての「身体の実体」(自ら享楽する身体)を支配する。

身体の実体 Substance du corps は、自ら享楽する se jouit 身体として定義される。(ラカン、S20、19 Décembre 1972ーー「女性の究極的パートナーは孤独である」 )

この「自ら享楽する身体」とは、「話す身体」のことである。

現実界、それは「話す身体 corps parlant」の神秘、無意識の神秘である Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient (Lacan, S20. 15 Mai 1973ーー「ラカンの性別化の式のデフレーション」)

③現実界としての「自ら享楽する身体」は、「象徴的身体」に穴を開ける。

とはいえ、《身体のイマージュの構成は象徴界から来る》のだから、象徴界+想像界としての「身体のイマージュ」と「自ら享楽する身体」の重なり箇所が、「真の穴」ということになる。

この「真の穴」の箇所を、ラカンは上に掲げた図が示される同じセミネール23で、JȺとも図示している。


JȺのȺとは、穴 trou ことである。

Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, 2001ーー欠如と穴(簡略版)

ラカン自身による発言も掲げよう。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)
リビドーは、その名が示唆しているように、穴に関与せざるをいられない。身体と現実界が現れる他の様相と同じように。 La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou, tout autant que des autres modes sous lesquels se présentent le corps et le Réel (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

したがって、JȺとは、穴の享楽、身体の穴の享楽、原抑圧の享楽と読むことができる。

原抑圧=固着(原固着)であり、ラカンのサントームとは固着(欲動の固着)のことなのだから(参照)、サントームの享楽でもある。

サントームの身体 Le corps du sinthome、肉の身体…それは常に自閉症的享楽 jouissance autiste・非共有的享楽を意味する。(Pierre-Gilles Guéguen, 2016、Au-delà du narcissisme, le corps de chair est hors sens)

Pierre-Gilles Guéguenの云う《自閉症的享楽 jouissance autiste》が《自ら享楽する身体》にかかわる。

・自ら享楽する身体 corps qui se jouit…、それは女性の享楽 jouissance féminine である。

・自ら享楽する se jouit 身体とは、フロイトが自体性愛 auto-érotisme と呼んだもののラカンによる翻訳である。「性関係はない il n'y pas de rapport sexuel」とは、この自体性愛の優越の反響に他ならない。(ミレール2011, L'être et l'un)

これらはすべて「原抑圧の享楽」とすることができる。

・欲動の現実界 le réel pulsionnel がある。私はそれを穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動を特徴づけたことを。

・原抑圧 Urverdrängt との関係…原起源にかかわる問い…私は信じている、(フロイトの)夢の臍 Nabel des Traums を文字通り取らなければならない。それは穴 trou である。(ラカン, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

ラカンはこのザルツブルクで、「臍の緒 cordon ombilical 」という言葉まで口に出しているが(参照)、それは遡ってセミネール11の「胎盤の喪失」という言明とともに読むことができる。

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を象徴する。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. (ラカン、S11、20 Mai 1964)

これらから考えると、わたくしの理解では、究極的な原抑圧とは、「原母との融合(と分離)」にかかわる。

これは原マゾヒズムにおおいに関係する(参照)。

享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (ラカン、S23, 10 Février 1976)

1919年までのフロイト(『子供が叩かれる』までにフロイト)とは異なり、1920年以降のフロイトにとっては、《マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus 》(フロイト 1933、『新精神分析入門』)

ーーすなわち自己破壊欲動は、他者攻撃欲動よりも先にある。そして、

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 」)

ところでフロイトは、原抑圧をめぐって「引力」という語を口にしている。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧 Verdrängungen は、後期抑圧 Nachdrängen の場合である。それは早期に起こった原抑圧 Urverdrängungen を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力 anziehenden Einfluß をあたえるのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして最晩年の草稿では、この引力は、エロスと結びつけられて語られている。

長いあいだの躊躇いと揺れ動きの後、われわれは、ただ二つののみの根本欲動 Grundtriebe の存在を想定する決心をした。エロスと破壊欲動 den Eros und den Destruktionstrieb である。(⋯⋯)

エロスの目標は、より大きな統一 Einheiten を打ち立てること、そしてその統一を保つこと、要するに結び合わせる Bindung ことである。対照的に、破壊欲動の目標は、結合 Zusammenhänge を分離 aufzulösen(解体)すること、そして物 Dingeを破壊 zerstören することである。(⋯⋯)

生物学的機能において、二つの基本欲動は互いに反発 gegeneinander あるいは結合 kombinieren して作用する。(⋯⋯)性行為 Sexualakt は、最も親密な結合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。

この同化/反発化 Mit- und Gegeneinanderwirken という二つの基本欲動 Grundtriebe の相互作用は、生の現象のあらゆる多様化を引き起こす。二つの基本欲動のアナロジーは、非有機的なものを支配している引力と斥力 Anziehung und Abstossung という対立対にまで至る。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

原抑圧とは、ラカン派的にはブラックホールでもある(参照)。まさに引力としての原抑圧。

ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女性のある形態の光景、彼女のヴェールが落ちて、唯一ブラックホール un trou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(ラカン, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir , Écrits, 1966)

結局、「原抑圧の享楽」、あるいは「サントームの享楽」とは、大他者(その代表的なものは母なる大他者)との融合欲動にかかわるとわたくしは考える。それは母なる大地との融合(つまり死)欲動と捉えてもよい。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

だが真に融合してしまえば死が訪れる。ゆえに引力にたいする斥力が生まれる。

大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、人は穴のまわりの循環運動の生を送るのである。

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

無を食べる女たち」で記した女たちは、(象徴界には存在しないが機能する)「無」というブラックホールの引力・エロス欲動の引力に最も過剰に誘引された女たちである(斥力があまり機能しないままの)。