ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用abus de métaphoreだ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない il n’y a pas de chose qui supporte l’imaginaire, le symbolique et le réelから。私が言っていることの本質は、性関係はないil n’y ait pas de rapport sexuel ということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ,(ラカン、S26, La topologie et le temps 、9 janvier 1979、[原文])
これを前提として「利用」するだけだな、ボクは。
だから、セミネール23に現れるサントームの図は、最低限、眉唾で眺めなくちゃいけない。
この「サントーム」は、見てのとおり、想像界・象徴界・現実界を支えるサントームΣなんだけどさ、でも《実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もない》って「告白」してんだから。
だから、もし「利用」するとしたらーー「身体は穴である」で記したようにーー、せいぜい「真の穴」のほうのボロメオ結びだね。こっちの穴が真のサントーム(原症状、欲動の固着、原抑圧)だよ。
我々はみな現実界のなかの穴を塞ぐ(穴埋めする)ために何かを発明する。現実界には 「性関係はない」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」をつくる。…tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ».(ラカン、S21、19 Février 1974 )
これがミレールが次のように言っていることだ。
「人はみな妄想する」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, dans «Vie de Lacan»,2010)
すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的結びつき lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlantである。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)
つまり、 想像界・象徴界・現実界を支えるサントームΣのほうは、ラカンの「妄想」だよ(※参照:人はみな穴埋めする)。
マルクスの言い方ではフェティッシュ(「自動的フェティッシュautomatische Fetisch」と「自動的主体 automatisches Subjekt 」等)だ。
そしてラカンの「非全体」とは、《無根拠であり非対称的な交換関係》(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』)とほぼ等価であり、マルクス的には性的非関係というより人間のコミュニケーション関係自体が、フェティッシュに支えられている。
ま、べつに「妄想」したり「フェティシスト」であることが悪いわけじゃないけどさ(これは、現代ラカン派用語では「一般化妄想」、「一般化倒錯」(参照)ってわけだよ)。
ラカンは1978年に言った、 ‘tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant'、すなわち「人はみな狂っている、人はみな妄想する」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、PDF)
人は妄想に耽って、まがいの性関係(あるいはコミュニケーション関係)に切磋琢磨したらよいのである・・・
幻想とは、象徴界(象徴化)に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998)
妄想とは、侵入する享楽に意味とサンス(方向性)を与える試みである。(Frédéric Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE: CLINICAL ILLUSTRATIONS AND IMPLICATIONS、2004)
クンデラが理想的な性関係のあり方について書いてんな、これしかないね。
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。(クンデラ『笑いと忘却の書』)
以上、「神の笑いのこだま」の記述でした。
「人間は考え、神は笑う L'homme pense, Dieu rit」という、すばらしいユダヤのことわざがあります。この格言に触発されて、私は好んでこんな想像をしています、ある日フランソワ・ラブレーが神の笑いを聞き、こうして最初の偉大なヨーロッパ小説のアイデアが生まれた、と。私は、小説という芸術が「神の笑いのこだま l'écho du rire de Dieu」としてこの世に生まれてきた、という考えが気に入っています。(クンデラ『小説の精神』)