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2018年5月30日水曜日

カント的転回とボロメオ結び(柄谷行人)

ボロメオ結びの誤謬」で、いくらか冗談めかして記してしまったが、ボロメオの環は使用できるところは使用したらよいのであって、つまり形式的に考える上ではとても役に立つ。

それをはじめて知ったのは、いままで何度か記してきたが、柄谷行人によるボロメオへの言及である(参照:母の三界)。

物自体、現象、仮象という三つの概念は、一組の構造をなしている。つまり、そのどれかを捨てても根本的に意味が失われるのである。もちろん、われわれもこの古くさい「物自体」という言葉を廃棄してもよい。が、これらの構造だけは手放すわけにはいかない。たとえば、精神分析において、ラカンが定立した、「現実的なもの」・「象徴的なもの」・「想像的なもの」という区別は、明瞭にカント的である。このように、物自体、現象、仮象という三つの 概念が別の言葉でも言い換えられるということは、それらが超越論的に見出される一つの「構造」であること、カントの言葉でいえば、アーキテクトニック(建築術)であることを意味する。カント自身が、それを隠喩として語った。(柄谷行人「英語版への序文」、『隠喩としての建築』所収)
フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

いまはトランスクリティークにおける記述を使って図示する。




これも何度も引用しているが、ボロメオ結びの基本的読み方は次の通り。

ボロメオ結びにおいて、想像界の環は現実界の環を被っている。象徴界の環は想像界の環を被っている。だが象徴界自体は現実界の環に被われている…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE 1999、DOES THE WOMAN EXIST? )

さらに、柄谷は次のようにも記している。

近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

これも図示しよう(ネーションを共同体、ステートを国家として)。




共同体は資本制を覆い隠すのである。そして国家は共同体を覆う。だが資本制は国家を覆う(この考え方は、現在の日本を考えるうえでも、とても役に立つ。財政破綻の恐怖が、安倍政権をしんに衝き動かしているのは瞭然としている。だが日本共同体は、その財政破綻の現実をいまだ覆い隠そうとしている)。

すくなくともある時期以降の共同体は、国家(象徴形式)によって構成されている。

カントは、経験論者が出発する感覚データはすでに感性の形式によって構成されたものであると述べた。(柄谷行人『トランスクリティーク』) 
彼(カント)が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(同上)

そして国家とは資本に駆動されているのはいうまでもないだろう。

ジジェクにも同様の記述がある。

They relate to each other like the ISR triad mentioned above: the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy (ZIZEK, Iraq: The Borrowed Kettle、2004)

すなわち民主的イデオロギーとしての想像界、政治的ヘゲモニーとしての象徴界、エコノミー(経済)としての現実界。




さらにもうひとつ、柄谷を引用しよう。

ここで、カントにいささかも言及しないでなされた「カント的転回」……の近年におけるめざましい例として、ジュディス・バトラーの『身体こそが問題だ』1993をあげておきたい。彼女は前著『ジェンダー・トラブル』において、セックス/ジェンダーの区別に関して、文化的社会的なカテゴリーとしてのジェンダーを重視した。これは生物学的に見られた性別を疑うために不可欠な過程である。しかし、それは逆に観念論に導かれる。

《もしジェンダーが性の社会的な構築物であるなら、そして、その構築によってしかこの「性」に近づけないとしたら、性はジェンダーに吸収されてしまうだけでなく、「性」は、それに関して直接的に接近できないような前言語的な場においてレトロアクティブに設定される、何か虚構のようなもの、おそらくファンタジーのようなものになってしまうように見える》(Bodies That Matter)。

だが、sex(body)には、社会的カテゴリーを変えるだけではどうにもならないものがある。彼女はそうした言語論的観念論から「唯物論」に転回する。いいかえれば、sex(body)をgender(category)が吸収することができない「外部」として再導入する。むろん、このとき、彼女はたんに生物的な身体(感覚)に戻ったのではなく、それもまた身体(感性形式)による構成であることーーーしかし、それは社会的カテゴリーにとっては所与性としてあらわれるーーーを見出したのである。いいかえれば、彼女はこれまでの観念論的思考と経験論的思考のいずれをも批判する立場を提起したのであって、それを「唯物論」と呼んでいる。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章注)



バトラーは、次の方法で、ジェンダー概念の限界に遭遇したのである。

現在、真の唯物論者である唯一の方法は、観念論をその限界まで突き進めることである。(ジジェク、Absolute Recoil[absoluter Gegenstoß「絶対的突き返し」]、2014)

そもそもわたくしが「身体は穴である」で次のように記したヒントは、上の柄谷=バトラーにある。

①「形式・機能としての身体」(象徴的身体)は、「身体のイマージュ」(想像的身体)を支配している。

②想像界としての「身体のイマージュ」は、現実界としての「身体の実体」(自ら享楽する身体)を支配する。

③現実界としての「自ら享楽する身体」は、「象徴的身体」に穴を開ける。



というわけで、わたくしはラカンからではなく、柄谷行人からボロメオ結びの利用法を教えられた。