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2018年3月22日木曜日

母の三界



ーー「「形式・イマージュ・無」(ゴダール)」にて上の図を示したが、そこで記したことを繰返せば、この図はラカンのボロメオ結びに準拠している。






ボロメオ結びの最も基本的な読み方は、

緑の環(象徴界)は赤の環(想像界)を覆っている(支配しようとする)。
赤の環(想像界)は青の環(現実界)を覆っている(支配しようとする)。
青の環(現実界)は緑の環(象徴界)を覆っている(支配しようとする)。


現代ラカン派では、前回記したように、「象徴界+想像界」/「現実界」と捉えて語られることが多い。すなわち、「象徴界+想像界」は「現実界」に支配されている、と。

ラカンはセミネール18で、われわれの現実は「見せかけの世界 le monde du semblant」(S18)と要約できることを言っているが、これは「象徴界(+想像界)」としての「見せかけ semblant」である。

たとえば、次のミレール文における「見せかけ」とはその意味である。

すべてが見せかけ semblant ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ジャック=アラン・ミレール 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

とはいえ象徴界と想像界の区別が蔑ろにされているわけではない。

ここでジジェクの簡潔なラカンの三界(象徴界・想像界・現実界)の説明を掲げる。

ラカンによれば、人間存在の現実は、象徴界・想像界・現実界という、たがいに絡み合った三つの次元から構成されている。この三幅対はチェスに例えると理解しやすい。チェスをやる際に従わなければならない規則、それがチェスの象徴的次元である。純粋に形式的・象徴的な視点からみれば、「騎士(ナイト)」は、どういう動きができるかによってのみ定義される。この次元は明らかに想像的次元とは異なる。想像的次元では、チェスの駒はどれもその名前(王、女王、騎士)の形をしており、それにふさわしい性格付けがなされている。…最後に、現実界とは、ゲームの進行を左右する一連の偶然的で複雑な状況の全体、すなわちプレイヤーの知力や、一方のプレイヤーの心を乱し、時にはゲームを中断してしまうような、予想外の妨害などである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)

この考え方は多くのシニフィアン(=表象Vorstellung)に適用可能である。

フロイトには、「語表象 Wortvorstellungen」、「事物表象 Sachvorstellungen」、「モノ表象 Dingvorstellungen」という表象をめぐる語彙があり、それぞれ象徴界、想像界、現実界にかかわるだろうことを「表象と現象と仮象」でみた。

ここで最も身近な「母」というシニフィアン(表象)の三界を考えてみよう。





この読み方は、上に記したのと同様である。すなわち、

・象徴的母(機能としての母)は想像的母を支配しようとする。
・想像的母(イメージとしての母)は、リアルな母を支配しようとする。
・だがリアルな全能の母は、機能としての象徴的母を支配しようとする。

以下、それぞれの項についていくらか詳しく記述する。


【象徴的母】

象徴的母とは、世話をする機能の母であり、現前‐不在の(言ったり来たりする)母である。

人間は二つの根源的な性対象、すなわち自己自身と世話をしてくれる女性の二つをもっている der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib(フロイト『ナルシシズム入門』1914)

幼児にとって、まず原初にあるのは分離不安である。世話をしてくれる象徴的母は。いつも幼児のかたわらにいるわけではない。ゆえにラカンは、《行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient》《現前-不在 présence-absence》の母(ラカン、S5)と言う。これはジジェクの云うチェスの駒の象徴的動きのようなものだろう。


【想像的母】

次は想像的母である。これはなによりもまず母のイメージである。優しかったり厳しかったり、執着的だったり怠慢だったり、美しかったり醜かったりする母である。すなわちチェスの駒のイメージ(女王や馬、歩兵)のようなものである。

われわれは、母性固着から逃れえていない人間をマザーコンプレクスと呼ぶだろう。

母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への従属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版 1940 年)

通常、マザコンとは、上に記した「母のイメージ」のコンプレクス(観念複合)として捉えられている筈である。

フロイト自身の記述においても「母のイメージ」として(基本的には)捉えうる。

娼婦愛 Dirnenliebe…娼婦のような対象を選択する愛の条件 Liebesbedingung は、直接的にマザーコンプレックス Mutterkomplex に由来する(フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について Uber einen besonderen Typus der Objektwahl beim Manne』1910年、私訳ーー「最初の誘惑者 Verführerin」)

だが本来、マザーコンプレクスというときには、象徴的な母(あるいはリアルな母)についても考えねばならない。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。だが⋯⋯恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもない(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)


【リアルな母】

最後に、リアルな母である。これは分かりにくい筈なので、いくらか豊富な引用をしてその意味するところを示そう(参照:愛の起源は腹が減ったである)。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能の母 omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)

まずこのようにして幼児にとっての全能の 「ファリックマザー la mère phallique」(ラカン、S4)が現われるのである。この全能の母、リアルな母とは、貪り喰う母でもある。

メデューサの首の裂開的穴は、幼児が、母の満足の探求のなかで可能なる帰結として遭遇しうる、貪り喰う形象である。Le trou béant de la tête de MÉDUSE est une figure dévorante que l'enfant rencontre comme issue possible dans cette recherche de la satisfaction de la mère.(ラカン、S4,  27 Février 1957)

この「貪り喰う」という表現はペトロの手紙に起源がある。

身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを貪り喰おうと探し回っています。diabolus tamquam leo rugiens circuit quaerens quem devoret(『ぺトロの手紙,五八』)

フロイトも次のように記している。

母への依存性 Mutterabhängigkeit のなかに…パラノイアにかかる萌芽が見出される。というのは、驚くことのように見えるが、母に殺されてしまう(貪り喰われてしまう aufgefressen)というのはたぶん、きまっておそわれる不安であるように思われる。Denn dies scheint die überraschende, aber regelmäßig angetroffene Angst, von der Mutter umgebracht (aufgefressen?) zu werden, wohl zu sein.(フロイト『女性の性愛』1931年)

こうしてラカンは鰐の母(鰐の口の母)という隠喩を言い放つようになる。

精神分析家は益々、ひどく重要な何ものかにかかわるようになっている。すなわち「母の役割 le rôle de la mère」に。…母の役割とは、「母の惚れ込み le « béguin » de la mère」である。

これは絶対的な重要性をもっている。というのは「母の惚れ込み」は、寛大に取り扱いうるものではないから。そう、黙ってやり過ごしうるものではない。それは常にダメージを引き起こすdégâts。そうではなかろうか?

巨大な鰐 Un grand crocodile のようなもんだ、その鰐の口のあいだにあなたはいる。これが母だ、ちがうだろうか? あなたは決して知らない、この鰐が突如襲いかかり、その顎を閉ざすle refermer son clapet かもしれないことを。これが母の欲望 le désir de la mère である。(ラカン、S17, 11 Mars 1970)

ようするに、幼児の原不安は、誰もが思い当たるだろう「分離不安」だけではなく、フロイト・ラカン派においては「融合不安」がある。融合不安とは、最初の母なる大他者の原穴との遭遇にかかわる。「汝は何を欲するのか Che Vuoi?」(カゾット『悪魔の恋』)という不気味な「母の欲望」(母なる鰐の口)との遭遇に。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。(コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

この遭遇において、主体は裂目を埋める機能へと還元される危険に陥る。つまり貪り喰われる恐怖、空虚に落ち込む恐怖、他者との混淆不安。要するに、大他者の享楽のなかに消滅する不安。

誤解してはならないのは、愛されれば愛されるほど「母なる悪魔」が顕現することであることである。

最も愛された子供は、いつの日か不可解にも母が落ちるにまかせる子供であるl'enfant le plus aimé, c'est justement celui qu'un jour elle a laissé inexplicablement tomber …あなたがたは知っているだろう、ギリシャ悲劇において…我々はジロドゥーの洞察を見逃し得ない…これが、クリテムネストラ Clytemnestra についてのエレクトラ Electra の最も深刻な不満である。ある日、クリテムネストラはその腕からエレクトクラを落ちるにまかせたのだ…(ラカン、S10「不安セミネール」, 23 Janvier l963)

なぜそうなのか。これはポール・バーハウが実に簡潔に記している。

構造的な理由により、女の原型は、危険な・貪り喰う大他者と同一である。それは起源としての原母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。したがって原母は純粋享楽という本源的状態を再創造しようとする。これが、セクシュアリティがつねに fascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスとタナトスの混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も自らが恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。(ポール・バーハウ, NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、1995年ーー世界は女たちのものである

これはなにもラカン派的偏見ではない。すぐれた作家たちはとうに気づいている。

女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

安吾を引用してもよい。

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。

私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。(⋯⋯)

三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。(⋯⋯)

 ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう!

 私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。(坂口安吾「をみな」)

安吾はいっけん想像的母のみを語っているようにみえるが、最後に《母といふ奴は妖怪だ》とある。これこそ母のイメージ(想像的な母)と全能の母(リアルな母)との重なり箇所にある真の穴 JȺ (斜線を引かれた大他者の享楽)としての母である。




 JȺ (斜線を引かれた大他者の享楽)とは、上に引用したコレット・ソレール曰くの「原リアルの名 le nom du premier réel」「原穴の名 le nom du premier trou 」であり、ーーラカンの用語遣いにおいては、穴 trou=穴ウマ troumatisme=トラウマ traumatismeであり、原穴の名とは原トラウマの名のこことであるーー、S(Ⱥ)というマテームでも書かれる。S(Ⱥ)、すなわち穴Ⱥ のシニフィアンである。


ところで、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人》も安吾の妖怪の母と似た表現ではなかろうか?

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

このニーチェの「最も静かな時刻」については、最晩年のデリダ(死の年)の注釈がすばらしい。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDA

ニーチェの「私の恐ろしき女主人」は、鳩の足(母のイメージ)のように近づいてくるようにみえて、実は狼の足(全能の母)で近づいてくるのである。

⋯⋯⋯⋯

さて実は真の問題は母にあるのではない。そうではなく《すべての女に母の影が落ちている》(ポール・バーハウ1999)ことである。

たとえば美しい女のイメージの背後には、貪り喰う母がいるはずなのである・・・

おどろおどろしいリアルな女は、ふとした弾みですぐに顕現しうる。

現実 réalité は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界 Réel である。そして現実界は、この象徴的空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être,1999)

イメージとしての想像的女ではなく、母のように世話をしてくれる象徴的女を愛する諸君もいるだろう。だがその背後にはきっと「リアルな女」(そしてさらにその背後には鰐の口の女)がいるのである・・・

ゆえに男はおおむねーー「意識的」ではない場合があろうと、すくなくとも「無意識的」にはーー、女を憎むことを愛し、女を愛することを憎んでいるのである。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳ーー「究極のエロス・究極の享楽とは死のことである」)

そもそも《女と猫は呼ぶ時にはやって来ず、呼ばない時にやって来る》(メリメ『カルメン』)のを経験していない男性諸君はいるのだろうか? しかも呼ばない時には狼の足でやってくる。これこそリアルな女である。

ああ、「世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし」(大田南畝)

現実界とはただ、角を曲がったところで待っているもの、ーー見られず、名づけられず、だがまさに居合わせているものである。(ポール・バーハウ、Byond gender, 2001)

ゴダール、(複数の)映画史


とはいえ、人は、荷風が愛した至高の狂歌詩人蜀山人を誤解してはならない、「世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい」(大田南畝)でもある。それはゴダールとともに、である。


『コケティッシュな女 Une femme coquette)』


⋯⋯⋯⋯

※附記

母の三界の図を再掲する。




今、記していて気づいたが、この図はフロイトによるシェイクスピア小論『三つの小箱』と、それに依拠したドゥルーズのマゾッホ論のなかの記述を当てはめればーー象徴的母の箇所にやや違和がないでもないがーー、次のように図示できうる。




フロイトとドゥルーズの記述は次の通り。

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女 Gebärerin、パートナー Genossin、破壊者としての女 Vẻderberin であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身 Mutter selbstと、男が母の像を標準として選ぶ愛人Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewähltと、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 Mutter Erde である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神 schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)


フロイトの文のなかに「母なる大地」「沈黙の死の女神」に抱かれることとあり、ドゥルーズの文のなかに「口唇的母=死をもたらす母」とある。

ラカンの享楽概念、ーー巷間で通常、流通している「享楽」とはじつは「剰余享楽」のことであるーー、究極の享楽とは、母なる大地に抱かれる死(生きる存在には不可能な享楽)のことである。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

ーー《死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance》(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)