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2017年11月27日月曜日

究極のエロス・究極の享楽とは死のことである

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

 いやあ、きみ! 「「分離タナトス」と「循環タナトス」」で示した図というのは、ある時期以降のラカン派内で、すでに言われていることを図式化しただけだよ。


ーーもちろんこれが「正しい」とはいうつもりはない。真理は非全体(非一貫的)なのだから。

わたくしは日本ラカン村でなにが言われているかは一切しらない。ネット上で断片を垣間見る範囲ではおおむね寝言だよ、善人たちのね。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。(坂口安吾『続堕落論』1946年)
(連中は)仲間の作品批評になると点が甘くなる。党派に依存するさもしさで、文学は常に一人一党だ。(坂口安吾『感想家の生れでるために』1948年)

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 たとえば2005年に臨床ラカン派によってこう言われている。

エロス欲動は〈他者〉と融合して一体化することを憧れる。〈他者〉の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、〈他者〉との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)だ。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は〈他者〉からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの解離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ2005, Paul Verhaeghe ,Sexuality in the Formation of the Subject ,私訳)

言葉遣いに若干の相違はあるが、これがわたくしの図式化したものだ。



以前引用したことを繰返して、バカにもわかるように整理すれば次の通り。


【享楽の漂流】
私は…欲動Triebを、享楽の漂流 la dérive de la jouissance と翻訳する。(ラカン、S20、08 Mai 1973)
反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
剰余享楽は……享楽の欠片である。 plus de jouir…lichettes de la jouissance (ラカン、S17、11 Mars 1970)

我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)


【究極の享楽は死】
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(S23, 16 Mars 1976)

《ラカンにとって、享楽と死の危険のあいだには密接した関係がある。Il y a donc pour Lacan une connexion étroite entre jouissance et risque de mort 》(A risque de mort Marga Auré、 2009

・死は快の最後の形態である。death is the final form of pleasure.

・死は享楽の最後の形態である。death is the final form of jouissance

(ポール・バーハウ2006,「享楽と不可能性 Enjoyment and Impossibility」)


【究極の享楽=究極のエロス】
エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合 Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
大他者の享楽 jouissance de l'Autre について、だれもがどれほど不可能なものか知っている。そして、フロイトが提起した神話、すなわちエロスのことだが、これはひとつになる faire Un という神話だろう。…だがどうあっても、二つの身体 deux corps がひとつになりっこない ne peuvent en faire qu'Un、どんなにお互いの身体を絡ませても。

…ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死に属するrelève de la mort ものの意味に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)


【性的非関係・欲動の身体】
すべてが仮象(見せかけ semblant)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性的非関係である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の身体)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは、性的非関係という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT

ーー真理としての《穴、それは非関係によって構成されている、性の構成的非関係によって。un trou, celui constitué par le non-rapport, le non-rapport constitutif du sexuel, 》(Lacan, S22, 17 Décembre 1974)


くりかえせば、上の図が「正しい」とは言わない。別の解釈もありうる。わたくしが(今のところ)依拠しているのは、今うえに掲げた文章群だというだけである。

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エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)