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2018年5月28日月曜日

無を食べる女たち


拒食症 anorexie mentaleとは、食べない ne mange pas のではない。そうではなく、無を食べる manger rien。(ラカン、S4, 22 Mai 1957)

なぜ拒食症は女たちに多く、男たちに少ないのか。


我々は、「無 le rien」と本質的な関係性を享受する主体を、女たち femmes と呼ぶ。私はこの表現を慎重に使用したい。というのは、ラカンの定義によれば、どの主体も、無に関わるのだから。しかしながら、ある一定の仕方で、女たちである主体が「無」を享受する関係性は、(男に比べ)より本質的でより接近している。 (ジャック=アラン・ミレール, "Des semblants dans la relation entre les sexes", 1997)

なぜ、女たちのほうが男たちにくらべて無により接近しているのか。

ここはジジェクのジョークで誤魔化しておかねばならない。

「あなたの姉さんの裸について、そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか?」 「姉の足のあいだに僕は奇妙なことに気づいたんだ」 「彼女の足の間には何もなかったはずですが」 「そこが不思議なんだ」。(ジジェク、無以下のもの、2012)

ーーこれはジャーロック・ホームズのパラフレーズである。

「そのほかに何か、私の注意すべきことはないでしょうか」 「あの晩の、犬の不思議な行動に注意なさるといいでしょう」 「犬は何もしなかったはずですが」 「そこが不思議というのです」とホームズは言った。(シャーロックホームズ 白銀号事件)

※いくらか理論的には、 「ラカン派的子宮理論」を見よ。

さて冒頭の「拒食症」に戻る。


ラカンは、ヒステリーにおける「身体の拒絶 refus du corps」(身体のストライキ)を何度か語っている。いわゆるヒステリーの女性の「身体側からの反応 complaisance somatique」は、「身体の拒絶」を隠している。彼女は「主人の道具 instrument du maitre」となる限りで、彼女の身体を引っ込める(分離させる)のである。

おそらく、私たちの時代に多発する女性の拒食症は、身体の拒絶の、最も範例的な様相を現している。人は考えうるかもしれない、拒食症は、ヒステリーの女性が、身体のイマージュを通して、女としての自らを任命しようと試みている。したがって、女性性の問いを解明しようとしていると。(Florencia Farìas、2010, Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、PDF

上の文にある《身体側からの反応 complaisance somatique》 とは、フロイトの症例ドラに頻出する《Somatisches Entgegenkommen》である。

フロイトはヒステリーの事例にて、「somatic compliance(身体からの反応 Somatisches Entgegenkommen)」ーー身体の何ものかが、いずれの症状の核のなかにも現前しているという事実ーーについて語っている。フロイト理論のより一般的用語では、この「Somatisches Entgegenkommen」とは、「欲動の根 Triebwurzel」、あるいは「固着」(欲動の固着 Trieb-Fixierung)である。(ポール・バーハウ 2004, On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics, Paul Verhaeghe)

フロイトの症例ドラからも引用しておこう。

ヒステリー症状には、どれも心身両面の関与が必要なのである。それはある身体器官の、正常ないし病的現象によってなされる、ある種の身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommenがなければ成立しない。(⋯⋯)

私が転換と呼んだ純粋に精神的な興奮が身体的な興奮に移行することには、それに好適な多くの条件がそろわねばならず、転換症状に必要な身体側からの対応 Somatisches Entgegenkommen は非常にもちにくいので、無意識からの興奮の発散欲動は、できるかぎり、すでに通過可能となっている発散路を使用することになる。……このように経路づけられた道の上を、興奮は新しい興奮源から以前の発散点へ流れてゆき、かくて症状は聖書の表現のごとく、新しい酒で満たされた、古い皮革に似るのである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』1905年)

結局、すべての症状の底には欲動の根が居座っているのである。欲動の根とは、ドラの例では、現実界的な口唇欲動(口唇享楽)であり、その上にある象徴的形成物、すなわち《症状の形式的封筒 l'enveloppe formelle du symptôme 》(ラカン、E66)が、神経性的な咳や嗄れ声、そして 失声症である(参照:真珠貝と砂粒)。

この欲動の核=サントーム(参照)が、中期ラカンがすでに次のように言っていることである。

フロイトは常に症状の機能について語った。すなわち症状はそれ自体が享楽である。FREUD a toujours dit de la fonction du symptôme : c'est qu'en lui-même le symptôme est jouissance. (ラカン,S13,27 Avril l966)

別の言い方をすれば、原症状=ひとりの女は、常に暗闇のなかに異者として蔓延っているのである(参照)。そして症状のない主体はない。ゆえに男も女にも「暗闇のなかに異者として蔓延るひとりの女」がいるのである。

まず肝腎なのは、次の図をじっくり眺めてみることである(下図の左欄にある「症状」とは象徴界的症状、右欄にあるのは現実界的症状(欲動の根、サントーム)である。


症状は、現実界について書かれる事を止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974ーー「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ

わたくしの理解では、たとえばアルトーの「器官なき身体」は、すべて右欄にかかわる。

ラカンは言語の二重の価値を語っている。無形の意味 sens qui est incorporel と言葉の物質性 matérialité des mots である。後者は器官なき身体 corps sans organe のようなものであり、無限に分割されうる。そして二重の価値は、相互のあいだの衝撃 choc によってつながり合い、分裂病的享楽 jouissance schizophrèneをもたらす。こうして身体は、シニフィアンの刻印の表面 surface d'inscription du signifiantとなる。そして(身体外の hors corps)シニフィアンは、身体と器官のうえに享楽の位置付け localisations de jouissance を切り刻む。(LE CORPS PARLANT ET SES PULSIONS AU 21E SIÈCLE、 « Parler lalangue du corps », de Éric Laurent Pierre-Gilles Guéguen,2016, PDFーーララング定義集

なにはともあれ、ラカンにとって、《ひとりの女はサントーム(原症状)である une femme est un sinthome 》(ラカン、S23, 17 Février 1976)であり、《ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. 》(JOYCE LE SYMPTOME, AE569,1975)

そしてこのサントームとは、《我々にとって異者である身体 un corps qui nous est étranger 》(ラカン、S23、11 Mai 1976)であり、すなわち《たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen》(フロイト『制止、症状、不安』1926年)である。

そしてこれが女たちに典型的に現われるのは、わたくしの考えでは、少女期から常に身体を意識せざるをえない(例えば月経)女たちの「子宮」におおいに関係する。

すなわち最も内的でありながら、規則的に外部から訪れる「マレビトとしての身体」(異物=外密=不気味なもの)に、男たちよりも格段に近しい女たちの身体に。




外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。それは最も親密なもの le plus intimeでさえある。外密は、最も親密でありながら、外部 l'extérieur にある。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité)