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2018年5月17日木曜日

「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ

ラカンの性別化の式のデフレーション」で記したことは、基本的部分は「二つの現実界」で既に記している。

ここでは簡略化して記す。

偶然性 la contingence を、わたしは、書かれぬ事をを止める cesse de ne pas s'écrire で示した。というのも、そこにはまさに出会い rencontre があるからである。(Lacan, S20、26 Juin 1973)

不可能性 impossibleとしての《 書かれぬ事を止めぬ ne cesse pas de ne pas s'écrire》現実界が、偶然的に出会いとして《書かれぬ事を止める cesse de ne pas s'écrire 》ーーこれが「テュケー」である。

テュケー tuché の機能、出会いとしての現実界の機能ということであるが、それは、出会いとは言っても、出会い損なうかもしれない出会いのことであり、本質的には、「出会い損ね rencontre manquée 」としての「現前 présence」である。このような出会いが、精神分析の歴史の中に最初に現われたとき、それは、トラウマ traumatisme という形で出現してきた。そんな形で出てきたこと自体、われわれの注意を引くのに十分であろう。(ラカン、S11、12 Février 1964)

だが、後年のラカンは、症状(原症状=サントーム=固着)は、《現実界について書かれる事を止めぬ》と主張することになる。

症状は、現実界について書かれる事を止めぬ le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)

要するに、精神分析において最も重要な現実界とは、この「三人目の女」における現実界なのであって、中期の「アンコール」までのラカン(「現実界の科学」のラカン)から、後期ラカン(「現実界のサントーム」のラカン)への移行がある、という考え方を、現在の主流ラカン派はもっているということ。

すなわち、

cesse de ne pas s'écrire (書かれぬ事を止める)

    ↓

ne cesse pas de s’écrire (書かれる事を止めぬ)

⋯⋯⋯⋯

ここで前回引用したミレールの発言を再掲する。

ラカンによって発明された現実界は、科学の現実界ではない。ラカンの現実界は、「両性のあいだの自然な法が欠けている manque la loi naturelle du rapport sexuel」ゆえの、偶発的 hasard な現実界、行き当たりばったりcontingent の現実界である。これ(性的非関係)は、「現実界のなかの知の穴 trou de savoir dans le réel」である。

ラカンは、科学の支えを得るために、マテーム(数学素材)を使用した。たとえば性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路 impasses de la sexualité」を把握しようとした。これは英雄的試み tentative héroïque だった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du rée」へと作り上げるための。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉する enfermant la jouissance ことなしでは為されえない。

(⋯⋯)性別化の式は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃 choc initial du corps avec lalangue」のちに介入された「二次的構築物(二次的結果 conséquence secondaire)」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 réel sans loi」 、「論理なきsans logique 現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。加工して・幻想にて・知を想定された主体にて・そして精神分析にて avec l'élaboration, le fantasme, le sujet supposé savoir et la psychanalyse。(JACQUES-ALAIN MILLER、2012、pdf

ーー《数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学 une science du réel」へと作り上げるための「英雄的試み tentative héroïque」》とは、次のことでもある。

セミネールX「不安」1962-1963では…対象a の形式化の限界が明示されている。…にもかかわらず、ラカンはそれを超えて進んだ。

そして人は言うかもしれない、セミネールXに引き続くセミネールXI からセミネールXX への10のセミネールで、ラカンは対象a への論理プロパーの啓発に打ち込んだと。何という反転!

そして私は自問した、ラカンはセミネールX 「不安」後、道に迷ったことを確かに示しうるかもしれない、と。セミネール「不安」は、…形式化の力への限界を示している。いや私はそんなことは言わない。それは私の考えていることでない。

ラカンはセミネールXXに引き続くセミネールでは、もはや形式化に頼ることをしていない。…あたかもセミネールX にて描写した視野を再び取り上げるかのようにして。

…不安セミネールにおいて、対象a は身体に根ざしている。…我々は分析経験における対象a を語るなら、分析の言説における身体の現前を考慮する。それはより少なく論理的なのではない。そうではなく肉体を与えられた論理である。(ジャック=アラン・ミレール、Objects a in the analytic experience、2006ーー2008年会議のためのプレゼンテーション)

ーーミレールの観点では、セミネール11からセミネール20までの10年間のラカンは、「科学の現実界」としての英雄的試みをした、ということ。

その流れのなかで、たとえば「幻想の横断」概念がある(参照:「幻想の横断」・「自由連想」・「寝椅子」のお釈迦)。

ラカンは幻想を、欲動を主体に統合し和解させる典型的な神経症的戦略として概念化した。ラカン的観点からは、この戦略は錯覚的 illusory であり、主体を反復循環へと投げ入れる。1960年代のラカンは、精神分析治療の目標を「幻想の横断 la traversée du fantasme」と考えた。これは、主体が幻想のシナリオを何度も何度も反復する強迫的流儀は、乗り越えるべき何ものかであるという意味である。…

しかしながら1970年代以降の後期理論で、ラカンは結論づける、そのような「横断」は、治療がシニフィアンを通してなされる限り、不可能であると。…

こうしてラカンは、彼が「サントーム」と呼ぶものの構築を提唱する。それは純粋に個人的な方法、ーー執着する欲動衝迫と同時に他者の優越をを巡っている現実界・想像界・象徴界を取り扱う純単独的な方法である。(Identity through a Psychoanalytic Looking Glass、2009、Stijn Vanheule and Paul Verhaeghe、PDF

標準的‐旧套的なラカン派臨床家から、ジャック=アラン・ミレールにたいする強い反発がある大きな理由のひとつは、この流れを捉えていないためだと考えられる。

ミレールにも落ち度はある。たとえばオートルエクリをはじめとした後期ラカンの著作を、21世紀前後まで手許に抱え込んでいて、ラカンの死後、20年も発表しないままだったのだから。

⋯⋯⋯⋯

※付記

「現実界の科学 une science du réel」のラカンとは、たとえば1971年の次の発言に典型的に現われている。

分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが現実界 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が現実界 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能性が現実界 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、現実界 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)