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2018年5月18日金曜日

愛のテュケーと愛のオートマン

ひとりの女はサントームである une femme est un sinthome (ラカン、S23, 17 Février 1976)
ひとりの女は他の身体の症状である Une femme par exemple, elle est symptôme d'un autre corps. (JOYCE LE SYMPTOME, AE569,1975)

※参照:「ひとりの女は異者として暗闇のなかに蔓延る

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以下、「「書かれぬ事を止める」から「書かれる事を止めぬ」へ」から引き続く。

ーー「書かれぬ事を止める」(偶然性)とは、テュケー、「書かれる事を止めぬ」(必然性)とは、オートマンである(ただしオートマンは、象徴界について「書かれる事を止めぬ」と、現実界について「書かれる事を止めぬ」の二種類がある)。


ジャック=アラン・ミレールは2005年のセミネールで、次の図を示している(Orientation lacanienne III, 8. Jacques-Alain Miller Première séance du Cours (mercredi 9 septembre 2005、PDF)




ーー赤線で囲まれている部分は、わたくしが記したものである。このミレールの図示、ーー中期ラカンの「常識」からしたら、いっけん逆のポジションにあるテュケー/オートマンを、ミレールがこのように記す理由は、「二つの現実界」を参照されたし。

さて上図を日本語で示せば、次のようになる。


いくらかの用語の補足をするために引用しておく。

「症状」と「サントーム」(=原症状・フロイトの「我々の存在の核 Kern unseres Wesen」・「固着 Fixierung」・「欲動の根 Triebwurzel」)の基本的な相違は、象徴界的症状/現実界的症状のことである。

①象徴界的症状、すなわち抑圧されたシニフィアン、あるいは欲動の心的表象

②現実界的症状、すなわち欲動自体にかかわるもの(Frederic Declercq、LACAN'S CONCEPT OF THE REAL OF JOUISSANCE、2004)

「欠如と穴」については、「ラカンの性別化の式のデフレーション」を見よ。

「存在欠如/存在」は次の通り。

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

「主体 sujet/言存在 parlêtre」については、次の通り。

parlêtre(言存在)用語が実際に示唆しているのは主体ではない。存在欠如 manque à êtreとしての主体 $ に対する享楽欠如 manqué à jouir の存在 être である。(コレット・ソレール, l'inconscient réinventé ,2009)
ラカンは「Joyce le Symptôme」(1975)にて、フロイトの「無意識」という用語を「言存在parlêtre」に置き換えた。…

21世紀における精神分析は変貌している。既に確立されているもの以外に、他の象徴秩序 autre ordre symbolique・他の現実界 autre réel を考慮しなければならない。…

「言存在 parlêtre」を分析することは、もはやフロイトの意味における無意識を分析することとは全く異なる。(以前のラカンの)「言語のように構造化されている無意識 l’inconscient structuré comme un langage」とさえも異なる。…

例えば、我々が、サントーム sinthome としての症状について語る時。この言葉・概念は「言存在 parlêtre」の時代から来ている。それは、無意識の症状概念から「言存在 parlêtre」への移行をあらわしている。……

ご存知のように、言語のように構造化された無意識の形成としての症状は、隠喩である。それは意味の効果、一つのシニフィアンが他のシニフィアンに対して代替されることによって引き起こされる症状である。

他方、「言存在 parlêtre」のサントームは、《身体の出来事 un événement de corps》(AE569)・享楽の出現である。さらに、問題となっている身体は、あなたの身体であるとは言っていない。あなたは《他の身体の症状 le symptôme d'un autre corps》、《一人の女 une femme》でありうる。(ミレール 2014、L'inconscient et le corps parlant )

ーーここで、ミレールは冒頭に掲げた後期ラカンのふたつの文に触れている。

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いくらか難解なラカンジャーゴン注釈を列挙したが、ここでの核心は、もっと単純に、冒頭近くに貼付したミレール2005年の図の左右区分である(それもおおむね分かっていたらよろしい)。あの図に示されている前提のもとで、次のミレールの「愛の迷宮」をーーとくに「愛のテュケー(愛の偶然性)」と「愛のオートマン(愛の自動性)」に焦点化させてーー読もう。

その前にラカン文をふたつ。

愛とは女神アフロディーテの一撃だということは、古代においてはよく知られており、誰も驚くものではなかった。 L'amour, c'est APHRODITE qui frappe, on le savait très bien dans l'Antiquité, cela n'étonnait personne.(ラカン、S9、21 Février 1962)
愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」(フロイト) の本源的要素……私が愛するもの……ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体 le corps de l'autreに転移させる transfèreときにでもやはりそうなのである。(ラカン、S9、21 Février 1962)


◆Les labyrinthes de l'amour' 、Jacques-Alain Miller、1992、pdf

人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。…

愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い rencontre ou hasard 》がある。

しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛のオートマトン l' automaton de l'amour」である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebes Bedingung》と呼んだ。

愛の心理学におけるフロイトの探求は、それぞれの主体の《愛の条件》の単独的決定因に収斂する。それはほとんど数学的定式に近い。例えば、或る男は人妻のみを欲望しうる。これは異なった形態をとりうる。すなわち、貞淑な既婚女性のみを愛する、或はあらゆる男と関係をもとうとする淫奔な女性のみを愛する。主体が苦しむ嫉妬の効果、だがそれが、無意識の地位によって決定づけられた女の魅力でありうる。
Liebe とは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。もっとも人は、ときに愛の条件と欲望の条件が分離しているのを見る。したがってフロイトは、「欲望する場では愛しえない男」と「愛する場では欲望しえない男」のタイプを抽出した。

愛の条件という同じ典礼規定の下には、最初の一瞥において、即座に愛の条件に出会う場合がある。あたかも突如、偶然性が必然性に合流したかのように(テュケーとオートマンの合金)。

ウェルテルがシャルロッテに狂気のような恋に陥ったのは、シャルロッテが子供を世話する母の役割を担って、幼い子供たちの一群に食事を与えている瞬間に出会った刻限だった。ここには、偶然の出会いが、主体が恋に陥る必然の条件を実現化している。…

フロイトは見出したのである、対象x 、すなわち自分自身あるいは家族と呼ばれる集合に属する何かを。父・母・兄弟・姉妹、さらに祖先・傍系縁者は、すべて家族の球体に属する。愛の分析的解釈の大きな部分は、対象a との異なった同一化に光をもたらすことから成り立っている。例えば、自分自身に似ているという条件下にある対象x に恋に陥った主体。すなわちナルシシズム的対象-選択。あるいは、自分の母・父・家族の誰かが彼に持った同じ関係を持つ対象x に恋に陥った主体。

われわれはーーすくなくとも男性はーー愛のオートマン(愛の自動性)の存在なのである。なぜか? (本源的には)ラカンのサントームのせいである。フロイトの固着のせいである(標準的な女性の場合、原初の愛の対象である母を、のちに父に移転させるので、男性の愛の自動性とはやや異なり、関係性を求める傾向をもつ)。

別の言い方なら、われわれは(おおむね)母による徴付け(固着)による反復強迫の存在である。

フロイトにおいて、症状は本質的に Wiederholungszwang(反復強迫)と結びついている。『制止、症状、不安』の第10章にて、フロイトは指摘している。症状は固着を意味し、固着する要素は、der Wiederholungs­zwang des unbewussten Es(無意識のエスの反復強迫)に存する、と。症状に結びついた症状の臍・欲動の恒常性・フロイトが Triebesanspruch(欲動の要求)と呼ぶものは、要求の様相におけるラカンの欲動概念化を、ある仕方で既に先取りしている。(ミレール、Le Symptôme-Charlatan、1998)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)
・「一」Unと「享楽」jouissanceとの関係が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

・サントームの名は、享楽の存在である。c'est ce que Lacan a épinglé sous le nom de sinthome, et c'est l'être de jouissance.(ジャック=アラン・ミレール2011, Jacques-Alain Miller Première séance du Coursーー「ラカンの性別化の式のデフレーション」)


原誘惑者に奇妙な徴をつけられたボクが、とってもヘンタイなのは、精神分析理論上、やむえないのである・・・

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。(フロイト『新精神分析入門』1933)
⋯⋯母は、子供を滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を彼(女)に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとっての最初の「誘惑者Verführerin」になる。この二者関係 beiden Relationen には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性 Bedeutung der Mutter の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象 Liebesobjekt として、のちの全ての愛の関係性Liebesbeziehungen の原型としての母ーー男女どちらの性 beiden Geschlechternにとってもである。(フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』草稿、死後出版1940年、私訳)
母へのエロス的固着の残余 Rest der erotischen Fixierung an die Mutter は、しばしば母 への過剰な依存 übergrosse Abhängigkeit 形式として居残る。そしてこれは女への隷属 Hörigkeit gegen das Weib として存続する。(同『精神分析概説』草稿)

ココデコッソリト個人的ナ秘密ヲ打チ明ケテオクガ、母だけではなく、ボクには、叔母のマルグリットがいたのである。

今でもすごくはっきりと覚えていることだが、 叔母のマルグリットがぼくの陰部を洗ったりこすったりするやいなや、 ぼくはなんとも言い表しようのない、 奇妙きてれつな、 けれどもまたこの上なく気分のいい感覚を味わったものである。 ぼくは、 自分のオチンチンがにわかに、 鉄さながらに硬直し、 それまでのようにブランブランとぶら下がる代わりに、 かま首をもたげているのに気づいたものだった。 すると本能的に、ぼくは叔母に近寄り、できるだけグンと腹をつき出したものである。

ある日、 ちょうどこんな具合になったとき、 叔母のマルグリットはとつぜんもみじを散らしたが、散り映えたこのもみじの色が、優雅な彼女の表情をいちだんと愛らしく見せた。 彼女はそそり立ったぼくのかわいいセックスに気がついたが、 何も見なかったようなふりをして、 ぼくらといっしょに脚湯をつかっていた母に合図を送った。 そのときカートはベルトの世話をやいていたが、 彼女はすぐにこちらに注意を向けてきた。 もとよりぼくは前々から気づいていたのだが、 彼女は姉のめんどうをみるのよりも、ぼくの世話をやくほうがずっとお気に召していて、この仕事のあいだに母や叔母に手を貸すチャンスはそつ なくものにしていた。いまや、彼女も何かを見たがっていたのである。

彼女は顔をこちらに向けて、 さりげなくぼくをながめ、 一方母と叔母は互いに意味ありげな視線を交わしていた。

母はペチコートをはいていたが、 少しでも爪が切りやすいようにとペチコートを膝の上のほうまでたくしあげていた。 むっちりと肉ののったきれいな足を、 力づよい美しいふくらはぎを、 白い、 丸々した膝をぼくの目にさらしたままだった。 こうして母の両脚に一瞥を投げかけただけで、 ちょうど叔母に体を近づけたと同じような効果をぼくの男性に及ぼした。 彼女がパッと顔を赤らめ、 ペチコートの裾をおろしたところをみると、 彼女にはきっと、 すぐにその気配がわかったにちがいない。

婦人たちはニヤニヤ笑い、 カートはゲラゲラ大声で笑い出し、 母と叔母のきびしい視線にあうまでその笑いをやめないほどだった。……

ああ、あの「夜咲きすみれ Nachtviolen」のようなマグネット女!





「叔母さん、 入りたくなければいいよ、 ぼくはパパに言いつけてやるから、 叔母さんがまたぼくのオチンチンを口にくわえたって」

こう言うととつぜん、叔母の顔が真赤になった。

事実、 彼女は昔ほんとうにそんなことをしたことがあったが、 といってもほんのアッという間のことだった。 あれは、 ぼくが風呂へ入りたくなくてしょうがない日のことだった。 風呂の水があんまり冷たすぎたので、 ぼくは自分の部屋へ逃げ込んでしまった。 叔母がぼくのあとから追いかけてきて、 とうとうぼくのかわいいあれを口にくわえ、一瞬唇でキュツと締めつけた。それがぼくにはとってもすばらしい気分で、 そこでしまいにはぼくもすっかりお行儀よくなってしまったものだった。

べつに、 これに似たような状況になったときに、 ぼくの母が同じふるまいに及んだことがあったが、 ぼくはこんな事実についての実例はたくさんに知っている。 男の子をお風呂に入れる女性たちはしばしばこのようなことをするものである。 これは、 ぼくら男性が、 女の子のかわいいわれめちゃんを見たり触ったりするときと同じ効果を女の子たちに及ぼすものだが、 ただ女性たちときたらそのお楽しみにさまざまな味付けをするすべを心得ているのである。(アポリネール『若きドン・ジュアンの冒険』須賀慣訳)



人生の初期、癖の悪い母や叔母をもつととんでもないことになるのである。

⋯⋯⋯⋯

※付記

こういうことを記すと、おまえさん、成熟してないんだよ、という「常識人」による批判がありうるが、それに備えるために、次のように引用しておかねばならない。

精神分析のラカニアンとして方向づけられた実践の実に根本的な言明…それは、どんな成熟もない il n'y pas de maturation 。無意識としての欲望の成熟はない ni de maturité du désir comme inconscientである。(ミレール、L'Autre sans Autre 、2013)

これはフロイトがすでに「残存現象」として記したことでもある。

発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。物惜しみをしない保護者が時々吝嗇な特徴 Zug を見せてわれわれを驚かしたり、ふだんは好意的に過ぎるくらいの人物が、突然敵意ある行動をとったりするならば、これらの「残存現象 Resterscheinungen」は、疾病発生に関する研究にとっては測り知れぬほど貴重なものであろう。このような徴候は、賞讃に値するほどのすぐれて好意的な彼らの性格が、実は敵意の代償や過剰代償にもとづくものであること、しかもそれが期待されたほど徹底的に、全面的に成功していたのではなかったことを示しているのである。

リビドー発達についてわれわれが初期に用いた記述の仕方によれば、最初の口唇期 orale Phase は次の加虐的肛門 sadistisch-analen 期にとってかわり、これはまたファルス期 phallisch-genitalen Platz にとってかわるといわれていたのであるが、その後の研究はこれに矛盾するものではなく、それに訂正をつけ加えて、これらの移行は突然にではなく徐々に行われるもので、したがっていつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける、そして正常なリビドー発達においてさえもその変化は完全に起こるものではないから、最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着 Libidofixierungen の残存物 Reste が保たれていることもありうるとしている。

精神分析とはまったく別種の領域においても、これと同一の現象が観察される。とっくに克服されたと称されている人類の誤信や迷信にしても、どれ一つとして今日われわれのあいだ、文明諸国の比較的下層階級とか、いや、文明社会の最上層においてさえもその残存物Reste が存続しつづけていないものはない。一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)