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2018年5月19日土曜日

「ちょっとだけ縛って」

他者の欲望の対象として自分自身を認めたら、常にマゾヒスト的だよ」でもいくらか記したが、サディストでもないあなたやボクは、愛する女に「ちょっとだけ縛って」と言われたときに、どう対応すべきであろうか?

露わになった腋窩に彼が唇をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。
「縛って」
(⋯⋯)
「腕を、ちょっとだけ縛って」
畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣があり、その傍に寝衣の紐が二本、うねうねと横たわっている。
京子の両腕は一層強力な搾木となる、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

こういった状況に陥ったことのない男性諸君はコウフクである。フコウな男は「ちょっとだけ縛って」にヤムナク応じると、女はどんどんエスカレートしてゆくのである・・・

あれ以来(?)、蚊居肢日記というフィクションの登場人物である「ボク」は、女たちが性交に楽しんでいない様子をみせると、縛らなくてはいけないのではないか、という強迫観念に襲われるしまうことがままある。

女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だêtre une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010)

とはいえ、緊縛は自宅やら殺風景な連れ込み宿でやるのはオススメしない。とくに自宅で緊縛遊戯をやるなどとはもってのほかである。

……夜になると、パパとママは仲良く腕を組んでお家に帰ってくる、少しばかり千鳥足で。パパが階段でママのスカートをめくる夜 …昔のようにパパがママとセックスする夜、無我夢中で、経験豊かな放埓さをもって …ママが呻き、優しくも淫らな言葉を思わず洩らし、身をよじり、反撥し、寝返りをうって、体の向きを変えて、パパにお尻を差し出す夜 … 

(…… )自分の家でエロティックであること。自分の女房を享楽し、彼女を悦ばせること、はたしてこれ以上に鬼畜のごとき悪趣味を想像できるだろうか? これこそこの世の終わりだ! 小説の滅亡! (ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

おそらく、たとえば日本的環境では、女中たちが聞き耳を立てているのが明らかな、密やかな温泉宿が最も好ましい。女中は、客がとりこみ中のときは、玄関の間でふすまを開けずに正座して、しばらく待っているものである。この状況は限りなくエロティックであった・・・10分以上待たせて、女中をむかえるためにこちらから襖を「唐突に」開けると、正座の膝が崩れている場合さえあった・・・





ボクの故郷の町から半時間ほどのところの新城という町には湯谷温泉があって、そこの「はづ木」という五部屋しかない宿が、「緊縛」のための最適の環境を備えていた。




いま「緊縛」などと記したが、ボクのやり方は、とてもカワイラシイ初心者風のままであり、おそらく誰もが容易に可能である。

椅子の肘に浴衣の帯で手足を縛りつけて開脚させて、一時間ほど旅館傍の宇連川まわりを散歩して帰って来るだけである。

ボクはもともと自然の風景はひとりで触れるのを好むのでこれはやむえない仕儀である。

ある夜、あんまり女がうるさく邪魔をするので、私は彼女をおさえつけ馬乗りになって、ありあわせのシャツやネクタイやで女の手脚をかなり強く縛った。女は、それに異常なほどの興奮で反応した。肩を振りこまかく喘ぎながら目が据わって、丸太棒のように蒲団をころげながら、女はシーツにおどろくほどのしみをつくったのだ。(山川方夫『愛のごとく』)




散歩から戻ってきて(女中とからまっているなどという稀有の状況以外は)「ほどく?」と訊ねてはみる。

煙草をつけて背後の女を振りかえった。……「ほどく?」と私は訊ねた。が、女は目で微笑するとゆっくりと首を振った。(……)私は何気なく女の目に笑いかけた。女も私を見て笑い、その目と目とのごく自然な、幸福な結びつきに、突然、私は自分がいま、狂人の幸福を彼女とわかちもっているのをみた。(山川方夫『愛のごとく』)

こうしてようやくマヌケ男とキチガイ女の不可能な出会いが、不可能でなくなるのである。

セミネールⅩⅩ 「アンコール」のラカンは、性カップルについて語るなか、「間抜け idiot 男」と「気狂いfolle 女」の不可能な出会いという点に焦準化する。言い換えれば、一方で、去勢された「ファルス享楽」、他方で、場なき謎の「他の享楽」である。》(コレット・ソレール2009、Colette Soler、L'inconscient Réinventé )

この旅館にはときにはとびぬかて軀の線が美しい女中がいて、渥美半島先端の海女が、季節外れの時節には、出稼ぎ仕事をしている、ということを女からきいたが、信憑性のほどはシラナイ・・・




私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら彼女らは千年の余、先祖代々同じ生業をくりかえし、海産物の生態に変化がなかった如くに、彼女らの生態にも変化なく今日に至っているように思われるからである。あいにく海女のシーズンではなく、彼女らの多くは他の土地へ女中かなんぞに稼ぎに出ているらしいので、海女村探訪をあきらめなければならなかった。ムリに押しかけて行って、武塔神の如くに南海の女をよばいに来たと思われては、同行の青年紳士にも気の毒だ。坂口安吾「安吾の新日本地理 01 安吾・伊勢神宮にゆく」)