2016年12月16日金曜日

歌う身体の神秘

ひとつの享楽がある il y a une jouissance…身体の享楽 jouissance du corps である…ファルスの彼方Au-delà du phallus…ファルスの彼方にある享楽! une jouissance au-delà du phallus, hein ! (S20、Février 1973)

ファルスの彼方とは、もちろん快原理の彼方のことである。象徴界の彼方の現実界、言語の、シニフィアンの彼方、こには反復強迫・死の欲動があるとされるが、フロイトはそれを別の論で「不気味なもの Das Unheimliche」とも呼び(参照)、ラカンは外密と呼んだ。私の最も内にある《親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(S.7)

もっとも「彼方」「彼岸」という語彙群は注意して扱わなければならない。

現実界は、形式化の袋小路においてのみ記される。[…le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation](ラカン、セミネール20、20 Mars 1973)

すくなくともある時期のラカンは上のように語った。 ジジェクの明瞭な言い方なら次のようになる。

現実界 the Real は形式化の行き詰り以外の何ものでもない。濃密な現実 dense reality が「向こうに out there」にあるのは、象徴秩序のなかの非一貫性と裂け目のためである。 (ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

とはいえ、たとえばこの三年後の叙述をどうとらえるかについて議論はある(ラカンの転回か否か)。

法のない現実界(le Réel sans loi)……本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre](セミネール23、13 Avril 1976)

…………

さて本題に入る。

現実界は話す身体の神秘、無意識の神秘である。Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient  (S20、15 mai 1973)

話す身体の神秘が、最も典型的に現れるのは歌う身体においてではないだろうか。そしてそれは女性が歌わなくてはならない。 ラカンの「女性」は、解剖学的な女とは直接には関係ないにしろ、多くの場合やはり関係がありうる。

◆Raquel Andueza y la Galanía, con Monteverdi




◆「ヒステリー者の身体ー女性の身体 Le corps de l'hystérique – Le corps féminin、Florencia Farìas、2010,PDF

ーー分析家も実は「女性」のほうがいいんじゃないか。Florencia Farìas はほとんど無名のアルゼンチンの女流分析家だが、とてもすばらしい。

話す身体の神秘 Le mystère du corps parlant…これは、ヒステリーの神秘 mystère de l'hystérie を表しもするし、女性の享楽 jouissance féminineの 神秘を表しもする。身体は両方を含んでいる。

ではどちらの身体? 精神分析家を関心づけるのはどちらの身体だろうか?

フロイトはその仕事の最初から、無意識は身体に影響を与えると強調した。だから、私たちが身体について話すとき、生まれながらに授けられた有機体を指してはいない。私たちは生物学的有機体としての身体と主体としての身体を区別しなくてはならない。

私たちは知っている。言語の効果のひとつは、主体から身体の分離することなのを。この主体と身体とのあいだの切断・分離の効果は、唯一、言語の介入によって可能である。つまり身体は構築されなければならない。人は身体と一緒に生まれてこない。この意味は、身体は二次的に構築されるということである。身体は言葉の効果である。

鏡像段階の研究を通して、ラカンが明らかにしたことを心にとめておこう。主体は、全的な統合された身体としての自己自身を認知するために他者が必要である。唯一、他者のイメージとの同一化を通してのみ、幼児は自身の身体のイメージを獲得する。けれども、言語の構造へのアクセス--つまり象徴秩序へのアクセスーーがイマジネールな同一化の必要条件である。したがって身体イメージの構成は、象徴界からやって来る効果である。

◆"Gretchen am Spinnrade" Franz Schubert



ヒステリー的女は、身体のイメージによって、彼女自身を女性 femme と見なそうと企てる。彼女はそのイメージにて、女性性 féminité の問いを解決しようとする。これは、女性性の場にある「名付け得ないものを名付けようとする nommer l'innommable」やり方である。彼女の女性性は、彼女にとって異者 étrangère なので、自分の身体によって、彼女は何なのかの秘密を握っている「他者なる女 l'Autre femme」の神秘を崇める。つまり、彼女は、「他の女 une autre femme」・「リアルな他者 un autre réel 」を通して、彼女は何なのかの問いへ身体を供えようとする。

ヒステリーからの女性性への道のりには、いくつかの事が残されている。症状・不平不満・苦痛・過酷な或は不在の母・理想化された或は不能の父・享楽である。享楽はときに子供をファルスの場に置く。女性の全身体マイナス母は、他者が必要である。それは分析の間に起こる。現実界のなかの介入は、分析家の現前を通して、当享楽の減算 soustraction を作動する。もっとも時にヒステリーと女性性は、両方を巻き込んだ或る複合によって統合されて現れるが、分析の進路においてこの二つの相違が瞭然となる。

ヒステリー的女が、彼女の身体的症状を通して、私たちに教えてくれるのは何か? ヒステリーの身体は、主体としてのその単独性に加えて、その受難・その転換(症状)を通して、話す。身体の象形文字は、ヒステリーの症候学においての核心であるソマティック(流動する身体)の機制に私たちを導く。ソマティックな症状は、現実界と言語とのあいだの境界点に位置づけられる。全ての「ヒステリー的作用 opération hystérique」は、症状の身体を封筒(覆い enveloppe)のなかへ滑り込ませることによって構成されている。
私たちは言いうる、ヒステリーは身体のなかの身体を再発明する réinvente un corps dans le corps、あたかも肉体 anatomie が存在しないかのように進みつつ、と。しかしヒステリーは肉体といかに戯れるか、そして大胆な身体的地理学 audace géographie corporelle を設置する症状をいかに奨励するかを知っている故に、症状の欲求に応じるイマジネールな肉体がある。歴史(ヒストリー≒ヒステリー)は身体的症状のなかに刻印される。純粋なヒステリーの目的は、リアルな身体 corps réel を作ることである。この身体、「症状の出来事 événement du symptôme」の場は、言説に囚われた身体とは同じではない。言説に囚われた身体 corps pris dans le discours は、話される身体 corps parlé・享楽される身体 corps joui である。反対に、話す身体 corps parlant は、享楽する身体 corps qui jouit である。(Florencia Farìas、2010)

すでによく知られているように(?)、《世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …》(ソレルス『女たち』)


「歌う身体の神秘」の「歌う」とは、たんに歌手によるものではない。たとえば弦楽奏者にももちろん歌う身体の神秘」がある。わたくしは映像を観賞するばあい、弦楽四重奏団には女性がすくなくとも一人は紛れ込んでいないと、どうもいけない。

◆Artemis plays Beethoven String Quartets op. 130 Presto - 2010





音楽は女たちのものである。音楽を男たち、あのあぶくども、似たり寄ったりの音楽家たちにまかせておくわけにはいかない。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)
まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっているのぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)

◆Jaqueline Du Pre & Daniel Barenboim - informal




まともな音楽家はかりにオチンチンがついていようとも、すべて女である。

歌をうたうとかさ、そういうことが大事だってことをもう一度思い出さなきゃ。大事なのは、音楽が非常にパーソナルな、個人的なものだ、一人ひとりの人間に一人ひとりの音楽があるということだからさ。-武満徹

晩年のミケランジェリはようやく女になった(脳溢血でステージで倒れた後だ)。

◆Arturo Benedetti Michelangeli: bis dopo concerto con Celibidache Debussy: Hommage a Rameau



→ミケランジェリが男だったころの同じ Hommage à Rameau(同じくらい名演かもしれないけれど)。

でもグールドはずっと女だったさ。武満? 彼はひょっとして一時的に男になったのかもしれない(名声を追い求めようとしたとき)。

グールドはロイス・マーシャルが好きだったんだな、とてもよくわかるよ

◆Lois Marshall & Glenn Gould perform "Ophelia Lieder"




彼女のシューマンやフォーレなんて絶品なんだけどな(ときにあらわれるヒステリー的荒々しさもふくめ)。

◆Lois Marshall sings "Dichterliebe" - LIVE!





ヒステリー、ヒステリーというが、言語を使う人間は基本的にヒステリー的である(強迫神経症とは、フロイト曰くの「ヒステリーの方言」である)。

ふつうのヒステリーは症状はない。ヒステリーとは話す主体の本質的な性質である。ヒステリーの言説とは、特別な会話関係というよりは、会話の最も初歩的なモードである。思い切って言ってしまえば、話す主体はヒステリカルそのものだ。(GÉRARD WAJEMAN 「The hysteric's discourse 」1982)

ーーってなわけでね。しかも、いささか精神病的気質をもっていそうなラカン自身、晩年はこういってんだから。

私は完全なヒステリーだよ、症状のないヒステリーだな…[ je suis un hystérique parfait, c'est-à-dire sans symptôme](Le séminaire xxiv)

…………

ヒステリーと女性性との相違、その近似性の解釈のひとつとしてGeneviève Morel のある意味決定的な解釈を掲げておこう。


◆READING SEMINAR XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality EDITED BY Suzanne Barnard, Bruce Fink、2002より

私は次のように主張する立場をとる。すなわち、ヒステリーと女性性は、ヒステリー的構造を持つとされる同じ女のなかに共存することが可能であり、したがって、ヒステリーとは常に部分的であり、女は彼女のヒステリーを超えてゆく、と。





私たちはこれを、開かれた集合としての非全体の女を表象することによって、シンプルに描写しうる。…ヒステリーは、それ自体の境界を含んだ閉ざされた「全体」として表象されうる。そして非全体の集合内部に位置づけられる。ヒステリーは「男の部分を演じる」ことによって構成される全体であり、それは「男である」こととは一致しない。(Geneviève Morel、FEMININE CONDITIONS OF JOUISSANCE)

※この文に現れる「男の部分を演じる」等、不明であるならば、「私は私の子宮で話している」を参照。